良い知らせを伝える者

詩編19編2〜5節
ローマの信徒への手紙10章8〜15節
2003年10月12日 (神学校日礼拝)
経堂緑岡教会協力牧師 一色 義子


(1)神学校日に

 本日は、日本キリスト教団の年間の計画によりますと、神学校日です。イエス・キリストの教会に仕える伝道者になる志を主から与えられ、そのために準備をしている方々を覚えて祈り、励まし、またその準備をする一つの機関である神学校を覚える日です。私たちの教会にもその志を与えられ準備をすすめておられる方もおられることは何とお恵みでありましょう。皆で祈りの応援をしたいと思います。と同時に、その志を新たに与えられる方がありますように、と祈ることを怠らないようにと思います。主の教会がこの良い知らせである福音をますます伝えられるように、心をこめて祈リましょう。

(2)神の霊、神の言葉の充満の中で

 パウロはこのローマの信徒への手紙10章で、信仰のあり方、そして、それがどういう風に伝えられるのか、という伝道の本質を語り送っています。
 まず、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(申命記30・14)との言葉を引用して、神の御言葉、神のご意志、神の臨在は、わたしたちの周りに満ち満ちている、と指摘します。またこの言葉の直前にも、

「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難し過ぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、『だれかが天に上り、わたしたちのために其れを取ってきて聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』というには及ばない、海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、私たちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』というにはおよばない」

とあり、神のご意志が、本当は、ごく身の周りにある、と強調しているのです。私たちは神さまを捜すことが難しいように感じるのではなしに、誰かに頼むのでもなしに、むしろじっと静かに心を傾けるときに、すでに神さまは近くにおられる、のです。
 詩編19編も、その神様の近くにいますことを、美しく力強く語っています。神の言葉を空間的にとらえて天や大空にも、時間的にとらえて夜にも昼にも、「話すことも、語ることもなく声は聞こえなくても」、四六時中、そしてどこの果てでも、「その響きは全地にその言葉は世界の果てに向かう」と神の言葉、神の霊の充満を力強く歌い上げています。私たちはとかくそれに気づかないのではないでしょうか。

(3)信仰の言葉とは

 その神の言葉をパウロは、新約聖書の光のもとで言い換えて「これは私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」と言います。そして、更にその内容は、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」とずばりと語ります。これこそ福音の中心です。
 このイエス中心の信仰こそ、「良い知らせ」の本質です。何と具体的でしょう。パウロは更に「イエスは主である」ことと、神がこの「イエスを死者から復活させられた」と、主イエス・キリスト、そのお方を伝えることこそ、福音だと重ねて言っています。ここで明確に、十字架につけられ復活させられた主イエスと言うお方に集中しています。そして、私たちと世の終わりまで、共にいてくださる主イエスを信じること、これがキリスト中心の福音のメッセージと示しています。
 更に繰り返すように、発展させて、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と前後を言い換えながら、「心で信じること」であって、律法の行いではない、ただ信じる信仰によって、義でない者を義としてくださるキリストを強調しています。ここにパウロが繰り返し継げている信仰のみによる信仰義認が告げられています。
 御言葉を受ける者の資格は、誰にでもあるのです。ユダヤ人とかギリシャ人の区別はなく、すべての人に、ひいては今のわたしたちにも、こちらの社会的な立場には関係ないというのです。万人に対して、同じ主がおられ、「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と強調されるのです。

(4)良い知らせを伝える者の足

 「ところで、」と声をあらためて、「信じたことのない方を、どうして呼びもとめられよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」主イエスを知らなければ信じることも出来ません。「また」主イエス・キリストのことを「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」と畳み掛けて伝達の使者の必要を言い、その上「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」あちこちへ派遣されてこそ、そのみ言葉がまだ知らない人々に伝えられるのですから、派遣されてそれを伝える人々を、「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」と、イザヤ書52章7節以下を引用しています。
 その箇所は

「いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ……」

と祝福に満ちた伝達の喜びの波及を語っています。まさにそれが福音の伝えられたところ、そのものです。
 何と旧約聖書では、足という語が174回使われていますし、新約聖書でも72回用いられています。足は重要なのです。私たちが立っているこの足という意味と同時に、ヨシュア記では

