自由と喜びの日 (十戒・X)

〜出エジプト記講解説教(28)〜
出エジプト記20章8〜11節
マルコによる福音書2章23〜28節
2004年9月5日   経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)「休め」という戒め

 今日は十戒の中のいわゆる第四戒、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という言葉を学びましょう。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出エジプト20:8〜11)。

 「聖別する」というのは、最初から聖いものとして、区別して取り分けるということです。1週間のうちの一日を労働の日ではなく、安息の日として、取り分ける。私たちの生活が7日サイクルで成り立っているというのは、今は世界中で定着していますが、これは、もともとこの旧約聖書の文化に根ざしています。
 この安息日律法には、さまざまな意味がありますが、私たちはまず、単純に「1週間に一度、休む」ということが、戒めとして告げられていることを、心に留めたいと思います。これはどうも私たちが普通に考える命令とは違います。命令であれば、「働け」という方がよくわかります。「なまけるな」。ところが、面白いことに十戒の中には、「働け」という戒めはないのです。私たちが働かなければならない根拠を聖書の中に見出すとすれば、それは創世記の中のアダムとエバの話を挙げることができるでしょう。二人が罪を犯した時、神様は二人をエデンの園から追放するのですが、そこでアダムに向かって、「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。……お前は顔に汗してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に」(創世記3:17〜19)というのです。この言葉にも深い意味が込められていますが、今日はあまり話を広げないようにしたいと思います。
 とにかく十戒の中には、「働け」という戒めはないのに、「休め」という戒めがあるのです。このことからして私は、十戒が恵みの言葉であることを、よく指し示しているように思います。
 私たちは、休むことに対して、どこかうしろめたい気持ちを持っています。特に日本人はそういう傾向が強いのではないでしょうか。「働け、働け」で、ずっとやってきた。日曜日と言っても何をしていいかわからない。教会に行くわけでもない。ゴルフに行くか、さもなければ会社に行ってしまう。ワーカホリックという言葉があります。仕事依存症ということです。(アルコール依存症のアルカホリックという言葉に仕事のワークを掛け合わせた造語です。)何か仕事をしていないと落ち着かない。昔の日本は、「月月火水木金金」と言って、休みなしに働いたそうですね。ちなみに私にとっては、「月月火水木金金」の方がありがたいですが……。時々、引退なさった方で、「毎日が日曜日です」と言う人がいますけれども、毎日が日曜日だったら、私は死んでしまいますね。逆に時々、「牧師さんは、週休六日でいいですねえ」とおっしゃる方がありますが、そんなことはありません。むしろ昼も夜も、月曜日もずっと仕事をひきずっていて、その合間を縫って上手に休んでいるという感じです。
 ただし私も意識的に、どんなに仕事がたまっていても日曜日の夜だけは、できるだけ仕事をしないようにしています。大抵、ビデオで映画を1本観るというのが習慣のようになっています。先日、ある牧師会で、そんな話をしていましたら、「ええ『新撰組』、観てないんですか」と言われました。「新撰組」(NHK大河ドラマ)を観て、日曜日の夜を過ごすという牧師も多いようです。

(2)休暇も大事

 安息日ということから話は広がりますが、有給休暇というのも、日本では実際には、その日数、休暇を取ることは難しいと聞きます。「その通り休暇を取って帰って来たら、デスクがなくなっているだろう」ということも、冗談交じりの本音のようにしばしば聞くことです。
 その点、ブラジルでは違いました。休暇についての社会全体のコンセンサス(共通理解)があります。休日の過ごし方、休暇の過ごし方をよく心得ていました。ちなみに、雇用者は誰かを1年間雇ったら、1ヶ月の休暇を与えなければならないという法律があり、それはきちんと守られています。1ヶ月まとめて取ることのできない仕事の人は、年に2回に分けて取ったりしていました。そしてそのことについて文句を言う人は誰もいません。
 「休暇は大事だ。休暇がなければ、私たちは働いていけない。あるいは休みのために働いている。」よくブラジルでは、「カーニヴァルの4日間のために一年間働くのだ」と言われます。もちろん誇張がありますが、ただ休みを取るために働くというのは、私は今回「案外聖書に即しているのでは」と思いました。そのことは後で、少し申し上げます。
 さて休日のことから休暇のことまで、話が広がってしまいましたが、意識的に、そのように仕事を中断することは大事なことではないかと思わされます。いかなる仕事であれ、私たちはそこで一旦仕事を中断することで、心も体もリフレッシュされて、また新たな気持ちで仕事を再開することができるのです。
 日本人が休暇というものを、仕方のないものとして消極的に認めるに留まり、そこに積極的意義をなかなか見出せないのはやはり、「休む」「仕事を中断する」ということを、神様の戒めとしてとらえるセンスに欠けているから、あるいはそういう信仰がないからかと思います。

(3)天地創造を覚えて

 この戒めは、最後に根拠が示されています。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)。安息日を守るということは、神様の天地創造に由来しているのです。

「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世記2:2〜3)

 仕事そのものは六日で終わっているのに、第七の日にその仕事を完成された。これは、意味深いことです。仕事は安息をもって完成する。極端な言い方をすれば、その安息日のために、仕事日があると言ってもいいかも知れません。そこで改めて六日間の仕事を振り返って、それを確認し、喜ぶのです。
 安息日は、休息を取る日であると同時に、神様の創造のわざをたたえる日であります。そこで私たちは、自分自身が神様によって造られた者であることを新たに覚え、神様の創造の業を感謝するのです。

