自由の道しるべ (十戒・T)

〜出エジプト記講解説教(24)〜
出エジプト記20章1〜17節
ガラテヤ書5章1、13〜14節
2004年1月18日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)キリスト教の三要文

 今日からいよいよ十戒を読んでまいります。十戒は、使徒信条、主の祈りと並んで、キリスト教信仰に欠かすことのできない重要な文章として、受け継がれてきました。「三要文」(さんようもん)と呼ばれます。私たちが礼拝前のひと時に学んでおります『ハイデルベルク信仰問答』も、この三要文の解説が主な内容であります。「使徒信条」によって、私たちは「何を信じるか」を学び、「十戒」によって「いかに生きるか」を、「主の祈り」によって「いかに祈るか」を学ぶのです。
 ただ私たちは「使徒信条」や「主の祈り」と並ぶほどには、「十戒」を重んじていないように思います。「使徒信条」と「主の祈り」は、毎週、礼拝の中で唱えております。週報の裏面にも記されています。しかし十戒はそのような取り扱いをしていません。そうした反省から、今日、幾つかの教会(特に改革派、長老主義の教会)では、礼拝の中で十戒を唱えることを取り入れています。私たちの教会でも、礼拝で十戒を唱えるかどうかは別問題として、少なくとも十戒を、私たちの信仰生活の中心に回復するということは必要であるように思います。

(2)「十戒」本文

 皆さんの中には、主の祈りをそらんじて言える人はたくさんあると思います。教会に何年も通っておられる方であれば、ほとんどの方が知っておられるでしょう。使徒信条を暗記しておられる方もあるでしょう。
 しかしながら、十戒をすべて暗記している、という方はそれほど多くないのではないでしょうか。暗記していなくても、十の戒めを全部数えられるという人も案外少ないかも知れません。十戒を数える時には、必ずしも聖書そのものの完全文である必要はありません。『讃美歌21』の93−3にも、十戒の全文が出ているのですが、これも聖書そのものであり、長すぎてあまり実際的ではありません。礼拝で唱えるものとしては、各戒めの最初の文章だけを記したショートヴァージョンもあわせて載せるべきではなかったかと思っています。1年前に発行された『こどもさんびか・改訂版』には、ショートヴァージョンの十戒が出ています。とにかく十戒を数えてみましょう。

「わたしは主、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
1.あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
2.あなたはいかなる像も造ってはならない。
3.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を心に留め、これを聖別せよ。
5.あなたの父母をうやまえ。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.隣人に関して偽証してはならない。
10.隣人の家を欲してはならない。」

 いかがでしょうか。どれだけ知っておられたでしょうか。ぜひこれを覚えていただきたいと思います。

(3)律法主義、原理主義

 十戒がそれほど重んじられないことには、それなりの理由があるのかも知れません。ひとつには十戒を重んじることは律法主義的になると考えられやすいことがあるでしょう。確かにその危険性はあります。十戒を守っているかどうかで、人をすぐに裁いてしまう。しかもその理解は非常に表面的です。言葉を単純にそのまま当てはめて、人を裁く基準にしてしまう。
 律法主義というのは、聖書に書いてある戒めなどを文字通りの意味で捉え、それを全部守らないと救われないとして、自分にもそれを当てはめ、人にもそれを要求する姿勢です。しかし聖書のそのものの中に反対のこと、矛盾するようなことがたくさん書かれていますので、ある一つの言葉にがんじがらめになると、かえって聖書全体の精神からはずれてしまうこともあります。
 2002年度の一年間、代々木上原教会の村上伸先生が、『信徒の友』に十戒についての連載をしておられました。私も楽しみにそれを読ませていただき、今回も参考にさせていただいていますが、その中にこんなことが書いてありました。

「十戒を原理主義的に理解してはならない」という項目です。「数年前の新聞に、次のような記事が載りました。−『殺すな』という戒めを真剣に考えた末に『妊娠中絶はこの戒めへの背反である』と確信するようになった一人のアメリカのクリスチャンが、この手術をしている医院に爆弾を投げ込んだというのです。医者や看護婦が何人も死にました。何と言う矛盾でしょう。しかしこのような矛盾は、『原理主義』には常につきまとっています」
(『信徒の友』2002年4月号)。

 原理主義とは、自分たちの信じる教理や戒律を絶対のものとして、他のものを受け入れない態度のことです。これは、どんな宗教にもありうるものです。
 イスラム原理主義というのが、最近では、一番よく耳にされるかも知れません。イスラム原理主義は、アフガニスタンでタリバーンとなり、人類の貴重な遺産であるバーミヤンの石仏を偶像であるとして破壊しました。また同時多発テロ、9・11事件を引き起こしたのも、イスラム原理主義の人々であると言われています。
 ユダヤ教にもあります。現代のイスラエル国家において、「ここは神が我々イスラエル人に与えられた約束の土地だ」と主張するのは、ユダヤ原理主義者です。そしてパレスチナ人を排除して、その行為を宗教的に正当化しようとするのです。あるいはインドでガンディーを暗殺したのはヒンドゥー原理主義者でありました。
 残念ながらキリスト教の中にもあります。いやキリスト教こそが原理主義の本家本元かも知れません。「十字軍」などというのは、キリスト教原理主義の最たるものでしょう。キリスト教こそ絶対的な真理だということを主張し、他宗教にも真理があるということを認めないし、学ぶ気もない。真の意味での対話ができないのです。
 原理主義、律法主義に共通するひとつの問題は、聖書の言葉を、今生きて働いている神様の言葉として理解せずに、その文字面を固定したものとして読んでしまうことではないでしょうか。そこでは、その言葉が過去のものとなり、かえって自分の手の内にある所有物になってしまうのです。
 私はそこで、本当に大事なことは、その文字に仕えるのではなく、その律法を与えてくださった神様に仕えることであると思います。その生きた神様との関係が修復されることこそが、信仰をもって生きるということなのです。パウロは「文字は(人を)殺しますが、霊は生かします」(第二コリント3:6)と言いましたが、まさにそのことを言おうとしたのだと思います。
 ですから私たちも、これから戒めの一つ一つを学ぶにあたって、それによって神様は、今日に生きる私たちに向かって何を語ろうとされているのかということを、聴く耳を持たなければならないでありましょう。

(4)今日から見て古い?

