〜出エジプト記講解説教(30)〜
出エジプト記20章13節
マタイによる福音書5章21〜26節
2005年1月9日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
明日は成人の日であります。私たちの教会では、大畑るみさんが成人式を迎えられ、今日はそのお祝いをすることになっています。成人するとはどういうことでしょうか。それ以前と以降では、何が違うのか。これは、普通の生活をしている時にはそれほど何も感じないかも知れません。選挙権ができるということはあります。ただし何か法に触れるような罪を犯した時、例えば誰かを殺してしまったような時には、その刑罰の重みが全く違ってきます。それを裁く法そのものが違う。少年法ではなくなる。補導ではなく、逮捕になる。新聞やテレビでも実名で報道されるようになる。20歳になったら、その責任が自分自身に問われるようになるということです。逆に言えば、そのように成熟した一人前の人間として、社会から認められるようになったということでもあると思います。
人生を一人の成熟した人間として歩むにあたって、信仰をもっているということは、私は大事なことであると思います。それによって、人生の根拠、人生の意味をはっきりと見据えることができるようになるからです。あるいは社会のルール、人と人との関係を考える時にも、その基礎に神様との関係を据えるのです。
今日は、4ヶ月ぶりに出エジプト記の十戒を読むことになりました。第六戒の「殺してはならない」という戒めであります。成人の日に、この戒めをご一緒に学ぶことは有意義なことであると思います。
数年前、17歳の少年による殺人犯罪が重なりまして、注目されたことがありました。「少年犯罪が増えている。極悪犯罪が低年齢化している。だから少年を裁く法律ももっと厳しくしなければならない」という論調でした。もっとも弁護士の坪井節子さんの話では、「それは大いにマスコミの取り上げ方の問題であって、特に少年犯罪が増えたわけではない。むしろ減っている」、とコメントしておられました。
その頃、子どもたちから「なぜ人を殺してはならないのか」という質問が出されたのですが、それに対して明確な答えを出すことのできた大人は、そういなかったのではないかと記憶しています。「こんな当たり前のことを聞かれるようになったのは嘆かわしいことだ」というのは何の答えにもなっていません。「誰でも愛される人を殺されると、悲しいだろう。」「人を殺すと、自分も壊れる。」「それが社会のルールだ。人を殺すことを容認すると、社会が成り立たない。」そういった答えは、それぞれになるほどと思うこともありますが、何か決定的な説得力に欠けているように思いました。最後の「社会のルールだ」というあたりが、落ち着くところなのかも知れません。
私は、「なぜ人を殺してはならないのか」という問いに対する答えというのは、そのような人間的地平で見ている限り、決定的な答えはないのではないかと思います。ですから、一度その社会のルール、決め事となっている前提が壊れると、「人を殺してはならない」ということも、途端にあやしくなってしまうのです。
私は、そこでこそ「殺してはならない」ということを、神の戒めとして聞くことが重要になってくるのではないかと思います。
もちろん神の戒めと言っても、それを聞いてきた神の民は殺戮を繰り返してきましたし、旧約聖書自体がそれを容認しているように見える面がありますので、これはデリケートな問題を含んでいます。しかし根本的なところで、命は神の領域であること、私たち人間には、それを取り去ることは許されていないのだということ。これが、聖書が私たちに告げる根本的なことであり、私たちは、これを神の戒めとして聞かなければならないのです。
人を殺すということは、その人を創った神の意志を否定することです。創世記には「神は、御自分にかたどって人を創造された」(創1:27)とありますから、すべての人間は何らかの神のイメージを宿していることになります。誰かを殺すということは、その人に宿った神のイメージを汚すことであり、人間の手で、そのイメージを抹殺することだと思います。もちろん問題はそう簡単ではないことは承知していますし、限界状況というものが存在することも事実でしょう。具体的な諸問題については、後で述べてみたいと思っていますが、根本はそういうことです。私たちは、子どもたちから、いや大人からであっても、「どうして殺してはならないのですか」と問われたら、信仰を持つ者として、「それが神様の命令だから」「それが神様の意志を否定することだから」「その人も神様に愛されている人だから」という答えをしたいと思うのです。
さて「殺してはならない」という戒めは、短く、明快な言葉であります。だからわかりやすい戒めであるように思われるかも知れません。皆さんは、この「殺してはならない」という言葉を聞いて、どう思われるでしょうか。「自分がどんなに悪い人間であったとしても、人殺しをするほど悪い人間ではない。他のどの戒めよりも安心して聞くことができる。」そのようにお考えの方も多いのではないでしょうか。しかしこの戒めは、実はそれほど簡単なものではありません。
ひとつには、「殺してはならない」と言いながら、旧約聖書には、実に多くの殺戮が記されている。この矛盾をどう考えればいいのかということがあるでしょう。実は、この「殺してはならない」という戒めに使われている「殺す」という言葉は、ラーツァハというヘブル語ですが、これは幾つかの「殺す」という言葉の中で、あまり使われない言葉、ある特定の殺害行為に限って用いられた言葉であったそうです。それは「個人的な恨みによる恣意的な殺人、あるいは共同体が認めない殺人、つまり共同体の生活を危険に陥れる「反共同体的な殺害」を禁止しているのだということです(シュタム)。だから「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」(出エジプト21:12)とあるように、共同体を守るための「死刑」や「戦争」は、この「殺してはならない」ということにあてはまらないと考えたわけです。私は、それは当時の事柄として受けとめながら、今も生きた神の言葉としてこの戒めを聞く時には、そう簡単に割り切ることはできませんし、割り切ってはいけないと思っています。
主イエスは、この戒めを根源にまでさかのぼって考えられました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5:21〜22)。
