〜出エジプト記講解説教(29)〜
出エジプト記20章12節
テモテへの手紙一 5章1〜8節
2004年9月19日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
十戒を続けて読んでおります。今日はその第五戒、「あなたの父母を敬え」という戒めを心に刻みましょう。日本のカレンダーでは、明日は敬老の日であり、教会ではそのことを覚えて、今日、敬老の祝いをいたします。この敬老の祝いの日に、ふさわしい御言葉が与えられたと思っています。
ちなみに、日本の「敬老の日」について、インターネットの百科事典『ウィキペディア』には、次のように記されていました。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝うことを趣旨としている。」由来については、こう記されていました。「敬老の日は、兵庫県多可郡野間谷村(現在の八千代町)の門脇政夫村長が提唱した『としよりの日』が始まりである。『老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう』と、1947年から、農閑期に当り、気候も良い9月中旬の15日を『としよりの日』と定め、敬老会を開いた。これが1950年からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がった。『としよりの日』という呼び方はひどいということで、1964年に『老人の日』と改称され、1966年に国民の祝日、『敬老の日』になった。」
さらに「元々は9月15日だったのが、2001年の祝日法改正(ハッピーマンデー制度の適用)によって、2003年からは9月第三月曜日となった」とありました。月曜日と祝日を重ねて連休にしようということであります。(もっとも牧師である私には、ずらしておいてもらった方がありがたかったのですが。)
現在、百歳以上のお年寄りは、日本全国で、23038人です(今年の9月14日現在)。そのうち19515人(85%)が女性(おばあさん)です。やはり「女は強い」という感じがいたします。この中の二人は、私たちの教会の天野筆子さんと木原道さんです。私たちの教会の男性の最長寿は、山崎初太郎さんであろうかと思います。先週9月13日に、98歳の誕生日を迎えられました。私は14日に、ご訪問いたしましたが、お元気です。ソファーに座り、一緒に聖書を読んで、私のメッセージもきちんと聞いてくださいました。畑仕事などは大分難しくなったとのことでしたが、98歳ですから、当然と言えば、当然です。「あまり無理しないでください」と申し上げました。「昔は気難しかったのですが、最近はよく笑うようになった」と、奥様がおっしゃっていましたが、私たちもそういう歳の取り方をしたいものだと思います。
ちなみに私の家族のことで恐縮ですが、私の曾祖母(松本フサ)は今から三十数年前に102歳10ヶ月まで生きました(1869〜1972年)。当時の百歳は全国で300人程でしたから、現在より二桁少ない時代です。姫路一を2年間キープしました。あの記録は一度1位になると、途中で抜かれる心配がないからいいですね。その曾祖母が、実は101歳で、イエス・キリストを主と告白し、クリスチャンになりました。百歳を超えるクリスチャンは何人もあったでしょうが、百歳を超えてから洗礼を受けたというのは、もしかすると珍記録のギネスブックものかも知れないと思います。百歳を超えてからでも遅くはないのだという気がします。ただし皆さんの中で、まだ洗礼を受けておられない方は、くれぐれも「私も百歳を超えてからの受洗記録に挑もう」という気は起こさないでいただきたいと思います。
先ほど「敬老の日」の由来について申し上げましたが、国民の祝日に制定されてから40年というのは、案外、新しいのだなと思いました。もっとも、そんなことを一々、国が定めなくても、お年寄りを大事にする習慣は、日本には昔からあったのかも知れません。大家族で共に住み、おじいさん、おばあさんと生活を共にしていた。そこから若い人は自然にいろんなことを学び、自然に尊敬、敬愛の念も育っていたのではないかと思います。
現在では日本人の多くが核家族のライフスタイルになり、普段はおじいさん、おばあさんと交わりが少なくなってしまい、「敬老の日」のような機会に、意識的におじいさん、おばあさんを覚え、会いに行くということになっているのかも知れません。
聖書の時代においても、お年寄りにどのように接するかというのは、大事な問題であったようです。十戒の中に、「あなたの父母を敬え」とあるのは、むしろそれが決して当たり前のことではなかったということを、逆に示しているように思えます。ここで「敬う」と訳された言葉は、「重んじる」という意味です。「相手にふさわしい重みをきちんと理解して、その重みにふさわしく接する」ということです。
前回、「十戒は2枚の板に記され、1枚目は神と人との関係について、2枚目は人と人との関係、隣人との関係について記されている」と申し上げました。その2枚目の最初が、この「あなたの父母を敬え」という戒めであります。
考えてみますと、父と母というのは、私たちがこの世界で一番最初に出会う隣人であります。そこから私たちの人付き合い、人間関係が始まっていくのです。父と母がいなければ、私たちはこの世に生まれることはありませんでした。私たちは何よりもまずその重みを理解しているか、わきまえているかということでありましょう。「その重みにふさわしく接しなさい」。私たちにしてみれば、もしかすると、「何でこの家に生まれたのか、もっと他の家に生まれた方がよかったのに。あの家の子どもはいいなあ」と思うこともあるかも知れません。子ども時代には一度はそういうことを思うものでしょう。
しかし私たちは「その父」と「その母」のもとで、この地上に生を受けたのです。私たちが選んだのではないけれども、そこが私たちの人生の出発点です。その二人がいなければ、今自分がここで生きていることもなかった。その重みをわきまえたいと思うのです。そしてそこには神様の選びがありました。神様がその両親を通して、そこを入口として、私たちをこの世へ送り出してくださった。その重みをわきまえたいと思うのです。両親にとっても、その子を自分で選んだとは言えない。神様がそこで、その子どもと自分たちを出会わせてくださったのです。そのように親子の関係を考える時にも、そこに神さまが介在しておられるということを覚えたいと思います。
もちろん、父母というのは、産みの親、というだけではないでしょう。自分を産んでくれた親と、育ててくれた親が違う場合もあるでしょう。しかしその場合もやはり、その育ての親がいなければ、今の自分はなかったのです。自分の人生はその親に負っているということをわきまえたいと思うのです。
