今、時のある間に励め

〜降誕節第9主日礼拝〜
箴言9章10〜12節
ガラテヤの信徒への手紙 6章2〜10節
2004年2月22日
経堂緑岡教会    協力牧師 一色 義子


(1)時を持つ

 「今、時のある間に」というこの伝道者パウロの語る言葉は、いつの時代にも切実な現実の事実です。これは「時を持つ」とでも言う表現ですが、まさに私たち一人一人は今という時を持ち、今という時を生きているのです。これはだれもが私から取り去ることのできないものであり、宝でもあります。これがただの時間の経過としてしまうのではなく、有意義に生きる時としてしっかりと意識し、認識したいと思います。
 昨日のことも十年前のことも思い出しますけれども、それはすでに過去となった心の中に生きる情景でありますし、将来のことをいろいろ夢みますが、それはまた想像の世界であって必ずしもそうなるとは限らないのです。
 今という時のある間というのはまことに得難い、けれども誰もが持っている大切なものなのです。その時をどう生きるかが私たちの人生を決めるのです。
 赦されて、積極的に、前むきに、感謝して用いることの出来る大切な瞬間、瞬間ではないでしょうか。
 それは過去と連続していますけれども、過去と同じに生きなければならない時ではなく、新しくも感じ、新しく生きてよい真新しい時なのです。

(2)ガラテヤの信徒を愛して

 パウロは敬愛するガラテヤのいわばまだこども期にあるかのような教会に対して深い愛と励ましをもってこの手紙を書いています。パウロの実際の気持ちがにじみ出ているようです。あの言いかたこの説得のしかたと手をかえ品をかえ一所懸命愛する教会の人びとが惑わされないように、福音そのもののみに生きるはずのことを説いています。ここに私たち何時の時代にも共通するものがあるのではないでしょうか。

(3)互いに重荷を担う

 パウロはここまで懇切に説いたあと、手紙を終えるあたりになって結論めいて、ともかく『互いに重荷を担いなさい』といきなり言います。積極的な生きかたを具体的に言いました。
 主イエスの教えを少しでも生きようとするのなら、その根本に『互いに』というところにポイントがあります。私に与えられた時を自分だけで生きるのでなく他者と共に生きることなのです。主イエスはわたしたちを友と呼んでくださいました。そして、どんなに困難にある者も病気の者も、新しく生きなおさせてくださったのです。キリストによって赦された者の生活姿勢の根本は本当にお互いのことを主イエスに倣って常に心に入れよう、そして互いに重荷を担おう、という単純明快な姿勢です。

「そのようにしてこそキリストの律法を全うすることになるのです」

とパウロは言います。それこそ、主イエスご自身が「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15・12)といわれたことと重なります。互いに愛しあう、ということは互いに重荷を担う相互性が不可欠です。

(4)欺くとは

 そして次に3節4節で、互いという人間関係の中で自分というものが何か、ということを丁寧に分析しています。

『実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう』

 なにか大変厳しい気もします。でもここでは「自分をひとかどの者」と思うことは自分を欺いている、といいます。欺くということは、このごろの私たちの社会では何と多いのでしょう。
 先日、履歴をいろいろに言い直す議員さんがあらわれて、カリフォルニア州立大学などやアメリカの大学はたしかに日本ほど受験騒ぎはないのですが、入ってからは意外と厳しく、ルーズに見えて管理はばっちりです。私は日本で大学の開校式の公務のため飛行機が朝ついてたった一時間授業に出られなかっただけで、その一時間が欠ければ卒業単位はもらえないというので、補足のためいくつもレポートを人一倍余計に提出させられて、着いた当日の宿題に重ねて母国語でもないのに本当に苦しく厳しかった経験があります。
 欺かないということは社会生活の基本ではないでしょうか。それもここでは自分自身を欺く、といっています。なんと厳しい言葉でしょう。