ただ殺人をしなければいいというレベルではない。実際に殺さなくても、その根源に何があるか。その根源にあるものを取り除かない限り、この戒めを守ったことにはならないということです。ヨハネの手紙一にも、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」という言葉があります(3:15)。
『ハイデルベルク信仰問答』は問105から107のところで「殺してはならない」という第六戒について解説をしています。その一部を読んでみましょう。
「問106 しかし、この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。
答 神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」
ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心。だんだんエスカレートしていくようですが、この一つ一つは私たちにも思い当たるものがあるのではないでしょうか。私たちはふと、「あの人さえいなければ、こんなにしんどい思いをしなくて済むのに」と思うことはないでしょうか。それは「一種の隠れた殺人である」と言うのです。先ほどの主イエスの言葉に通じるものがあります。
私は、この「殺してはならない」という戒めを考えるにあたって、もう一つの「隠れた殺人」というものを考えなければならない、と思っています。それは、無関心あるいは利己心というようなことです。私たちは今日の世界が大きなネットワークによってつながっており、自分たちの生活が、遠い国の人々の生活と密接に関連しているということを知らなければなりません。私たちの豊かな生活は、往々にしてある人たちの犠牲に成り立っています。例えば、アメリカや日本が石油を確保するということと中東の戦争は無関係ではありません。そこで誰かがその戦争によって死んでいるのであれば、私たちはこの「殺してはならない」という戒めを侵していることになるのではないでしょうか。また、私たち第一世界の豊かさと、第三世界の貧しさは裏表のようなものであり、そこで貧困のために誰かが死んでいるとすれば、この第六戒と関係があるのではないでしょうか。
さてこの「殺してはならない」という戒めを考えるに当って、5つほどの具体的な問題に直面させられます。
第一は自殺であります。他人の命だけではなく、自分の命を絶つことも、神様の前では罪であり、この第六戒を侵すことです。私たちは、自分の命の主人ではありません。命の主人は神です。ですから神が定められた時まで、生きなければならないのです。ただそこに追い詰められたどうしようもない状況というものがあるでしょうし、また病気のために自殺するということもあるでしょう。罪は罪でありますが、それが罪である限り、イエス・キリストによって担われないような罪もないと、私は思います。ですから生きている人に向かっては、「私たちはどんなことがあっても死んではならないのだ」ということを告げると同時に、もしも誰かが自分の死を選んでしまったような場合には、その人を安易に裁くようなことはせずに、恵みの神様の御手に委ねていくような態度が求められるのでしょう。
第二は安楽死の問題です。誰かがとても苦しんでいて、しかも回復の望みがない場合に、その人の死を早めてあげることが許されるかということです。これは、生命倫理の問題です。基本的には、命を故意に縮めることは人間には許されていないと思いますが、私が何か結論めいたことを述べることはできませんし、控えるべきでしょう。また自力で生きられないような状態で生命維持装置をはずすことは、尊厳死と言って、安楽死とは区別しているようです。
第三は、妊娠中絶の問題。子どもが母親の胎内に宿ったら、それはすでに一つの命でしょう。それを自由に殺してもよいというのは、人間の傲慢であると思います。しかしこのことも同時に、ただ律法的に母親に「おろしてはいけない」と言うのではなく、妊娠中絶を考えざるをえないような状況、母親を追い込んでいく社会構造の問題を、より深く自分たちの社会の責任として考えていかなければならないでしょう。
第四は、死刑の問題。旧約聖書には死刑が出てくるわけですが、私たちはこれについて慎重に考えなければならないと思います。冤罪で死刑判決を受けることもありますし、死刑というものが犯罪の抑止になっていないということから、死刑廃止の声が高まってきております。
第五は戦争です。木村公一先生が昨年9月に来てくださった折に、マックソーリというカトリックの倫理学者がアウグスティヌスとトマス・アクィナスの正戦論をまとめたものを紹介してくださいました。正戦とは、正しい戦争、Just Warです。Holy War(聖戦)ではありません。どういう場合に、それが正しい戦争と言えるのか。5つの条件を挙げたそうです。第一は、宣戦布告をすること。奇襲攻撃はだめです。第二は、それが最後の手段であること。まだ他に方法がある時は、戦争をしてはいけないということです。第三に、宣戦布告する側に正しい意図が無ければならないということ。領土の拡張、利権の拡大はその理由にならない。正義の回復のためでなければならないということです。第四は無辜の民衆の殺傷を禁ずる、非戦闘員を巻き込んではならないということ。第五は、つりあいの原則。戦争によって発生する被害を数値化して、戦争によって取り戻される善も数値化して、そちらの方が多ければ正戦であるということです。この5つの条件を挙げたのです。
私はとても興味深く聞きました。今日の戦争をこの基準にあてはめるならば、今日では、もはや正しい戦争というのはありえないのではないか、と思いました。特に四番目と五番目。今日、非戦闘員を巻き込まない戦争というのはありえませんし、釣り合いの面でも、被害の方がはるかに大きくなってしまうからです。
「殺してはならない」という戒めは、そのようなさまざまな問題に関係しています。それらに対して、ある結論を出すのは非常に難しいものです。しかしそうした中にあっても、私たちは一つ一つ具体的に対処していかなければなりませんし、あれかこれかの判断が問われることもしばしばあります。そこでいつも根源的に立ち返らなければならないのは、「命は神様の領域だ」ということでしょう。この戒めは、成人した人間として私たちが生きていくに当たって、とても大事なことを指し示すものです。そこで私たちは「命の神様がおられるから」「神様のイメージがそこにあるから」ということにまでさかのぼり、信仰的にも大人として歩んでいきたいと思います。