(4)出エジプトの出来事を覚えて

 十戒は、出エジプト記の他に、申命記にも出てくるのですが、安息日律法の根拠が、少し違っております。

「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに、六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5:12〜15)。

 出エジプト記20章11節では、天地創造を安息日の根拠としていましたが、この申命記の方では、出エジプトの出来事を根拠にしています。神様があなたたちを解放した。そのことを覚えて、安息日を守れ。だからここでは、私たち自身が解放されたこと、救われたことを喜ぶと同時に、私たちも他の人を自由にすることが求められています。「神様があなたを解放してくださったように、あなたもあなたのもとで働く人たち、奴隷たち、そして家畜までも、休ませなければならない。」ここで、安息日を覚える二つ目の大事な意味が語られています。それは、私たちが自由とされたことを覚え、同時に、他の人も(家畜も)休ませるということです。

(5)他人をも休ませる

 私たちは、それが命令、あるいは義務として示されなければ、なかなか人を休ませることをしないのではないでしょうか。あるいは逆に誰かのもとで働いている人は、それを正当な権利として、休むということを言いにくいのではないでしょうか。奴隷であれば、なおさらでしょう。「自分のことばかり考えていてはいけない。あなたのもとで働いているものもあなたと同じように休みを必要としているのだ。」それを神様からの命令として受けとめるのです。
 「休め」「仕事を中断せよ」というのは、そのように私たち自身への解放のメッセージであると同時に、横の広がりをもっています。これは大事なことです。
 十戒は2枚の板に書かれたと言われています。前半と後半に分けられる。前半は神様と人との関係についての戒め、後半は人と人との関係についての戒めです。安息日律法は、前半に属するものですが、ここには人と人との関係のことも含まれている。私たちが自由にされたように、他の人も休ませなければならない。そうだとすれば、この安息日律法は、1枚目の板から2枚目の板への移行を示しているということもできるでしょう。

(6)ボンヘッファーの「罪責告白」

 前回、「主の名をみだりに唱えてはならない」の箇所でお話した時に、ディートリッヒ・ボンヘッファーが、十戒に即して、教会の罪責告白という文章を書き残したことを紹介しました。ボンヘッファーは、この安息日律法のところでも、非常に興味深い言葉、罪責告白を書いています。

「教会は告白する。――教会は、祝い日を失い、その礼拝を荒廃させ、日曜日の安息を軽視するという罪を犯した。教会は、休息の喪失と不安という罪を犯し、しかしまた、労働日を越えての労働力の酷使に対して責任がある。」(『現代キリスト教倫理』森野善右衛門・村上伸訳、『信徒の友』2002年9月号参照)。

 これは、当時のナチスによる「ユダヤ人の強制労働」のことを念頭において書かれたと言われます。ユダヤ人は、クリスチャンよりもさらに厳密に、安息日を守ります。しかしそのユダヤ人たちを強制労働に駆り出し、しかも休ませさせないで働かせた。教会がそのことを是認したことは、明確な律法違反であると言ったのです。

(7)安息日律法の精神

 安息日律法を守るという時に、その文字面を守るということよりも、そこにどういう神様の意図が込められているか、安息日律法の精神がどこにあるかということを考えなければならないでありましょう。日曜日に働かなければならない人もいます。よく言われることですが、皆さんが今日、教会に来ることができたのは、電車やバスが動いているからであり、タクシーが動いているからです。私たちの礼拝はその人たちの働きに負っているわけです。その他にも日曜日に働かざるを得ない人はたくさんいます。そういう人のことを指して、「安息日律法を守っていない」ということではありません。
 イエス・キリストご自身、ファリサイ派の人々から、「安息日にしてはならないことをしている」と非難されましたが、イエス・キリストは、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。人の子は安息日の主である」(マルコ2:27)と言われました。本当に大事なことは、そこで安息日律法をただ形式的に守っているかどうかよりも、その精神をきちんと理解しているかどうかであると思います。

(8)復活と永遠の安息

 キリスト教会は、かなり早い時期から、土曜日ではなく、日曜日に礼拝をするようになりました。(セブンスデー・アドベンティストのように土曜日に礼拝する教派もありますが、)私はキリスト教会が土曜日から日曜日に礼拝の日を移したというのは、積極的な意味があると思っています。なぜクリスチャンが日曜日に礼拝するようになったのか。それは、日曜日がイエス・キリストの復活の日であったからです。そして復活と安息には、深い関係があります。
 神様が6日で世界を造られ、7日目に安息なさったということは、神様の歴史そのものを象徴しているように思います。この世界は、神様の計画の中で動きながら、最後には安息がある。安息でもって終わることが約束されているのです。
 もう少し小さな枠組みで言えば、私たちの人生もそうです。ひたすらこの世界で働いて、ぱたっとそれっきりで終わってしまうのではありません。終わりには安息がある。大いなる安らぎ、憩いがある。永遠の安息のうちに入れられる。聖書は、そう約束しているのです。そうだとすれば、安息と復活は切り離すことはできません。私は主の復活の日に、安息を祝うのは、まことにふさわしいことであると思います。
 その憩い、安息を、それぞれの人生が終わる前に、あるいはこの歴史が終わる前に、私たちは1週間に一度、味あわせていただいていると言えるのではないでしょうか。
 安息日は終わりの日を指し示していますが、そこには宴が用意されていると、聖書は告げています。私たちはこれから聖餐式をいたしますが、これもその終わりの日の宴を指し示しております。そのことを深く心に留めながら、これに与りましょう。


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