主の名を尊ぶ (十戒・W)

〜出エジプト記講解説教(27)〜
出エジプト記20章7節
使徒言行録4章5〜14節
2004年7月11日   経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)部落解放、祈りの日

 今日は、十戒の中の第三戒である「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という言葉から、御言葉を聞いてまいりたいと思いますが、同時に、日本基督教団では、今年から7月第二主日を、「部落解放祈りの日」とすることにしましたので、このことも覚えたいと思います。
 名前というのは人格と深く結びついています。名は体を表すと言います。「誰かの名を尊ぶ」ということは、その名前を持つ人そのものを尊ぶ、ということであり、「名を軽んじる」ということはその人を軽んじるということ、「名を汚す」ということはその人の人格を侮辱するということに他なりません。
 部落差別、その他の人権の問題を心に留める時に、それがしばしば名前とも深く結びついていることを思わされます(在日韓国人の場合など)。
 日本基督教団の部落解放センターから届いた「部落解放祈りの日」運動の「部落差別がなくなりますように」というパンフレットにはこのように記されています。
 「荊冠の主を賛美します。
日本の社会には部落差別という差別問題があります。生まれ(家柄、出身地、居住地)によって人を価値づける差別です。多くの人々の努力によって改善されてきましたが、結婚差別や就職差別、差別落書きほかが絶えません。2002年に国の特別措置法が打ち切られ、部落差別問題はもう存在しないかのような風潮も生まれてきています。このような社会状況の中で日本基督教団は、2000年に『日本基督教団部落解放方針』を定めました。(第31総会期第5回常議員会)。『部落解放の祈りの日』運動は、この方針の具体化として行います。
 あなたの伝道所・教会で部落解放を祈ってください。」
部落差別というのは、過去の話であるように思っておられる方もあるかも知れませんが、今でも潜在的な形で存在しています。部落差別など考えたこともない人でも、いざ自分や家族が部落の人と結婚をするということになった時に、ネガティブな対応をしてしまうということがしばしばあります。私たちには、何かしらマイナスの情報が入ってきており、無意識のうちにそれに支配されてしまうのです。これはどんなに信仰をもっている人でも起きることですので、教会においても、「部落差別がなくなりますように」という祈りを重ねていくことは大切なことであると思います。
 今日のテーマである「名前」ということに関して言えば、先日、西南支区の部落解放連絡委員をしておられる三軒茶屋教会の陣内厚生先生から、「差別戒名」の話を聞いて驚きました。6月初めに、日本基督教団部落解放全国会議というのが神奈川で行われ、その時のスタディーツアーで、横浜と横須賀の境にあるお墓へ行ったそうですが、そこであるお墓に差別戒名をご覧になったそうです。まずその人の名前があって、その下に(順序は不確かですが)「穢散人成」というような漢字が書いてあったというのです。「穢れ散って人と成る」ということです。この世では「人に非ず」とされていた者が、死んでようやく穢れが散って一人前の人間になった、という意味です。その人は死んでようやく差別から解放されたことを告げているのかも知れませんが、他の人は死んだら仏になって、もう一段上に行くわけですから、その人は死んでも一段下であるとも言えるかも知れません。その話を聞いて、私は何か愕然といたしました。

(2)名を与え、名を呼ぶ神

 聖書の中でも名前というのは大事な意味をもっています。イザヤ書45章4節には、こう記されています。

「わがしもべヤコブのために、
わたしの選んだイスラエルのために、
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたがわたしを知らなくても、
わたしはあなたに名を与えた」(口語訳)。

 私たちに名前をつけてくれたのは私たちの両親でありましょう。あるいは祖父母であるかも知れません。しかしもっと深いところで、その人を導いて、あなたに名を与えたのは私だ、とおっしゃるのです。そのところで、神様は私たちと人格的な交わりを持とうとされる。私たちを製品番号ではなく、一人一人の名前で呼んでくださる。私たち一人一人は、神様の「作品」だ、大事な、かけがえのない存在だということを、聖書は私たちに告げています。

