モノが神になる時 (十戒・V)

〜出エジプト記講解説教(26)〜
出エジプト記20章4〜6節
マタイによる福音書6章22〜24節
2004年5月16日
経堂緑岡教会 牧師  松本 敏之


(1)熱情の神

 今日は十戒の中の、いわゆる第二戒から御言葉を聞いてまいりましょう。

「あなたはいかなる像も造ってはならない。……あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20:4〜6)。

 「わたしは熱情の神である」。前の口語訳聖書では、「わたしはねたむ神」であると訳されていました。「ねたむ神」というのは、独特の、それなりに親しまれた表現でありましたが、どうもネガティブな面が強調されて、神様は心の狭い方だと誤解されるきらいがありましたので、「熱情の神」という訳で、よくなったのではないでしょうか。「わたしを否む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」というのは「ねたみ」「罰」の面を表しているようですが、その後では「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と記されています。神の恵みはねたみや罰をはるかに超えているのです。そもそも「ねたみ」というのは、強い熱情や愛情の一つの表れ方であると思いますが、「熱情の神」という方が包括的なニュアンスがあると思います。岩波書店の新しい訳では、「熱愛の神」と、印象的な言葉に訳されています。

(2)十戒の数え方

 さて、この「わたしを否む者」以下の説明は、「あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない」という第一戒とも深い関係があるものです。むしろ第一戒との関係の方が深いと思います。実を言いますと、十戒には、幾つかの数え方があり、第一戒といわゆる(私たちの)第二戒をあわせて、一つと数えることもあるのです。
 カルヴァンの伝統の改革派教会をはじめとして、ほとんどのプロテスタント教会では、私たちが、今回しているように、この偶像崇拝禁止の戒めを、第二戒とします(『讃美歌21』の93−3参照)。ギリシャ正教でも同じです。
 しかしながらローマ・カトリック教会、またプロテスタント教会でも比較的カトリック教会の要素を残しているルーテル教会では少し違う数え方をします。この「あなたはいかなる像も造ってはならない」というのを、第一戒の続きとして読むのです。それでは全部で九つにしかならないことになりそうですが、最後の戒め、私たちが第十戒と数えているものを、「隣人の家を欲してはならない」「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」の二つに分けて、第九戒、第十戒とするのです。
 本家本元のユダヤ教ではどうかと言いますと、やはりローマ・カトリックやルーテル教会と同じように、最初の二つの戒めを一つと数えます。しかし最後の戒めは改革派、メソジストと同じように一つと数えます。そうするとやはり九つにしかなりません。実はユダヤ教では、私たちが序文として読んでいる「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプト国、奴隷の家から導き出したものである」を第一と数えるのです。これは戒めではないではないかと思われる方もあるでしょうが、十戒は本来、「十の戒め」ではなく、「十の言葉」というものでありました。
 さて少し煩雑な説明になりましたが、これはただ単に知識ということだけではなく、十戒の内容を理解する上でも意味があると思います。特に第一戒と第二戒は切り離せないものであることを、ご理解いただきたいと思いました。

(3)神は像の中にはいない

 それではこのいわゆる第二戒は、一体何を禁じているのでしょうか。これも、実は二つの解釈があるのです。
 一つは、「まことの神(ヤハウェ)以外の他の神々の像を刻んで拝んではならない」ということです。先ほど来、申し上げていますように、これは第一戒を別の表現で、深めているということができるでしょう。
 もう一つの理解の仕方は、他の神々の像だけではなく、「それがたとえ聖書の神様、ヤハウェの像であったとしても、刻んで拝んではならない」ということです。神様というお方は、どこかの像に納まるようなお方ではない。人間が何か形を作るならば、その中には神様はいないのだ。刻んで拝み始めたとたんに、偶像になってしまうのだということです。私は、この二つの理解はあれかこれかという風に考える必要はないと思います。
 神が人をつくられた。聖書はそのように高らかに宣言するのです。人が神の像をつくる時に、それが逆転し、矛盾に陥ってしまうのです。預言者たちも、そのことを何度も何度も語ってきました。その中の一つ、イザヤ書の言葉を読んでみたいと思います。

「偶像を形づくる者は皆、無力で
彼らが慕うものも役に立たない。
彼ら自身が証人だ。
見ることも、知ることもなく、恥を受ける。
……木工は寸法を計り、石筆で図を描き
のみで削り、コンパスで図を描き
人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り
神殿に置く」(イザヤ書44:9、13)。

 人間は、人の形に似せ、人間の美しさにそれを似せて神を作る。そんな人間の作ったモノを、神と呼べるか。逆さまだ。本当は、神様が人間をつくった。そのことにこそ目を向けなければならないのに、人間は神の像を作りたがり、それを拝みたがる。

「木は薪になるもの。
人はその一部を取って体を温め
一部を燃やしてパンを焼き
その木で神を造ってそれにひれ伏し
木像に仕立ててそれを拝むのか。
また、木材の半分を燃やして火にし
肉を食べようとしてその半分の上であぶり
食べ飽きて身が温まると
『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。
残りの木で神を、自分のための偶像を造り
ひれ伏して拝み、祈って言う。
『お救いください、あなたはわたしの神』と」(16〜17節)。

