聖なる方の臨在

〜出エジプト記講解説教(23)〜
出エジプト記19章1〜19節
マタイ福音書17章1〜9節
2003年10月19日
経堂緑岡教会 牧師  松本 敏之


(1)旧約聖書の中心

 出エジプト記は、本日読んでいただきました第19章から後半の第二部に入ります。これまでは、イスラエルの民がエジプトを脱出して、荒れ野をさまよう物語でしたが、ここからは神様から律法を授かって、契約を結ぶ話になります。これはシナイ契約と呼ばれます。
 一昨年(2001年)の経堂緑岡教会全体修養会において、東京神学大学の小友聡先生が、この出エジプト記第19章を用いて、シナイ契約のお話をしてくださいました。これは私が赴任する前の年の修養会ですが、私も2回の講演記録を読ませていただきました。素晴らしい、しかもわかりやすい講演で、私も今回大いに参考にさせていただきました。
 小友先生は、講演の中で、「旧約聖書の中心は何か」と問い、「それは律法である」と答えておられます。「では律法の中心はどこにあるのか」と問うて、「それはシナイ契約である」と述べ、「ではシナイ契約の中心は何か」と問うて、「それは十戒である」と述べておられます。シナイ契約というのは、私たちがこれから読もうとしている出エジプト記の19章から24章に記されているものです。
 ですから私たちは今、旧約聖書の中心を学ぼうとしているのだということを、どうぞ心に留めてください。この19章で、神様はモーセと出会われるのですが、20章においてモーセに十戒を与えられ、21〜23章では契約の書が与えられます。そして24章で、いよいよ契約締結となるわけです。内容的にその中心となる十戒については、この次よりひとつずつ丁寧に学んでいきたいと思っています。

(2)はじめに恵みありき

 さて19章の冒頭にこのように記されています。

「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日、シナイの荒れ野に到着した。彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した」(1〜2節)。

 神様は山の方におられるということで、山に向かってテントを張ったわけです。モーセが山に登って行きますと、神様はモーセに語りかけられました。

「ヤコブの家にこのように語り、
イスラエルの人々に告げなさい。
あなたたちは見た、
わたしがエジプト人にしたことを
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、
わたしのもとに連れてきたことを。」
(3〜4節)

 神様は契約の話をする前に、自分がイスラエルの人々に、これまで一体何をしてきたか、どういう恵みを与えてきたかということに言及されます。これはとても大事なことです。神様との関係というのは、恵みを思い起こすことから始まる。何か厳しい戒めが与えられて、「これを守れ。守らないと死ぬぞ」という脅しではありません。これは十戒の構造においてもそうなのですが、「はじめに恵みありき」ということを覚えていただきたいと思います。

(3)共同体の信仰告白

 モーセは早速山から降りると、民の長老たちを呼び集め、神様が「語れ」と命じられた言葉を語りました。そうするとイスラエルの人々は、一斉に声をそろえて「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」(8節)と答えました。
 これは、今日の教会の信仰告白の原型のようなものであると思います。小友先生も述べておられることですが、ここで大事なことは、契約はあくまで神様とイスラエルの民、個人ではなく民、つまり信仰共同体との間でなされたということです。神様は個人個人と契約を結んでいないのです。神様はイスラエルの民と契約を結んでいる。そして契約を結んだイスラエルが神の民、聖なる民、聖なる国民となる訳です。
 小友先生はこう語っておられます。

「イスラエルの民はエジプトを脱出する。二つに分けられた紅海の乾いたところを渡って、エジプト軍から救われる。しかしそこではまだ真の共同体にはなっていない。契約を結ぶことによって初めてイスラエルは神の民となるのです。つまり、契約というのは共同体になるための契約なのです」。

 そこから教会についても

「私たちは一人一人個人的に神様と契約を結んだ人たちが集まって教会ができあがっていくんだと考えるかもしれないけれども、そうではない」

と語られます。教会というところは、ただ単にキリスト教の信仰をもった人の集まりではないのですね。社会学的に言えば、あるいは法律上から言えば、そうなるのかも知れません。しかし信仰的に言えば、違う。最初に神様がおられ、そこで呼び出され、共同体の中に召しいれられる。キリスト教で言えば、最初にイエス・キリストの召しがあって、それに答えて共同体の中に入れられる。具体的には教会の中へと召されるのです。
 そしてもう一つ大事なことは、ここで、イスラエルの民が言葉もって応答をしたということです。そこで初めて契約が成立するのです。これは24章の契約締結の部分でも強調されています。

「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った」(24:3)。

(4)聖なる神が人間に近づかれる

 さてその後、いよいよ神様はシナイ山に降って、イスラエルの民とお会いになると言われます。そして「そのために備えをしなさい」と言われるのです。不用意に山に登ってはいけない。周囲に境を設けよ。その境界線に触れてもいけない。それを侵す者、ないがしろにする者は殺される、と言われました。
 そこでいよいよ神様の登場です。

