成長させてくださる神

箴言16章3〜9節
コリントの信徒への手紙一 3章1〜7節
2004年10月24日
経堂緑岡教会  協力牧師  一色 義子


(1)成長する喜び

 秋さわやかな空をようやく仰げました。秋というと「天高く馬肥ゆる秋」と昔から言います。秋は植物もぐんぐん成長した結果、実り豊かになる季節です。私がこのコリントの信徒への手紙のこの部分を初めて知ったのは、中学1年の入学式の日でした。私たちの中学校はクラスの名前が梅とか桜とか花や木の名であったので、「あなたがたは神様のお手植えの梅や桜です」と言われたのです。お手植えというのは植樹祭などでそれを代表する責任ある方が自分で土をかけて自分の手で植えることを言います。私たちは一人ひとり神様がこの世に生まれさせ、生かしてくださって、神さまのご計画の中に植えられた木は成長させていただくので、命をはぐくんでくださるのは神さまなのだ、と言っているのです。わたしたちの存在の根拠は神さまにある、わけです。パウロは信仰という木を植え、あるいはアポロは水を注いだ。しかし、命をはぐくみ「成長させてくださったのは神です」と、パウロは明言し、「ですから、大切なのは」と力説しています。「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(一コリント3:7)
 私たち一人ひとりは神さまが注意深く愛をもって一番いいようにと育ててくださるのです。教会に来るような機会や導きを直接、見えるかたちで話しかけたりする働き、あたかも今は「乳を飲ませ、固い食物は与えませんでした」というような配慮もあったことでしょう。しかし、その奥深く成長させてくださるのは神さまご自身なのだとはっきり言っているのです。こういう指導者の決断も、世を基準にしたいわゆる世間の偉い人とはちがって、指導者であったパウロ自身が神さまにつながっている働き人にすぎないというまことに強い信仰を掲げています。その役目はあるだけで、根源は神さまが命をみまもり、育ててくださるのだ、といっています。私たちは神様が、一人ひとりを大切に成長さえてくださるのです。
 こういうことを中学1年生最初に教えられました時は、一番大事な校長先生がそういわれるということで、「神さまが成長させてくださるのなら、私たち自身もしっかりそのつもりにならなければ」、となんとなく思ったのを思い出します。成長するのだから一生懸命分を尽くそうと、身の丈もまだ小さく、これから背ものびなければ、と思っていた時ですから、伸びようとする実感が十分にありました。
 わたしたちは、そして若い世代の方々は、この伸びよう、成長しようという喜びとその源である神さまからのパワーが内に燃えてくることはなんと幸いでしょう。とてもいいことです。

(2)「成長する」とは、聖書では

 「成長する」という言葉はイエスさまがお好きだった言葉のようで、福音書のイエスさまのたとえ話の中に多く出てきます。

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」(マルコ4:27)

 また、

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(マタイ13:31〜32)

 あるいは「実がなる」(ルカ13:9)というように、それは神さまの力としてたとえられています。
 パウロは、信仰者一人ひとりの「信仰の成長」を、あるいはその後の書簡では「教会の成長」を語っています。いずれにしても、命あって成長するその源は神さまであるという信仰の告白です。
 旧約聖書の箴言をさきほどお読みいただきましたが、その箴言16章には「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ。主は御旨にそってすべての事をされる。」とはっきり主が主体であること、それにそうことを「主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させてくださる」と、わたしたちの姿勢をはっきりのべています。命の根源をしっかり神さまに置くことです。
 本日はバザーがあります。皆様は「あれも早くしなければ」とか、「責任のあるパートがスムーズにいくように」とか、はらはらしておられるかもしれません。バザーは教会の業です。これも主イエス・キリストの教会の業です。しっかりとそう心に刻むことは、なんと大切なことであり、また教会に結ばれたものの主の業として働くトレーニングの時でもある、と思うことができるのではないでしょうか。主イエスがわたしたちのために十字架にかかられて、復活された、神の愛の救いの業を成就してくださった。その愛を告げる教会の業なのです。 このことが、私の、そして来訪される方々の信仰の成長となるように、願います。パウロが愛するコリントの教会の人々に、「まだ固い物を口にすることができなかった」と心を砕いて、「いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」と問いかけて注意を喚起しています。パウロやアポロという目先にまどわされず、しっかりと神さまにそれも責任をもって、「成長させてくださったのは神です」と現実の意識にしっかりともどして神さまに結んでいます。
 わたしたちも、肉の人から離れて、霊の洗礼をうけ、心において、主イエス・キリストによって示された神の絶大な絶対の愛を信じて、ひとりひとり生かされたいと、その意識をもつように、教会ではトレーニングされているのです。