 「自分のために」と記されていますが、偶像を拝むということは、まさに、自分に都合のいいように神様を立てることです。自分の願いをかなえてくださる神様。それを私たちは造り、拝みたがるのです。そんな神は力がない。それは客観的に見ればわかることです。(第二)イザヤが示している通りです。あなたがたが今、していることは、まさにそれだというのです。
 それを拝んでいる本人は気づいていないのでしょうか。いや無意識のうちに力がないからかえってよい、と思っているのかも知れません。自分の都合によってそれを拝み、都合が悪くなれば、それを処分することができる。そういう神様を、私たちはお守りとして大事にもっていたがるのです。多くの日本人は、ある時は神社に行って拝み、ある時はお寺に行って拝み、ある時は教会に行って礼拝をします。それは一見、信仰的に見えて、実はどの神も本当は信じていない、自分で神様を勝手に取捨選択しているのでしょう。本音のところでは、神様が自分の生活に深い影響力をもっていては困ると思っているのではないでしょうか。

(4)宗教芸術との関係

 偶像を刻んで拝む、ということから、さまざまな宗教芸術との関係についても考えさせられます。私たちが印象に残っていることとしては、アフガニスタンのイスラム原理主義を掲げるタリバーン政権が、バーミヤンというところにある巨大な石仏を爆弾で破壊するという野蛮な事件がありました。イスラム教では、偶像禁止の戒めがもっと直接的、もっと厳格に理解されていますので、ましてや原理主義となりますと、「あんな石仏はとんでもない」ということになるのでしょう。それは一種の文化否定です。私は、そうした宗教芸術や文化が必ずしもそのまま偶像崇拝になるとは思っていません。イスラム原理主義に限らず、日本に入ってきたキリスト教も、まさにそうした野蛮な面がなかったわけではありません。外国からやって来た宣教師たちは、「クリスチャンになったら、仏壇は捨ててしまいなさい」と指導したようです。それをしないと、「本当のクリスチャンになれないのか」と悩んだクリスチャンもたくさんいたことでしょう。しかし私は無理にそんなことをする必要はないと思います。

(5)お焼香などについて

 お焼香という行為についても、偶像礼拝と考える人もいますが、私自身は、それは必ずしも偶像礼拝とは考えていません。
 こうしたことを考えるにあたって、パウロの示唆的な言葉を思い起こします。偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうか、ということについての議論です。その頃は偶像に供えられた肉を食べると、こちらまで汚れるとされてきましたが、パウロは、まずそれを否定します。

「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(コリント一8:7〜8)。

 それはどちらでもいいのだ。クリスチャンになったら、そういうことから自由にされるというのです。しかしその続きに興味深いことが記されています。

「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(同9節)。

 その行為が誰かに悪い影響を与えるならば、気をつけなさいよ、という。そしてパウロはこう断言します。

「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」(同13節)。

 その肉が人を汚すから口にしない、というのではありません。どちらでもいいのだけれども、誰かへの配慮として、それをしないというのです。
 このことは、他の宗教の宗教的行為にあずかる時に、私たちがどういう態度を取ればよいかということを考えるヒントになるように思います。たとえば、お焼香という行為は、私にとってそれは亡くなった方の信仰に対する敬意を表することであって、偶像崇拝であるとは考えていません。ただ私がそれをすることで誰かをつまずかせるようであれば、配慮をします。もっとも逆にそれをしないことで誰かをつまずかせるならば、それも配慮しなければなりません。そうした事柄から決めればいいのでしょう。

(6)もっとこわい偶像

 私にとって、なぜそれが偶像崇拝にあたらないと考えるのかと言えば、それは私の信仰を脅かすものではないからです。偶像とは、神様に取って代わって、神様の位置を占めてくるような何かです。仏像を見ることとか、仏壇の前で手を合わせることで、私は自分の信仰が脅かされるとは思いません。(ただしそれが政治的意味合いをもってくる場合は別です。それを見極めることが、本当は難しいのですが)。
 むしろ私には、目に見えないような形で、神様に取って代わろうとするものがある。私に迫ってくるのは、もっと別のものです。それは身近なところではお金であり、お金を象徴する何かしらの文化です。またある時には武力であったり、権力であったりします。それらがあたかも神様よりも力あるもののように見える。神様に頼るよりも、お金に頼ろうとする。神様に頼ろうとするよりも、力に頼ろうとする。私はそうした事柄の中に、もっと根深い偶像崇拝の危険性を感じるのです。この「偶像」は、気がつかない形で私たちに忍び寄ってきますから、目に見える「像」よりもたちが悪いし、こわいです。
 今日は、マタイ福音書6章の言葉を、あわせて読んでいただきました。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)。

 神様に取って代わって、私の主人になろうとするのは、「富」だということがいみじくも示されています。私たちはそれを神とは思っていません。自分の自由になる単なるモノだと考えています。
 ところが、そのモノであるはずの何かがいつのまにか自分の主人の座を占めるようになり、自分を支配してくるのです。いつしかそれにとらわれてがんじがらめになり、それを失わないために、他のものを犠牲にするようになってしまう。モノが神になる時に、私たちの方がいつのまにかその奴隷になってしまうのです。
 私たちはまことの神様を拝むと言いながら、実はそれ以外のものに頼ろうとしていないでしょうか。神様だけだと頼りないから、同時にお金にも頼る。神様だけだと頼りないから、同時に武力にも頼る。それが自分を守ってくれる。国を守ってくれる。そう思っているのではないでしょうか。

(7)真っ直ぐに神を見つめて

 そうした偶像崇拝の誘惑の中、私たちはどのようにして信仰を保っていけばいいのでしょうか。それは「まことの神様以外の何者をも神としない」という第一戒を徹底すること以外にないのではないでしょうか。
 先ほどのマタイ福音書のすぐ前の箇所に、こう記されています。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」(マタイ6:22)。

 「目が澄んでいる」とは、「焦点があっている」という意味です。「目が濁っている」とは、逆に「焦点があっていない」ということです。二つのものを同時に見ようとする時、私たちの目は濁るのです。真っ直ぐに神様を見つめ、イエス・キリストを見つめて、信仰の道を歩んでまいりましょう。


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