〜出エジプト記講解説教(25)〜
出エジプト記20章3節
テサロニケの信徒への手紙 一5章9〜11節
2004年2月15日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
今日からいよいよ十戒の具体的な言葉を一つずつ読んでいくことになりました。第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という言葉です。この言葉は、ある意味で非常に排他的な言葉です。他のすべての神々を退ける。「わたしがあなたにとって唯一の神である」と宣言しております。宗教のこうした排他性こそが、今日の紛争の大きな原因だと考える人もあります。
先日、『信徒の友』3月号が発売されました。この3月号は、「他宗教と共に歩む」という特集になっています。一昔前の『信徒の友』では、あまり取り上げられなかったテーマかも知れません。巻頭言にこのように記されています。
「グローバル(地球規模)の時代になりました。世界が共に生きる時代です。それに対して、人々の間を切り裂き、互いに対立と憎しみを起こさせるものとして、宗教の相違と対立が目立ちます。またそれぞれの地域でも、昔はキリスト教圏とかイスラーム圏などに分かれていたのが、一つの社会に多くの宗教が併立するようになりました。このような宗教多元社会で、他宗教の人々とどのように交わってゆくかが問われています。
今日、暴力や軍事力に訴えてでも自分の宗教を拡大し、支配権を打ちたてようとするような形での宗教的排他主義は許されないことを、多くの人が認識しています……。
キリスト者は、他の宗教についてどのように考え、他宗教の人々とどのように交わったらよいのか。今月はこの問題について特集を組みました。」
中を開いてみますと、牧師と禅宗の住職との対談があったり、宗教の違いを超えて部落問題にかかわり、協力し合っていることが報告されたりしております。また国際基督教大学の森本あんり先生による「他宗教を尊ぶキリスト教とは〜宗教は平和を妨げるものか」という論文は、取り分け有意義なものであると思いました。森本先生は、「もし、一つの宗教を信ずることが、必然的に他の宗教を軽んじたり否定したりすることにつながるのだとすれば、キリストを信じつつ平和を求めることは、はじめから矛盾した不可能なことだ、ということになってしまうでしょう」と言われ、自分の信仰に確信をもつことと他宗教の信仰をもつ人に寛容であることは矛盾しないということを、非常に論理的に述べておられます。
近年、梅原猛という哲学者が、「これからは一神教ではなく、多神教の時代だ」ということをしばしば言っております。一神教の文化がいかに多くの紛争を生み出してきたを指摘しながら、宮崎駿のアニメ映画『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』などにあらわれている多神教的平和の世界に目を向けよう、と主張しています(『朝日新聞』2002年1月1日など)。恐らく多くの日本人が賛同するのではないかと思います。私自身も「確かに一神教を信じる者は反省をしなければならない」と思いましたが、その一方で「さりとて多神教になったからとて、ことは解決するのだろうか。それはいささか安易に過ぎるのではないか」ということを、逆に強く感じました。「一神教がだめだから多神教」という発想は、実は本当の神様と出会っていないのではないかという気がいたします。
「信仰」というのは、ある意味で「出会い」のような事柄であります。私が聖書の神を信じているのは、数ある宗教を調べて、「やっぱりキリスト教が一番いい」と思って選んだ結果ではありません。私は、私の側からすれば、たまたま、イエス・キリストと出会ったのです。私の前には、幼い頃から聖書があり、それを説いてくれる人があり、それらを通して、イエス・キリストというお方が語りかけられた。「私を信じなさい」「私に従ってきなさい」と呼びかけられた。それに「はい」と返事をして、クリスチャンになりました。
成人してから、教会へ来られた方は、「自分でキリスト教を選んできたのだ。それなりにいろいろと勉強して、やっぱりキリスト教が一番だと、決断して入信した」とお考えになるかも知れません。しかしそのような方にとっても、一旦信仰をもつようになった後は、「自分が選んだように思っていたけれども、実はそのような道を、神様が、そしてイエス・キリストが整えていてくださったのだ」ということ改めて感じられるのではないでしょうか。逆に言えば、そうでなければ、まだ本物の信仰ではないという気もします。イエス・キリストは、弟子たちに向かって、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と言われました。
「あなたにはわたしをおいて他に神があってはならない」という第一の戒めは、実はこのイエス・キリストの言葉、「選び」と深い関係があります。最初に神様の選びがあったのです。そしてその神様と一体どういう関係をもつのかが問われるのです。
前回も申し上げたとおり、この十戒には序文がついておりますが、ある人は、すべての戒め(言葉)を読むときに、いちいち、この序文から初めて「それゆえ」を挿入して、読むべきであると、言っております。そのことは、とりわけこの第一の言葉を読む時に、大事なことであると思います。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(それゆえ)あなたには、わたしのほかになにものも神があってはならない」。
この神様は、自分を「わたし」と呼び、私たちに向かって「あなた」と呼びかける神様です。「人は」というような三人称ではないのです。これは戒めという以前に、契約の言葉だということを心に留めなければならないでしょう。ですからここでは、第一義的には、他宗教の信仰に生きる人のことではなく、聖書の神様とその神様から二人称で語りかけられた者、私たちとの関係が問われているのです。
またここで、「あなたがた」と言わないで、「あなた」と単数形で呼びかけられることもはっとさせられることです。このことは私たち一人一人に向かって、「あなたは」と迫ってくる言葉でもありますし、同時にイスラエルの共同体、神の民、キリスト教的に言えば、教会のことを「あなた」と呼んでおられると、読むこともできます。
ハイデルベルク信仰問答は、この第一戒について、次のように記しています。
「問94 第一戒で、主は何を求めておられますか。/答 わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために……、唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」
