信仰による勝利

士師記6章36〜40節
ヨハネの手紙一5章1〜5節
2004年8月8日
経堂緑岡教会 協力牧師 一色義子

(1)平和の月

 8月は平和の月、といわれるようになってやがて60年になろうとしています。一昨日、8月6日の金曜日には、当教会で西南支区の「平和と核廃絶を祈るつどい」が持たれました。礼拝と祈祷会の後、しばらく懇談の時に、岩本功兄から、従兄弟のお子さんが四竈揚先生の中学の親友で、寸時の違いでそちらの方は犠牲になられたと伺いました。また教会員の松本ミサ江姉の叔父さまになる松本卓夫牧師も、広島女学院長で学校に出勤されたお留守宅で奥様が犠牲になられるなど、多くの方々に身近なことです。  最近、広島の女学校二年生の勤労動員病院跡からその女子学生の名札が発見されて、実のお兄さまにそれが返されたと、新聞に少女の写真が載っていました。
 戦争は終わった、といわれてから半世紀以上を経ても、私たちの周辺のかなりの数の方々にとって、その傷跡はいまだに消えてはいないのです。戦争の犠牲というのは人びとに、その社会に、地球に、実は何時までも傷つくものであることを、本当に人類は知らなければならないと痛切に感じます。
 でも戦争中の報道といえば、「勝利」「勝った」という言葉が氾濫していました。如実な事実は、戦争は勝つか負けるかでしたが、今日さまざまな地域で戦争がくりかえされているのを見ますと、勝つということが、何に勝っているのか、とあらためて考えさせられます。核保有か否かと問いますが、原爆の恐怖は、誰ものがれられない。核問題は国際社会をおびやかしています。戦争とそこにかかげられる「勝利」は、本質において勝ち負けとはいえないのではないか、とさえ思わされます。そこには、人間が他者と共存するのではなく、征服による強制的な忍従というパターンの助長であることを如実にしめされます。

(2)ギデオンの信仰

 今日は士師記の個所が与えられていましたので、ギデオンの話をよみました。ギデオンはミデアン人にいじめられている民で、わけてもギデオンはそれがこわくて隠れて小麦をうっていたという実に弱虫でした。ところが、そのギデオンに神が使命をあたえられます。神は私たちに世の基準では弱いと見えるものをお使いになるのです。その場合どうするのでしょう。
 まず、ギデオンに神さまのお使いはなんと、「偶像礼拝のバアルの祭壇を壊し、その偶像のアシュラ像をこわして薪にして」、という過激な要請をされます。こっそり神さまの要請を実行するのではなく華々しく裁断するのですから、並の決意ではないのです。ギデオンはそれが神のご意志との確認を得たい、その必死な気持ちが「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら」と、「羊の毛にだけ露がおかれ、翌朝は羊の毛だけが渇いているように」、そう神の御意志を問うのです。ここには何を見たかというこの形よりも、まず、真剣に神のご意志とむきあい、それを問う信仰があります。神はすべてをなさる方。たとえ人びとの常識では到底無理と考えられることであっても、神にはそれをくつがえされるほどの成し遂げられる力があるのです。
 私たちはどうでしよう。人びとの世の常識を超えた神の御はからいに対して、信頼して神の望外なご計画にも、それが神のみこころとしっかり承知をする心の準備をするのか、信仰の確信をもつように祈るか、という信仰の姿勢を問われる気がします。神はギデオンにこれが神のみこころであると示されました。ここでギデオンが神をためしたのではなく、神が本当に生きておられるということを実感したのです。今生きて働かれる神を一切の疑いなく信じたのです。
 わたしたちも多くの願いをもちますが、本当にみ心があると、真剣に祈ったときに「ああ、神さまは生きて働いておられる」と、人知ではとうてい不可能と感じていることが突然埒があくことがあるのです。神さまは本当に生きて働いておられると示される。そのときわたしたちは「この神さまに従おう」とはっきり思うのではないでしょうか。「神は生きて働き給う神である」、とギデオンは信じたのです。
 ギデオンはそれで偶像であるアシュラ像を砕き、偶像崇拝者がおそれるその像を薪にして燃やしてしまったし、後には少人数で、神のみこころに従い偶像礼拝の敵に勝ったのです。
 このギデオンの名を持つ聖書配布の信徒運動で国際的な実業家などの大きな活動のギデオン協会のはじまりも、二人の青年がたまたま小さな宿の相部屋になって聖書を開いて二人で祈ったのがきっかけでした。今は学校や、ホテルや、病院や、飛行機に無料で聖書をそなえる世界的な運動になっています。聖書を配る仕事のはじまりに小さな祈りがあったのです。そこにも信仰と祈りがあります。
 古代も現代も、共通しているのは、本気でわたしたちが神の力を信じてそこから心をよそにむけないことです。それが信仰による勝利なのです。

(3)イエス・キリストの勝利

 ヨハネの手紙には世に勝つという言葉がくりかえされます。ヨハネの第一の手紙が記されたのは多分一世紀末前後といわれていますから、ある程度の教会の集まりが出来ていて、そこで主イエス・キリストの福音がユダヤ系だけでなくさまざまの人を含む教会に発展して、そのキリストによる信仰第一、明確にひたすらに信じることの唯一の重要性をはっきり自覚するところであったといえましょう。
 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」そして畳み掛けるように言います。「だれが世に打ち勝つか。イエスが神のみ子であると信じる者ではありませんか。」
 世とはわたしたちが生活している日常です。そしてわたしたちはその世の価値に動かされがちではないでしょうか。このことは単に一世紀末の地中海地方だけではないのです。
 今、戦争や、経済問題や、高齢化やさまざまの不安と不測と、疑心暗鬼の世界の中にわたしたちの日常が色づけられ、どっぷりそれに打ちこめられてしまうことへの、警告ではないでしょうか。
 日本での戦争がおわった、あの広島、長崎の悲惨な体験と、今こそ、世に勝つ平和の主イエス・キリストの十字架と復活に真実に、日常的にもわたしたちが信頼しているか、その一点で、生きた主に全く信頼とゆだねているか、生きて働かれるキリストこそわたしたちにとっても復活の主であることを真実に信頼して、この暑い、つらい思い出と平和への契機ののこされている八月を信仰にこそ生きる、「信仰による勝利」の決意の時としたいと切に願います。


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