この戒めは、ある意味で子どもにはよくわかる戒めであろうかと思います。「お父さんお母さんを敬って、言うことをよく聞きなさい。」子どもは、親の庇護のもとにあり、それなしに生きていくことはできません。わかる、わからないにかかわらず、必然的にそのような生活形態になるでしょう。もちろんそういうことも含みながらではありますが、むしろこの言葉は成人した大人に向かって語られている言葉ではないかと思います。大人になってしまいますと、ついその重みを忘れがちですが、やはりそこが私たちの人生の原点なのです。
前回、「安息日を覚えよ」という第四戒は、1枚目の板にあって、2枚目への橋渡しになっているということを申し上げました。この第五戒は、逆に2枚目にあって、1枚目とのつながりを示している戒めであると思います。
私たちは父母を敬うことの向こうに神様を見るのです。父母を重んじることを通して、神様を重んじることを学ぶのです。
またその父母との出会いは、神様が備えてくださったものです。ですからその父母との出会いを通して、神様に感謝をしていくのです。感謝をするということは、私たちの信仰の基本であります。
さてこの戒めには、後ろにこういう言葉が付け加えられています。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(12節)。
これは十戒の中で、唯一、祝福の条件のようになっている戒めです。「そうすれば云々」というのです。エフェソの信徒への手紙にこういう言葉があります。
「子供たち、主に結ばれている者として、両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい』。これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です」(エフェソ6:1〜3)。
これはおもしろいなあと思います。「父母を敬うと、私たちはそこで長生きする」というのです。どういうことでしょうか。
ひとつには、父と母を敬うことによって、父と母から大事な知恵(特に信仰)を学ぶということがあるでしょう。それは経験に裏打ちされた知恵であって、若い者には気づかないことが多いものです。
また父母を敬うという良い心に神様が報いてくださって、長生きさせてくださるということもあるかも知れません。さらに子どもは、自分の親が祖父母にどのように接しているかを見ていますので、やがて自分たちが年老いた時に、子供たちはそれと同じようにするものです。そういうことも間接的に言っているのかも知れません。
同時に「父と母」というのを、もっと広く解釈して、ある共同体(イスラエルの共同体とか、教会とか)の中の「父と母」、年輩者と理解することもできるでしょう。そこでも先達に学ぶのです。先達の知恵は共同体全体を生かします。
またある共同体で年輩の方々を敬うということは、その共同体全体が優しくなり、健全になることを示しているのではないでしょうか。先ほどお読みいただいたテモテへの手紙一に、「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」(一テモテ5:1)とありました。
教会でもどこの社会でもそうでしょう。お年寄りでも誰でも、弱さを覚えている人、弱さを持っている人に優しい共同体というのは、他の人にとっても優しいのではないでしょうか。旧約聖書の中で、社会のしわ寄せを一番受ける、弱い人の代表として、「寄留者」「寡婦」「孤児」というのがよく出てきます。そういう人たちが、一番社会の犠牲になりやすいのです。律法は「こういう弱さをもった人々を大事にしなさい」というのです(出エジプト22:20〜21など参照)。これは示唆に富んでいます。そのような共同体の中でこそ、すべての人が長く生きることができるのではないかと思います。
日本の社会は高齢化社会から高齢社会になり、そして超高齢社会に移行していると言われます。教会の中でもそういう面がないわけではありません。教会が一体どういう共同体であるべきか、聖書を通して学んでいきたいと思います。
先ほどの「老人を叱ってはなりません」という言葉に、思わずにやりとなさった方もあるのではないでしょうか。教会の中ではむやみに老人を叱るな、というのです。自分の実の父親と思って接しなさい。そして年老いた婦人は自分の母親と思いなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。その重みをわきまえて接しなさい、ということであろうと思います。最近では、「敬老」というより「軽老」だなんて冗談で言う人もありますが、私たちはきちんと、お年寄を重んじる共同体を形成していきたいと思います。
イエス・キリストの幾つかの言葉を思い起こします。主イエスは、「わたしよりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイ10:37)と言って、イエス・キリストとの関係を基本にすえることを大事にされました。
また「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と問いつつ、弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言って、肉親を超えて、信仰の兄弟や父母を尊重されました(マタイ12:48〜50)。
その一方で、十字架の上で息を引き取られる時に、自分の母マリアと愛弟子(恐らくヨハネ)を引き合わせられました。母マリアに向かっては、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言い、愛弟子に向かっては、「見なさい。あなたの母です」と言って、母マリアを愛弟子に託されました。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取ったと記されています。(ヨハネ19:26〜27)。主イエスは、そのように最後まで母マリアのことを気づかわれ、決してないがしろにされたわけではありませんでした。
またここに記されているのは、教会という共同体の原型であると思います。イエス様が、「これはあなたの父です。」「これはあなたの母です」「これはあなたの子です」と言われる。主イエスが引き合わされ、結び合わされる家族が、教会という「神の家族」ではないでしょうか。皆さんの中には、自分のお父さん、お母さんを天に送られた方もあろうかと思いますが、ここに神様、イエス様が引き合わせてくださったお父さん、お母さんがあり、イエス様が引き合わせてくださった子どもたちがいる。そういう家族と共に、私たちが礼拝をし、共に時を過ごすことができるのは幸いなことであると思います。