イザヤ書9章5節
ルカによる福音書17章11〜19節
2004年11月21日
経堂緑岡教会 協力牧師 一色 義子
本日は収穫感謝日であり、教団では長らく伝道に励んでくださり隠退された先生方への謝恩日として覚える感謝の日でもあります。いずれにしても、主のみ心によって励み、秋の実りを豊かに与えられた人々や生涯教会に仕えた先生方のお働き、そしてそれを賜った神さまへの感謝の日です。旧約聖書の詩編にも、豊かな表現をもって神さまに感謝をささげる歌がたくさんあります。礼拝とはまずは神さまとの関係の確認ですし、その恵みを感謝することから始まります。
私たちは小さな子供が、おもちゃを頂いた時や、おいしいものを食べるとき、「ありがとう」という言葉を教えます。食事の前に、「神様有難う」という感謝のお祈りをして食べ始めることも教えます。感謝とは、新宿行きの切符を180円出して180円分の切符を受けとるという当然の取引ではなく、目に見えなくとも、当然ではない恵みを頂いたとき、思わず有難うという言葉になる、それが感謝のはじまりでしょう。
ルカによる福音書17章の本日の箇所では、主イエスが
「エルサレムに行かれる途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて『イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。』と言った」
のです。ということは、この十人の病人は一団となっていて、しかも当時の習慣に従って、穢れているというので一般の人々から離れて「遠くの方に立ち止まったまま」、大きな声を張り上げて、「憐れんでください」と主イエスに呼びかけたのです。重い皮膚病は人から差別され、また自分自身も、「『わたしは汚れている者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない」というルールがレビ記13章にあり、そのとおりに遠くから叫んだのです。
差別されている、という状況の中で、この十人の群れにはサマリアの人も混じっていたことがわかります。普通ならガリラヤやユダヤの人とサマリアの人は嫌いあっている関係ですが、重い皮膚病というすべての人に嫌がられる状態であるときに、彼らは一つの仲間となっていたことがわかります。
主イエスはこの重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って体を見せなさい」と言われました。これもレビ記13章にくわしく出ていますが、その病状をよく調べて「清い」直ったと宣言するのが祭司の役目にありました。
「彼らはそこへ行く途中で清くされた」とあります。
実は私たちは神さまの恵みを数かぎりなくいただいて生活しているのです。祭司のような立場の人に宣言されなくとも、日常で、さまざまの出来事に出会い、その出来事の解決が難しいと思っていたのに、不思議に守られてよい理解を得られた、という出来事にもぶつかります。「ああ、よかったね」と、ほっとするとき、見えないけれども、神さまの恵みと力のうちに守られて、無事に解決された、癒された、なおった、ということがいろいろあるのがわたしたちの日々ではないでしょうか。そんな時、「これこそ、神さまの恵み、不思議な導き、不思議な愛と善意の見えない力が働いていた」、と感謝を神さまに捧げているでしょうか。
この聖書の箇所には、主イエスが手を当てて清くされた、というような目立った出来事は記されていません。けれども結果として、誰もが放置したまま、仲間扱いをされない、悪い、汚い、心配な状態は取り除かれたのです。仲間にもどれる、これは最大の感謝ではありませんか。
15節には、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」とあります。なんというすばらしい感覚でしょう、状況への鋭い認識と、お願いしたら、そのとおり癒されたという主イエスの直接の応答で、愛を身に沁みて感じながら、判断の的確さ、人間関係の柔軟な心をこの人はもっていたのです。「この人はサマリア人だった」とルカによる福音書はしっかりと記しています。神さまへの感謝は、この人の中にこそ、生きていた、信仰は民族ではないのです。ましてユダヤ人が差別をするサマリア人のこころのやわらかさです。そこで、主イエスは言われました。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」主イエスから最大の励ましの「あなたの信仰」と認められ、その信仰をもってこれからの一生があるという祝福をいただいたのでした。
私たち教会に出入りする者たちはイエスさまの十字架と復活を示されている者たちです。ということは、神さまがどれほど私たちを愛されて、主イエスのこの世での生き様をとおして、神の愛を示され、それゆえ、私たちもその神さまの愛の関係、愛されて生きるという関係をいただいているか、を知っているはずではないでしょうか。見えなくとも神の深いかえりみのなかにわたしたちの人生がある、というこの一事を示されているのです。