(3)エホバか、ヤハウェか

 それでは聖書の神様は、どういう名前なのでしょうか。文語訳聖書では、「エホバ」という名前が記されていましたが、私たちの使っている新共同訳聖書、あるいは以前の口語訳聖書でも、「主」という一般名詞に置き換えられています。どうしてかと思っておられる方もあるかも知れません。また最近では、「エホバ」よりも「ヤハウェ」(あるいは「ヤーウェ」)と言うのですが、どうしてそういうことが起きるのかと、思われる方もあろうかと思います。これにはちょっとややこしい事情があるのですが、なかなか興味深いことですので、少し説明しておきましょう。
 旧約聖書(のほとんどの部分)はヘブライ語で書かれていますが、ヘブライ語というのは不思議な言語で、アルファベット22文字が、すべて子音なのです。母音の文字がありません。昔のイスラエルの人は、これだけでも読むことができました。しかし後の人は、それだけでは読めないということで、AD7世紀頃の旧約学者が母音符号というのを作って、それをアルファベットの下にくっつけました。それで誰でも読めるようにしたわけです。
 さて神様の名前でありますが、ローマ字で言いますと、「YHWH」にあたる文字が、これにあてられています。「神聖なる四文字」と言われます。本来はヤハウェという名前であったのですが、「主の名をみだりに唱えてはならない」ということから、この「YHWH」という名前が出てくるたびに「主」「主なる方」という一般名詞で置き換えました。「アドナイ」という言葉です。「ヤハウェ」と言わないで、全部「アドナイ」(主)と言い換えた。さらには、「YHWH」をわざわざ「アドナイ」と読ませるために、「YHWH」の文字の下には、アドナイの母音符号「e・o・a」をつけました。「YHWH」に、この「e・o・a」という母音を重ね合わせますと、YeHoWaHとなります。これをそのまま読めば「エホバ」となります。見た目には、YeHoWaHと書いてあるのです。ここから神様の名前は「エホバ」だと誤解されてきました。しかし神様の名前は、どうもエホバではなく、ヤハウェだということが学者の研究から明らかになってきたわけです。今でも「エホバの証人」という名前を掲げている宗教団体がありますが、いかにも「あやしい神様」の「証人」という感じがいたします。
 そのようなややこしい事態になったのも、そもそもは「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあったからでした。「尊いお方を気安く名前で呼ぶものではない」、という意識が働いたのでした。

(4)神の名は力を持つ

 そもそも十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めそのものも、実は「ヤハウェの名をみだりに唱えてはならない」と書いてあるのです。神様は名前をもっておられて、御自分の方からイスラエルの民に向かって、それを明らかにされた方であります。自分が「主人」であるということを明らかにされただけではなく、名前を明かされたのです。
 出エジプト記第3章のところで、モーセは神様から召命を受けて、これからエジプトに遣わされるという時に、「あなたの名前は何と言うのですか。人が私に聞いてきたら、何と答えればいいのでしょうか」と尋ねました。その時に神様は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)とお答えになりました。これが、ヤハウェという名前の由来です。
 神様は、そのようにして、モーセに対して御自分の名前を示し、権威を与えられました。昔の考えでは、その名前を知ることによって、神様の力がその人に宿るとされていました。だから時々、神様の名前でもって誰かを呪ったりすることも行われていたようです。「主の名をみだりに唱えてはならない」ということは、その名前でもって誰かを呪ったりするなど、軽々しく、自分勝手に口にしてはならない、ということが含まれていました。

