主の慈しみに生きる人

詩編31編15〜25節
ルカによる福音書14章7〜24節
2003年9月14日 (敬老の日礼拝)
経堂緑岡教会協力牧師 一色 義子


(1)敬老の日の感謝

 本日は、敬老の日、お元気でこの日を今年も、主の御祝福のもと、「新入生」をお迎えできて、真におめでとうございます。私たちの教会でも、高齢の方と共に教会生活を送れる恵みを心から主に感謝いたしましょう。高齢というのは、年齢を重ねるとか、経験を重ねるとかいうことだけが意味があるのではありません。主イエス・キリストの恵みを知り、主と共に生かされている、その日々の積み重ねが大切です。そしてそれぞれの方の存在が大切です。主の恵みに生きる方々と共に生きることができることが、教会という家族の広い、深い喜びです。心から感謝したいと思います。
 高齢になると、できなくなることもあります。若いときには思いもかけなかった体の故障もあります。ある方が、日々、信仰のみ、何の心配もされないようになったときに、「主におまかせして、祈りと、賛美歌を歌うことは忘れず」、という日常になられたと伺いました。本当に人生の長い日ごとに聖書と祈りと賛美の毎日を過ごされた積み重ねが、ものをいうのです。他の器官が動かなくなっても、それだけは休まず、日々新たな信仰でニコニコ過ごされているということは、なんというお恵みでしょう。
  『信徒の友』にも日野原先生のことが出ていますが、人間の脳の細胞のうち、実は半分も使っていない、日野原先生は75歳を超えてから、今まで使わなかった細胞を活用され、作曲されたと伺いました。私たちも今まで使わなかった細胞を活用して、何か新しいことを始められたら何といいでしょう。何か新しいことを始めること、そういう新老人を勧めておられます。神さまから与えられた日々です。何を始めなくても、日々新しく、主の恵みを感謝して、神さまにすべてをおまかせして平安にすごしておられる方の姿に教会の人々はどんなに励まされることでしょう。教会に高齢の方々がおられることこそ、教会のすばらしさ豊かさで、本当に感謝したいです。

(2)「お客に招待されたとき、恥をかかないように」

 さて、本日与えられました聖書は、主イエスがお話されたたとえですが、それは食事に招かれてその現状をごらんになりながら、感じられて話されたお説教のようなところです。お客に招かれ、またはお客を招くという今も昔もある日常の場です。
 まず、最初は招かれたときの心得です。イエスさまは何とじっとみんなの様子を見ておられることでしょう。「イエスは招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」(7節)と始まります。テレビでも、この頃、諸外国との会議で、外国の首脳や重鎮がたがそろって映るようなことがありますが、会議の写真を撮られる場面には、真中に入ったり、ブッシュ大統領の隣に立ったり、いろいろの思惑がある様子がほほえましく見えます。人間誰も重要視されたいし、上席を好むのです。ところが主イエスは、その人々の心理をよく見ておられます。「婚宴に招待されたら」というこの婚宴は、特別な結婚祝いというよりも「お祝いの席」程度の一般的用法と理解されます。

「上席に着いてはならない。あなたよりも身分が高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」(8〜10節)。

 確かにこれは日常、見られることです。そして主イエスは「誰でも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)と言われました。
 ここで私たちは、日常の中で主イエスが言われた神と人、人と人との関係のあり方を示唆されていることに気づかされます。神さまは私たち一人一人の存在をいとおしまれて、すべてを導いてくださる大きな愛の中で、私たちは生かされているのです。神との関係は、十字架に示される神の一人子を賜るほどに世を、私を愛されている関係です。どんなに自分が自分の存在を誇示しなくても、神はすべてを導かれているのです。その神への絶対の信頼が、私たちの行動に表れる。主イエスが「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われ、私たちにも「仕える者になるように」と言われた事を思いあわせます。私の立場を自分で守るのでなく、神さまにお任せして、神さまから与えられた一人一人の他者に謙遜に愛を持って接すること。心をへりくだること。どんなに人に仕えても、主の恵みの賜物は決して失われることはないのです。もしかするとこのたとえのように、心の向きが謙遜になるとき、かえっておのずからその賜物は輝くということも「どうぞ上席に」であらわしているかもしれません。こんな日常の人と人との関係の中に、キリストによる生き方を示されます。クリスチャンの謙遜さは、この神との関係に安定した土台があるのではないでしょうか。

(3)招待する側のこと‐人間関係の根本

 次に、招く側の心得とも思われることを言われます。これは文字どおりに「昼食や夕食の会を催すときには」という話ですが、この奥には、もっと深い意味で、神の国とは何か、その神の招きはどういうものか、を指しているといえるでしょう。

「友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(12〜14節)。

 その当時は、こうした貧しさとか、体の不自由な人とかを差別する社会だったにもかかわらず、主イエスは、それを超えて、すべての人が神さまに招かれている、その象徴のように、社会で差別されている人々の人権をはっきり大切にされた、といえるでしょう。それが神の国なのです。

(4)神の国の大宴会とは

 そうすると、ここでは主イエスと一緒に招待された食事の席という場の設定になっていますから、お客の一人が主イエスに「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」(15節)と言いました。この人はたまた招かれた人です。おいしいものを食べながら主イエスと一緒に招かれたことがうれしかったかもしれません。主イエスに話しかけたようです。それに対して、更に主イエスは、「招かれても来ない人がある。その人々は神の国の宴会の意味が、価値がわからない」というもっと厳しいことをいわれました。
 ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に「もう用意ができましたから、おいでください」(17節)と言わせました。ところが、皆次々に断りました。「畑を買ったので、見に行かねばなりません」(18節)。確かに大きな財産問題です。他の人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」(19節)と断りました。山羊一匹でも貧しい人には大切なものですのに、こんなにたくさんの牛です。これも、常識では仕方ないかもしれません。「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」(20節)。これも人生では大事な出来事です。せっかく招かれているのに、神の招きに対して、人間社会の周辺のことに心を奪われる。他者の配慮をないがしろにする。その中で神の国への招きへの拒否があることを示されました。
 主イエスのたとえでは、こういう断りの返事をもってかえってきた僕に、「家の主人は怒って」言いつけます。

「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れてきなさい。」(21節)。

 そのようにしましたが、まだ席が余っていました。主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」(23節)。神の国はそんなに場所があるのです。しかも、こちらの条件はないことをあらわしています。ただ素直に招きに応じることです。
 家の主人は「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない」(24節)と言われました。これが「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」(15節)という人に対して、主イエスが語られたことでした。私たちも教会に招かれ、赦されてここにいる恵みを本当に感謝したいと思います。

(5)主の慈しみに生きる人

 詩編31編に「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそ私の神』と申します」(15節)とあります。これは、脅かすものに取り囲まれていても、という詩編です。どんなときにも「あなたの僕に御光を注ぎ、慈しみ深く、わたしをお救いください」(17節)「『御恵みはいかに豊かなことでしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え』(20節)と歌います。

「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢なものには厳しく報いられる」(24節)。

 そして「雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人はすべて」(25節)と結んでいます。
 主の慈しみに生きる人とは何と有難い言葉でしょう。主の慈しみを感謝する道、わたしたちは、ただただ主イエスが十字架の上で死んで復活された、その絶大な恵みによって、こちら側の条件なしに招かれているのです。あの神の国の宴会に赦されて、招かれ、生かされている、その慈しみに生かされていることを心から神に感謝する毎日でありたいと願います。