「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた」(16〜19節)。

 これが19章の中心的出来事ですが、このところに込められている幾つかの意味を考えてみたいと思います。ひとつは、神は聖なるお方だと言うことです。そのきよさの前では、どんな人間も立っていることはできない。ですから「神を見た者は死ぬ」とさえ言われていました。他のものを焼き尽くすほど、滅ぼすほどのきよさを持ったお方なのです。イザヤも神様からの召命を受けた時、こう言いました。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)。

 イザヤにして然りです。決して侮ることはできない。だから極力清さを保つようにし、それでも注意せよ、と語られるのです。そのことが大前提です。
 ところがその神は、ただ聖なる孤高の神として遠く離れて立っている訳ではなく、人間とかかわりを持とうとされるのです。神様は天地を創られたお方ですが、ただ創りっ放しではありません。あるいは遠くから眺めておられるだけではありません。人間を契約のパートナーと選び、それを通して徹底的にかかわろうとされる。聖なる方は臨在されるのです。創ったからには、最後まで責任を持たれる神様なのです。
 この神様の姿勢は、新約聖書までずーっと続いています。これは聖書が語る最も大事なことのひとつです。そこには「一人も滅びないで欲しい」という神様の熱い思い、切実な願いが込められていると思います。

(5)新しい契約を結ぶ

 ところが神の民がその後どうなっていくかと言いますと、ここであんなにもいい返事をしながら、彼らはそれを守り抜くことができません。神様に背いた歩みをしていきます。普通の契約であれば、それで契約不履行で、契約破棄ということになるのでしょうが、神様は何とかして、この契約が成立し続ける道を備えられるのです。そのことを考えるにあたって、ここでどうしても触れておかなければならない大事な言葉があります。それはエレミヤ書31:31〜33です。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」。
「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし来るべき日に、わたしがイスラエルと結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:31〜33)。

 これはぜひ覚えていただきたいと思います。今日の箇所との関連においても大事ですが、旧約聖書と新約聖書を結ぶ大事な預言です。イスラエルの民は、この契約を守ることができなかったゆえに、神様は「新しい契約を結ぶ日が来る」。かつての「古い契約」では、律法が石の板に刻まれましたけれども(申命記5:22)、「新しい契約」は彼らの心に直接刻まれるというのです。この「新しい契約」という言葉こそ、私たちが使っています「新約聖書」という言葉の語源です。「旧約聖書」というのは、それに対して「古い契約」ということです。新しい契約と古い契約。小友先生がこの出エジプト記19章以下の「シナイ契約」が旧約聖書の中心であるとおっしゃるのも、そういうことと深い関係があるのです。

(6)古い契約が完成するために

 ただし新しい契約を結ぶ時に、古い契約が破棄されたわけではありません。その心が本当に生かされるためにということなのです。神様は何とかして、この契約が有効であり続けるために、新しい道をつけられる。それがイエス・キリストがこの世界へ来られることによって、実現したのです。イエス・キリストご自身がこう言っておられます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない」。(律法や預言者ということで、旧約聖書全体をあらわしています)。

「廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17〜18)。

「今も有効だ。むしろ完成するために、その心が生かされるために、私は来た」、と言われるのです。
 先ほど、この出エジプト記の19章にあわせて、新約聖書の「山上の変貌」と呼ばれる物語を読んでいただきました(マタイ17:1〜8)。この物語は、ちょっと不思議な話、何を言おうとしているのか、わかりにくい話です。イエス・キリストが弟子のペトロとヨハネとヤコブだけをつれて、山へ登られた。そうするとイエス様の姿が真っ白に輝き、その両側にはモーセとエリヤがあらわれて三人で何か語り合っていた、と言うのです。「モーセとエリヤ」というのは、先ほどのイエス様の言葉で言うと「律法と預言者」を象徴する人物です。そのことは、イエス・キリストは決して旧約聖書と無関係ではないということを表しています。この二人が行ったことと密接なかかわりがあるのです。ですから先ほどのイエス様の言葉(マタイ5:17〜18)を象徴するような情景ではないかと思いました。そこで光り輝く雲の中から声が聞こえてきます。そのことは今日の出エジプト記19章を彷彿とさせます。そしてこう言われました。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(7節)。

「私はこの者を通して、これまで語ってきたことを完成するのだ」と言おうとされたのでしょう。

(7)私たちは、神の宝物

 今日の出エジプト記19章の5節後半にこういう言葉があります。

「あなたたちはすべての民の間にあって
わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって、
祭司の王国、聖なる国民となる」

 ここに神様のご意志があります。本当に、神様は私たちを愛する者として、宝として愛してくださっているということ、そしてそれは私たちがイエス・キリストのものとなることによって実現するのだということを心に留めましょう。
 今キリスト教基礎講座では、『ハイデルベルク信仰問答』を学んでいますが、その問1はこう語っています。

「(問1)

生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

(答)

わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」

 私たちが自分自身の所有ではなく、イエス・キリストの所有になること、イエス・キリストのものになること、その中に本当の慰めがあるというのです。それはその中にこそ、私たちが生きることの本当の意味が隠されているからです。その神様の意志を心に留めてこの1週間も歩み始めましょう。