 もうひとつ、十戒が重んじられないことの一つとして、これはもう古いと思われていることがあるのではないでしょうか。このことには二重の意味があります。
 ひとつは、現代に生きる私たちにとって古すぎるということです。今から3000年前の言葉が、今日の複雑な時代にもはや通用しない、あてはまらないという理解です。今日にはさまざまな倫理的問題があります。今から100年前には想像もしなかったような倫理的な問題が起こってきました。生命倫理の問題(安楽死・尊厳死の問題、クローン人間の問題など)は、まさにそうでしょうし、性の問題も、今日さまざまなテーマについて慎重に考えなければならないことがわかってきました(同性愛などセクシュアル・マイノリティーの問題他)。そうしたことを理解するのに、「十戒は古すぎる」と思われるかも知れません。
 しかし私は決してそうではないと思います。十戒は非常に単純で明快なものです。細かいことは書いてありません。そうであればこそ、私はこの十戒に照らし合わせながら、そこで生きた神の言葉を聴いていくことができるし、聴いていく必要があるのではないかと思います。そこには、今生きておられる神様との対話が用意されているのです。

(5)新約聖書から見て古い?

 もう一つ、古いというのは、新約聖書に比べて古いということです。十戒をはじめとする旧約聖書の律法は、新約聖書によって克服されているという理解です。キリスト教会の中には、旧約聖書をあまり大事にしない風潮、あるいはそういう悪しき伝統があります。私はそれを是正する意味でも、礼拝においては、できるだけ旧約聖書と新約聖書の両方を読むようにし、説教も旧約に基づく説教と新約に基づく説教をできるだけ同じ割合でするように心がけています。
 十戒などの旧約の律法が新約聖書によってすでに克服されているというのは、半分だけ当たっています。私たちは確かに旧約聖書を読む時にも、クリスチャンとして読みます。ですからその点で、今日のユダヤ教の人たちとはいささか違った読み方をしているのは事実でありましょう。新約聖書の光の中で、イエス・キリストという鏡を通して読む。しかしながらそのことは決して、これが廃棄されたものであるということではありません。廃棄されるべきものは律法ではなく、律法主義です。(「主義」というのがついてくると、どんなものでもあやしくなってきます。キリスト教主義というのも、ちょっとあやしいですね。キリスト教というのが、何かしらの原理原則になって一人歩きしてしまう。キリスト教主義学校という言い方がありますが、あまりいい呼び名ではないと思います。)
 パウロはこのように言いました。

「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ律法を確立するのです」(ローマ3:31)。

 あるいはイエス・キリストご自身がこう言われました。

「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17〜18)。

 私たちはそのように、十戒を、イエス・キリストの鏡の中で、新しく、今語っておられる神様の言葉として、読んでいきたいと思います。イエス・キリストは、律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という質問に対して、こうお答えになりました。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:28〜31)。

 十戒は二つの板に記されたと言われています(申命記5:22参照)。一枚目の板には第一戒から第四戒が記され、二枚目の板には第五戒から第十戒までが記されていました。つまり一枚目は神様と人の関係についての戒め、二枚目は人と人との関係についての戒めです。この二枚の板に記された律法を、イエス・キリストは「あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」とまとめられたのでした。この主イエス・キリストの言葉こそ、十戒を理解する大事な鍵であります。

(6)解放と自由をもたらす神

 最後に、十戒の序文に注意しましょう。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(2節)。

 神様はこのように自己紹介をして、十戒を語られました。これは十戒全体を理解する基調となる言葉であります。単なる付け足しのような序文ではないのです。この神様はイスラエルの民を奴隷の状態から解放された神様です。十戒そのものも、この「解放」ということと深いかかわりがあります。「自由」ということと関係しているのです。十戒をまもるということは、束縛を受けること、規定すること、枠の中に閉じ込められることと考えられがちですが、そうではありません。むしろ逆です。解放の神様が私たちを自由へと召してくださっている。十戒は「自由の道しるべ」(ロッホマン)なのです。

(7)感謝のわざ

 先ほどガラテヤの信徒への手紙を読んでいただきました。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。…(中略)…兄弟たち、あなたがたは、自由を得させるために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ5:1、13〜14)。

 「自由」と「放縦」ということを履き違えてはならないということでありましょう。本当の自由とは、神様に仕える自由、感謝をする自由。賛美する自由であります。私たちの本来的な姿は、そうした生活の中にこそあるのです。そして十戒こそは、真の自由への道しるべなのです。
 『ハイデルベルク信仰問答』の中に、十戒の解説があると申し上げましたが、それが「感謝のわざ」という項目の中に置かれているのは、興味深いことです。感謝する生活。その中に私たちの本来あるべき姿があるのです。そこでこそ、私たちは本当の自由を得る。神様に背く自由、理論的にはそうした自由もあるのですが、そこでは本当の自由は得られない、それは過った道だ、と聖書は告げるのです。これから十戒を学びつつ、そうした神様の御心を、心に留めてまいりましょう。