来週はアドヴェントです。主イエスのご誕生を前にした季節が始まる、と教会の暦で決めたクリスマスへの心の準備の時です。
今朝、読んでいただいた旧約聖書イザヤ書9章は、
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」
と毎年クリスマス前になると必ず、読まれるところです。この章は「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地の住む者の上に、光が輝いた」と始まる箇所です。まさに相手にされなかった、差別された人々、またその上「サマリヤ人」とまで差別されていたこの皮膚病を患っていた人、まさに「死の陰の地に住んでいた」この人に希望の人生が、光が輝いて、与えられたのです。
しかもその先には「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた」平和の到来です。イラクの戦いの場面を毎日テレビで見せつけられると、生活の場で戦争が行われている今を、あまりにも過酷に感じます。「クリスマスを忘れたのか。」「神の恵みで生かされている人間の現実と限界をわすれたのか。」と叫びたくなります。
感謝の日、感謝祭のはじまりにはいろいろ、歴史に流れがあるようですが、私たちもよく知っているのはアメリカ建国の水先となった清教徒たちが、信仰の自由をもとめて、オランダからメイフラワー号にのって辛苦の長い船旅の後、ボストンから車で2時間ほどのプリマスについた、最初に足をつけた石という畳二、三畳もある大きな石が波打ち際に殿堂のように下におかれています。1620年のことです。まず浜辺に丸太の教会を作り、それを中心に村作りをして、それからマサソワネエットという友好的な賢いインデアンの酋長にもろこしや大豆の種を分けてもらい、助けられて、寒い雪深い冬を越し、ようやく一年後の秋、収穫の実りを得て神さまに感謝した。それがアメリカの感謝祭の一つの伝統のはじまりだったことはよく知られているところです。
これは共に生きる平和の実りの伝統であり、それをインデアンも女性も男性も子供も大人もみんなで神さまに感謝したことです。そのアメリカがなんという戦争をくりかえすのでしょう。戦争とはどういう理由付けをしても、その現象は、平和とは反対の極にあるのです。今、中国は日本の首相が靖国神社に公式参拝することに批判の声を上げています。私たち昭和のはじめごろに育ったものには、あのころのすべての戦争は「東洋平和のため」と教えられていました。いくつかの道理はあったかもしれません。そのためにかけがえのない大きな犠牲を家族が払われた方々のことを思うと心が痛みます。戦争はあまりにも悲惨です。そして今、イラクでその戦争が、あたかもあの私たちが受けた恐怖の空爆のようなことが日常の生活の中でおこっているのをテレビで見るというこわさ。硝煙の臭いも何もないダイニングの湯気や暖房の効いた中で見ている。わかることは、戦争の反対は平和であるが、平和のために戦争で解決し、平和を勝ち取ろうとすれば、それは戦争である、という悲しい現実です。平和のために平和をもって平和をもたらす。それが主イエス・キリストのクリスマスではないでしょうか。
来週はアドヴェント、待降節、平和の主のご降誕を待ち望む季節がはじまります。それに向けて、私たちは心をととのえて感謝を神にささげる日です。
今日、感謝祭の日こそ、まことに神さまの恵みと導きがあることを覚えたいと思います。さまざまな面で憎しみ合うことをやめきれない、人間のふがいなさに対して、なお神は放棄されず、人類を捨てきられず、救い主をあたえてくださった。そこにクリスマスの愛があるのです。
この神の救いの愛を、私たちは今日のルカによる福音書で、主イエスと重い皮膚病を癒された人々への主イエスのかかわりの中に示されるのです。十人のうち、たった一人の、しかもサマリアの人だけが、神に感謝をささげにもどってきた、この人間の現状。あとの9人はどうしているのか。それを忘れた多数がいるという人間の現実に、むしろ、はっとさせられる気がします。
私たちのすべての人生には、神の愛をいただいているのに、「いやされた」ことも、恵みと気づかずにいる9人のようであってはならない、とあらためて、考えさせられます。
どうか、まことの平和の主であるイエス・キリストによる愛と平和の支配、そこに感謝をささげられる私たちでありたいと切に願います。
誰もが、一人ずつ、その生きる人生を与えられ、神の愛の恵みの中で、いやされ、生かされ、愛され、指針を与えられて、道を平らにしていただき、和解を、助け合いを、愛し合いを、共に生かされている現実にしっかりと、思いあらたに、すべてにおいての神の導きを心に深く留め、この1年をかえりみながら、今、神に感謝する時でありたいと願います。それこそ、恵みの賜り主である主イエス・キリストご誕生のクリスマスをむかえる最初の、そして、もっとも重要な準備ではないでしょうか。
「今、感謝する時」、ご一緒に心から私の存在を愛し認めてくださる神さまに感謝をささげたいと存じます。