新しい光を輝かそう

イザヤ書40章25節〜31節
マタイ福音書5章13節〜16節
2004年1月4日
経堂緑岡教会  協力牧師 一色 義子


(1)「光あれ」光をくださる神

 新しい年!! 主イエスキリスト 万有の源なる神 活きて働く聖霊に栄光あれ。新年おめでとうございます。
 未知の年の初め、どなたも、この年が主の恵に満ちて感謝で明け暮れるようにと、祈る思いは同じでありましょう。
 2004年の最初の主の日、まず、創世記1章1節「初めに、神は天地を創造された。」神が「光あれ。」と言われ、「光があった。」との御言葉で礼拝を始めました。この年も光の神の御支配の時なのです。まず、神さまに感謝しましょう。
 ローズンゲンの『日々の聖句』の元旦の項に主イエス・キリストが「わたしを信じる者が誰も暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世にきた」と御自身のことを言われたとあります。この一年も、神の光である主イエスの深い愛の光の中で必ず守られていることを信じましょう。

(2)創造主なる神

 イザヤ書40・25〜26には、「聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」と、確実に的確に神さまを指し示しています。私たちはその神さまのもとにいるのです。それから次ぎ(40・27)で、「ヤコブよ、なぜ言うのか」と神さまからみればいと小さき個人の名を呼びかけています。もちろんこのヤコブというのはイスラエルの父祖アブラハムの子、イサクの子のヤコブであると同時に人類一般に及びます。しかし、具体的に名をあげているところに、私たちは、はっとするのです。それは神さまはそれほど具体的、実際的に一人一人を指示されるからです。「わたしの道は主に隠されている、」とか「わたしの裁きは神に忘れられた、」とか「なぜ断言するのか」と。それはとんでもないことです。民族も個人も、神様はわたしのことを決してお忘れにはならない、そんな不信仰な心配を考える必要はない、というのです。

(3)とこしえにいます力ある神

 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。」(40・28)と主はこの私にも呼びかけて下さり、

「主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。」

というこの主に私たちはより頼んでいるのです。
 今月イランでは震災が起こり手をさしのべるにも、数人の赤十字の医師団では決して足りない、この地球は天災だけでも到底救援が間に合わない状況なのに、一方では戦争が続いています。今、本当に平和を願います。もう戦争はごめんです。人類は戦争ではこの地球を確保することはもう出来ない、そのくらいの知性を得てもいいはずなのに、既に戦争を知らない世代が国政を司り、世界を動かすのを見ます。あの敗戦の時、小学6年生であった今の天皇陛下は平和の大切さを知っておられるのです。「日本の国民またすべての人びとが幸せに」という新年のお言葉は、そのお気持ちをこめられての事でしょう。でも、新聞から平和という文字が小さくなり、消えていることに気がつきます。
 このイザヤの預言は、イスラエルの国が平和の危機にありながら、尚、神の絶対の支配を力強く歌うのです。と同時に、主は私という個人の救い主でもあり給うのです。ある女性宣教師の方が、重病で大手術をされる直前に、見舞いに来た若い日本人の牧師が、このイザヤ書40章を読んで祈ったのですが、その祈りに励まされて無事に手術を終え、回復した時、その聖句(29〜31)に曲をつけて英語と日本語で歌いました。まだどこにも収録されてはいないでしょうが、すばらしい讃美歌です。

疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

 こんなに主による望みの光が注がれているのです。

(4)注がれる主の光

 マタイによる福音書5章を読みましょう。主イエスがこれを語られたのはあの辺鄙な、ガリラヤ湖畔の山の上で、集まってきた群衆にでした。礼拝や律法の専門家でもない、普通の人たちにです。その人たちに主イエスは、「あなたがたは世の光である。」(同14)と言い切られました。
 5章の最初の部分は有名な山上の説教「九福の教え」です。それは実に、私たちの日常にある不条理、決して成功者とは認められない、貧しく、悲しむ人、柔和ゆえに損をしている人、義に飢え渇く人、憐れみ深く、つい人のことに夢中になる人、心の清い、欲望のない人、喧嘩がきらいで、平和を貫きたいと願い、義のために迫害され、また信仰のために誤解されたり、覚えのないことで悪口をいわれ…。
 わたしたちはこうした日常の些細な無理解にも傷つくのです。もうごめんだとけりをつけたくなります。けれどもそれは私たちの見方が、あくまでも自分たちの状態に目をむけている証拠ではないでしょうか。もし私たちが神様に心の焦点をしっかり当てて、新年に新たに神を仰ぐ思いに集中すると、

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。」(ヨハネ3・16〜18)

「真理を行う者は光の方に来る。」(同3・21)

と気づき、クリスマスを祝った私たちは、今こそ主イエス・キリストの十字架によって、日々に赦されて生かされる新しい出発の時であると気がつくはずです。

(5)あなたがたは世の光である

 こういうわたしたちに主イエスは、「あなたがたは世の光である。」(マタイ5・14)と宣言されました。光は「燭台の上に置く。」(同5・15)「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(同5・16)と。なんと積極的な生き方でしょう。これを主イエス・キリストは、わたしたちに望んでおられるのです。
 しかし、私たちが発光体であるというはずはない、主イエスは「わたしを信じる者が闇の中を歩かないようにわたしは光として世にきた」といわれました。神が光あれと言われると光が出来た、キリストの光を受けると、土の器のようなものであろうと、紙切れのように命のとぼしいものであろうと、主の光をうけて光ることができるのです。
 そうしてキリストの十字架の愛を反映したとき、人びとが、「あなたがたの立派な行いを見て」私をほめるのではなく、「あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5・16)とはっきりわたしたち小さい者の存在の真の意味を示しているのです。
 この使命を2004年に主から頂いているのです。誰もがわたしには力がないから例外だ、と思うのは主の力を信じていない証拠です。わたしの光はその光源が主にあるのです。主は私に、ちょうど良いように光る場をくださるのです。ある人は宇宙に飛んでいって光を輝かすかも知れないし、ある人は家の中の燭台で光るかも知れませんが、その家が主の愛の光に満ちて外の人がなんと輝いている家かと励まされるかもしれない、主イエスキリストは私たち一人一人に光になれと望んでおられるのです。主の光をたっぷりうけて、教会の祈りと交わりの中で、共に日々、新しい光をいただきながらご一緒に励んでまいりましょう。