「謙遜と忍耐の限りを尽くして」とあります。神様を神様として立てるということは、謙遜と忍耐を必要とすることであります。そう簡単なことではありません。
聖書の時代から今日まで、この第一戒のために命をかけてきた人々が大勢いたということを、私たちは忘れてはならないでしょう。そのことはすでにローマ帝国の時代に始まっております。「カエサルを拝め」と言われたことに対し、「いや、まことの神以外は決して拝まない」と信仰を貫いて、多くの人々が殺されていきました。20世紀においても、ナチス・ドイツの時代に、ボンヘッファーを初めとする人々が、やはりこの第一戒に徹底して固執し、殉教していきました。いや、もっと身近なところで、日本の教会においても、あるいは日本の支配下にあった韓国の教会においても、そのことが第一に問われたのだということを、私たちは忘れてはならないでしょう。この第一戒の信仰に生き抜くということは、そう生易しいことではないのです。
イエス・キリストは、荒れ野で悪魔から誘惑を受けましたが、その中にこういう誘惑がありました。
「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」(マタイ4:8〜9)。
原文の語順では「これをみんな与えよう、もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」となっています。悪魔は非常に巧みです。まず最初に、「世のすべての繁栄ぶり」を見せます。「繁栄ぶり」というのは、ラテン語では「グローリア」という言葉です。神様の栄光を表す時に使う言葉です。悪魔は、この世の栄光、輝かしい様子を見せて、「これをみんな与えよう」と言ったのです。普通の人ならそこで舞い上がってしまって、もうあとは何を言われても耳に入らないかも知れません。悪魔はそのすきをねらって、小さな声でちょこっと、「ただしわたしを拝むならね」と言うのです。
イエス・キリストは、この時
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10)
と、まさしくこの第一戒を持ち出して、悪魔の誘惑を退けられました。
信仰を何ももたない場合はどうなのかということも、考えておいた方がいいでしょう。信仰をもたない方がどんな人とも仲良く接することができる、と考える人があります。日本人は、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれると、「特にありません」と答える人が多いようです。
私がブラジルにいました時に、サンパウロ大学というブラジルで一番有名な大学に、ある日本人の学者が客員教授として来られました。大学に履歴書を提出しなければならないのですが、ブラジルでは履歴書に「宗教」という欄があります。彼はそこに何気なく、「なし」と書きました。そうすると、こう言われたそうです。「宗教はないのか。そんな人間を教授として迎える訳にはいかない。本当に何もないのか。家の宗教もないのか」。彼は「あえて言えば、仏教ですけど」と言うと、「それじゃあそのように書きなさい。その方がましだ」と言われたそうです。「宗教をもたない人間は、一体何をするかわからない」ということでしょう。(あやしいカルト宗教が横行している現在の日本では、逆に「宗教を信じている人間は何をしでかすかわからない」ということになるのかも知れませんが)。
イエス・キリストは、興味深いたとえを語っておられます。
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで『出てきた我が家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪い七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(マタイ12:43〜45)。
悪霊がどこかへ出て行って休む場所を探していたが、見つからないので、元いた家に帰ってきると、そこは空き家だったというのです。主人がいない。誰もいない。信仰をもたない人は、自分自身が自分の「家」の主人だと思っているかも知れません。ところが、それは悪霊にとっては、「空き家状態」だというのです。私たち人間よりも、悪霊の方が一枚上手だということをわきまえておかなければなりません。悪霊にしてみれば、人間なんてちょろいものなのかも知れません。自分で自分をきちんと管理していると思っている状態は、悪霊からすれば、「きれいに掃除までしてある。こんな住み心地のよさそうな家はない」ということになるのでしょう。
そうした時に、悪霊が自分の中に入り込んでこないようにするためには、どうすればいいのでしょうか。しっかりした主人に、きちんといるべき場所にいていただくことではないでしょうか。それが悪霊を退ける一番の道であると思います。
主イエスご自身が、荒れ野で、「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある」とおっしゃったことに通じるものでありましょう。
この主を私たちの生活の中にお迎えし、この主と共に生きること、そこに私たちが揺るがない人生を送る道があります。それは一見、排他的に見える道でありますが、それを通り越したところで、他の信仰をもつ人と共に生きる道も示されてくるのではないでしょうか。
森本あんり先生も示唆しておられことですが、私たちは自分の信仰に確信をもっていて初めて、他宗教の信仰に生きる人々と、真剣な、そして対等な対話ができるのだと思います。別の宗教の人から「自分の信仰に確信がもてないような宗教だったら、対話するに値しない」ということを聞いたことがあります。私は私の信仰に確信をもっている。彼も自分の信仰に確信をもっている。そうしたところで初めて本当の対話が成り立つのです。
私にとって、イエス・キリストを通してあらわされた神様は、ある意味で絶対的なものです。そのことがどんなに大事なものであるかということ、それがかけがえのないものであることを本当に知っているからこそ、他の人にとっても同じように、その人の信仰がかけがえのないものであることを共感できるのではないでしょうか。
私たちは聖書を通して、神様から呼びかけられた民です。そしてここに呼び集められた群れです。「あなたにはわたしの他に神があってはならない」という神様の言葉を恵みの呼びかけと信じ、そしてその中に、私たちの生きる道を見出していきたいと思います。