「全知の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から水がせき止められて壁のように立つであろう」

というような言葉もありますし、

「あなたの足を踏み入れた土地は永遠にあなたのもの」

という約束にも使われています。また主の守りについて「主の慈しみに生きる者の足を主は守り」と(サムエル記)あり、詩編でも何度も「私の足がよろめくことがないように」主の守りを祈り、「平和を告げるものの足」と象徴的にも用いられています。「足」は神の強い支えを語っています。
 一方、新約聖書では、香油を主の足に注いだ女性が登場しますし、主イエスが弟子の足を洗われて、「私があなた方の足を洗った。あなた方も互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13章)といわれました。ここには神と人、主イエスと人々との関係に加えて、互いの関係を、しかも仕えあうことに、言及されています。最も卑しい部分の足が、互いに仕えあうこととして語られているのです。主イエスの福音は、主イエスご自身が、「仕えられるためではなく仕えるために来た」といわれたように、他者を先に立てて仕えるという姿勢でした。それこそ、キリスト者のキリストに習う道です。パウロも文字通り本当に足で歩いて福音を伝えました。多くの宣教師たちは、そうして海を船でわたっても、後は足で奥地までいきました。

(5)伝道者の歩かれた跡

 先週、ある機会に、一時間に一本しかない電車にゆられて、その昔、江戸時代には東海道五十三次の一つだったという町に寄りました。低い古い山また山に囲まれた平野のその電車を降りて300メートルほど歩いたところに、なんとしゃれた教会が立っていて、幼稚園もあり、町の重要文化財の立て札が立っているのです。その教会は1880年に女性牧師によって始められたと、初めて知りました。今の会堂は1930年代に近江八幡のメンソレータムのヴォーリス宣教師が立てて寄付したものだと伺い、驚きました。こんなところにも教会がある、そしておどろいたことにその古い町並みに住む人々の中に何代ものクリスチャンがいる、というのです。小さなキリスト教の教会幼稚園に70人を超える園児がいる、というのです。あまりにも古い町なみと足をもって伝道してきたキリスト教の信仰がこうして、伝えられているのです。かつてその教会はもっと古い街道にあって、とんがり屋根のとても小さな教会でした。ところが、クリスマスに、隣のお姉さんが連れていってくれた、二、三才のこどもたちには、とてもたのしかったので、一生心に残る初めて福音の喜びに触れたときでした。そのこどもたちの中から、後に熱心なクリスチャンになった者が出ているのです。子供も伝道しているのです。

(6)イエス・キリストを知らされて

 私たちは神さまの愛の中に生まれ、人生を過ごしているのです。ただそれになかなか気づかないのではないでしょうか。主イエス・キリストの十字架と神による復活、それが私の存在をあるがままにうけいれてくださる契機である、と知ると、つっぱっていた肩の荷がおりて、安心して神さまにおまかせして日々を送れるのではないでしょうか。このイエス・キリストに頼り、絶対にくつがえされない愛を信じて生かされること、それが信仰ではないでしょうか。信仰とは神の愛への呼応です。
 では、その神の愛への呼応の生きかたはなんでしょう。先日AVACOの会があって、将来のことなどを語りあっていたときに、かつてのある宣教師の方が、「このAVACOの活動は戦後の日本への北米の協力によって建物が出来たのだけれども、それは大きな財閥とか大金持ちが寄付したのではなくて、つつましい教会の人びとみんながその当時の戦後の日本に必要だと日本の伝道を祈って、教会の人びとが自分の小さな収入を裂いて献金したものを集めてできた尊い祈りの結晶なのですよ」とあらためて今言われてはっとしました。私たちはそうした絶え間ない祈り、それも自分たちのみでなく、他の人々のために祈りと献金がささげられていた、その恩恵に浴していたことを忘れていたのではないか、と知らされました。イエスを知った者は他者のために心を尽くさないではいられないのです。

(7)伝道は常に、誰でも

 恵泉女学園を創設した河井道子先生が、病気がひどくなり、昏睡からふと覚めて、足が痛いのに気づいて、でももう意識が普通ではなかったとき、「この足、伝道に使う足だから大事に包んでくださいね」と言われて、その頃まだパウロの言葉を知らなかった私は、あとで一生懸命聖書を探して、ここを見つけたことを思い出します。
 祈りとともに、伝道は、ゆっくり足で歩いて、高速ではなく、静かに人々のペースで伝えられるもの、あらためてお互いその福音の「よい知らせを伝える者」にされたい、それは牧師だけではないのです。生きるという現場で、主とともに生かされ、主イエス・キリストを信じて救われた喜びを他の人びとに伝えること、それをすべての人に伝えることを私たちは主から託されているのではないでしょうか。この恵みを感謝して、お互いに励みたいと願います。