(5)イエス・キリストという名

 さて旧約聖書の中で、ヤハウェという名前でご自分をあらわされた神様は、新約聖書においては、イエス・キリストという名前で、よりはっきりと、もっと親しくご自分をあらわしてくださいました。
 イエス・キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束してくださいました。
 あるいは、ペトロが「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3:6)と宣言した時に、歩けなかった人が歩き出したということが聖書の中に記されています。
 イエス・キリストの名前は、イエス・キリストの権威を意味しており、その名前を口にする時、その力がそこに降るということを意味しているのです。だからこそ、その名前を、自分勝手のために使ってはならないのです。

(6)ボンヘッファー「教会の罪責告白」

 6月、私はローマで開かれた第9回国際ボンヘッファー協議会に参加してきましたが、その閉会礼拝で、南アフリカのジョン・デ・グルーチー氏は次のように語りました。
 「クリスチャンという名前は、偉大さと恥、栄誉と不名誉の両方を受け継いでいる。私たちはキリストの名において行ったことのうち多くのことは過ちであったことを知っている。宗教裁判、十字軍、ユダヤ人虐殺。ボンヘッファーはこの過ちを深く認識していた。しかしキリスト教は偉大さと栄誉という財産も持っている。それは力よりも弱さの中に、他者を支配することよりも、仕えることの中にこそ現れてきたのである。」
 興味深い言葉です。キリスト教の偉大さと栄誉は、一般に考えられているように、力の中ではなく、弱さの中にこそあらわれてきたというのは逆説的ですが、はっとさせられます。このデ・グルーチー氏の言葉は、実は、ボンヘッファー自身のある言葉を前提にしています。
 ボンヘッファーは1941年という年、ヒトラーがナチスを通して大きな力をもち、キリスト教会ですらもユダヤ人迫害に対して協力的になってしまった時代に、彼は「教会の罪責告白」という文章を書き残しました。これはモーセの十戒に沿って書かれた文章です。彼は、「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めに即して、このように書きました。
 「教会は告白する。−教会は、イエス・キリストの御名をこの世の人たちの前で恥じ、この御名が悪い目的のために間違って用いられることに対して力を尽くして防ぎ止めることをしなかった。そのことによって、彼の御名を誤用するという罪を犯した。すなわち教会は、キリストの御名を口実として暴力的行為と不正とが行われるのを見過ごしにした。教会はしかしまた、このいと聖なる御名が軽んじられることに対して、抵抗せずになすがままにされ、そうすることによってむしろ、そのことを促進した。神はその御名を悪用する者を罰せずにはおかないことを、教会は知っている」(『現代キリスト教倫理』p.71)。
 これは彼がひそかに書き記し、戦後、彼がナチスによって処刑された後で発見された文章であります。教会は、今イエス・キリストの名によって、神様の御心に反することをしている。それを彼は深い懺悔の心をもって書き記したのであります。

(7)神の名で自分を正当化する

 聖書の中に次のような言葉があります。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタイ7:21〜23)。

 厳しい言葉です。神様の名前、イエス・キリストの名を唱えていても、信仰深いとは限りません。かえってその名を、御心に反する形で、悪い方向に使っているかも知れません。
 今日の世界においても、神様の名(ヤハウェ、イエス・キリスト、アラー)が安易に語られすぎるということを深く憂えます。自分のため、自分の国のために、神の御名を持ち出します。本当は自分たちの利益のために戦争をしかけておきながら、その戦争を正当化するために、神の名前が持ち出されます。私たちは、クリスチャンとして、「聖書の神様は、そんなことは言っていない。それはむしろ、神様の名前を冒涜することではないか」ということを強く語っていく必要があるのではないかと思います。
 ただイエス・キリストの名前は、私たちを深く包み込み、私たちを導き、深く悔い改めさせてくれる力を持っているものと、私は信じます。イエス・キリストの名を本当の意味で尊び、深く悔い改める者を、イエス・キリストは受け入れてくださり、その名前によって、私たちを赦してくださいます。深く、畏敬の念をもって、神様の名前を、自分の都合のために語るのではなく、本当の神様の御心のために口にしながら、進んでいきたいと思います。


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