(3)信仰においての成長

 信仰においての成長、それはいくつになっても、です。あるいは年を重ねて、世の物事をたくさん吸収してきた人生が長い人は、もしかすると気が付かないうちにこの世の知恵に動かされやすくなっているかもれません。あるいはいつもこうしてきたから、と自分の生き方を検証することを忘れがちになっているかもしれません。
 私がよく話をするオステルさんのアンおばさんは90歳近くになると教会に送り迎えする方もすくなくなり、それに加えて教会の椅子に礼拝の60分も座り続けることができなくなった時、たえず、聖書はもちろん読んでいたのですが、そのほか自分で、あらゆるキリスト教のラジオやテレビやテープや音楽や信仰の言葉を、歩く家の中あちこちに置いて、自分で自分の信仰の養いをしているのにおどろきました。彼女は若い日から、多くの学生や若い人々のためにYMCAのキャンプ・リーダーの信仰指導者でもあり、キリスト教教育の専門家で一生を尽くしましたが、その高齢の日々、今度は自分に対して積極的、具体的に、信仰の養い、成長を心がけていたのです。今になって、あらためてその信仰の成長への真剣さを学ばせられます。私たちは、若い人々のため、と同時に、高齢になるにつれて、本当はその時こそ真剣に信仰の成長を心がける時期にあると考えさせられます。
 信仰の成長、霊の成長、は決して卒業するというものではないのではないでしょうか。若い中学生や大学生や、社会に出たての年齢の若い人々だけの問題ではないのではないでしょうか。
 生活の状況が変化するにつれて、信仰のありかたも以前とは変化していかなければ、いわば、身に合わない古い服をそのまま着ているようなものかもしれません。神に向かう心はたえず、みずみずしく、新しい成長が必要なのではないでしょうか。
 もう一度しっかりと、成長させてくださる神さまに焦点をあて、心のチャネルを合わすことをうっかりしないように、と心を用いましょう。
 信仰の若さは、その成長にあるのです。そして、今、若い時期をすごす中学生、高校生、大学生、社会人、壮年期、大いにトレーニングができる時期、世の中の忙しさや激しい活動に邁進しなければならないと同時に、そういう時こそ一層、その時を大切に、信仰の成長をめざして、成長させてくださる神さまにしっかり結ばれることを願いましょう。
 と同時に、今度は一応の社会での活動や公的な関係が変化したと思われる方々は、一段落したその時こそ、また一層、一生を見守って、責任をもってくださる神の愛を信頼することを深めて、信仰をたしかなものに成長させていただくように、主イエスにしっかり繋がる日々を励みたいと願います。そこにこそ、たゆまず、成長させてくださる神さま、その深遠な愛のかかわりに信頼をおきたいと願います。
 夕べは思いもかけない、新潟県中越地震がマグネチュード6(後に7と更新)という大規模な地震となり、先週の台風に加えて大変な災害となりました。被災地の方々のことを思い、速やかな救援と主の慰めを祈ります。
 今日、また今週、この秋、お互いに困難の中にあっても、秋の実りのあるように、信仰生活において、主イエス・キリストの十字架の愛を頂き、感謝のうちに「成長させてくださる神」にしっかり結ばれて、希望と勇気をもって生きたいと願います。


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