(5)自分を他者と比べない

 ただここで「自分に対してだけは誇れる」というのは自分は自分なりに一所懸命努力した、よくやった、と自分を認めてあげることは出来るというのです。それは大切なことで、神さまから与えられた賜物が各自必ずあって、私なりにはそれを使って活動した、ということを私が認めることは大事です。私たちは子供や生徒や学生たちには、あなたはそれでよい、自分を受け入れなさい、そのままでよいという風なことを言って自分を大切にして、自分への神の恵を感謝することを勧めます。聖書にも『自分のように他人を愛しなさい』ともあります。わたしにはこれで恵みが十分だということをパウロも別のところで言っています。が、問題はそれを他者と比べるということの問題性を言っているのです。外から見て他者とくらべる、ということ自体が問題で、それぞれ神さまからの賜物があって、それを人と比べない、ということではないでしょうか。他者は他者でそれぞれの優れた点があるということと自分とは別問題です。人生は、そして神の恵みは誰にも十分に与えられているのであって、それは算数の計算のように誰が足しても引いても同じ量の答が出るというものではないのです。神様からいただいた恵みはそれぞれ皆ちがうのです。その恵みの中で自分は自分なりによく励んだ、それは客観的にくらべられないもの、それぞれ神様から与えられた責任は相違しているのです。「めいめいが自分の重荷を担うべきです」と5節以下で繰り返し言います。

(6)霊に蒔くもの

 他者を欺くことが出来ても、自分を欺くことが出来ても、7節で『神は人から侮られることはありません。』とすべてを正確にみておられる神さまの前で、その御支配のもとにわたしたちはいる、神様ほど正確で、十分な判断はないのです。
 箴言9章に『主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別のはじめ。』といっています。神さまを知るということが欺きのない人生になるのです。しかもそれは必ず実を結ぶというのです。
 そこで、誰もが目で見て知っている種まきという日常の一番原因と結果が明瞭に出る例をパウロは指摘しています。自分の肉に蒔くもの、すなわち見える栄誉を狙うもの、と霊に蒔くものという見えない神の御こころを求める姿勢を対比して、霊なる神のみこころを求める姿勢こそ、永遠の命、永遠の価値に通じると断言しています。
 私たちはこういうことを教えられるとは何と幸いなことでしょう。
 人生の選択の問題です。私はどちらを選ぶのでしょう。教会に来ている者は、もとより、霊を、キリストによって生かされる霊なる価値を尊重します。

(7)神の時は必ず来る

 そこで、パウロは「たゆまず善を行いましょう」と提案します。しかも『飽きずに励んでいれば』とはお見通しのような言い方ではないでしょうか。毎日、毎日変化のない明け暮れで、と人生に少々面白くなく思う時もあることをパウロは承知しているのです。そして変哲もない日常でも飽きずに励んでいれば『時が来て実を刈り取ることになります。』それは必ず実るというのです。
 互いに重荷を担う、ということは、時がくれば、実る、という達成点がある、ということです。神さまは私一人をも絶対に放置されない、ということです。
 この聖書の個所の『時』は、カイロスという言葉が用いられています。これは主イエスがマルコによる福音書1章15節で『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と福音を開始され、神の国の恵の成就の時に言われた「時」と同じ語が用いられています。主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちに賜った神の恵みの時、めいめいが神さまから与えられたその時なのです。

(8)「わたしの荷は軽い」と

 主イエスは『疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう・・・わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである』(マタイ11・28)といわれました。「互いに重荷を負いなさい」ということはすべてに愛をもって神の国、神のご支配を信じることに一致します。私たち他者のために十字架を負ってくださった主イエス、そしてそこに復活の希望を現実として示してくださった主イエスの最大の重荷を負う生きかたの中に真実にわたしたちが今学ぶ生きかたがあるのではないでしょうか。

(9)今、時のある間に励みましょう

 若い時に将来を夢みて、ああいう成功をおさめよう、とか進級するようにとか、地位向上、あるいは給料の増加とか、さまざまの見えることで家族を養おうとか、希望を完成させたいとか、考えた時も大事ではあるのですが、ある高年に達したとき、一日一日の繰り返しのような日々のなかに、神の愛の中で、さらに神の栄光により賜った「時」が私たちには生きるかぎりあるのです。そして、主イエスが示されたようにすべてに愛をもって神のご支配を意味する神の国を信じて、互いの重荷を担う光栄ある主イエス・キリストの教会の使命が一人一人にある、と一層示されるのではないでしょうか。その重荷は主イエスが共に負ってくださる軽くしてくださる重荷を担う光栄の時、互いに真実に愛しあう時、として日々を「今、時のある間に」励みたい、そのように生かされ、生きたいと願います。