〜出エジプト記講解説教(31)〜
出エジプト記20章14節
マタイによる福音書5章27〜32節
2005年5月29日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
今日は、久しぶりに出エジプト記の十戒のテキストに戻ります。「殺してはならない」に続く第七の戒め、「姦淫してはならない」という戒めを心に留めましょう。「姦淫」というのは、なかなか取り扱うのが難しい問題です。何か自分の恥ずかしい部分をさらけ出されるような気持ちがつきまとって、「できればこのことには触れたくない。公の話題にはしたくない」と思うのではないでしょうか。それでいて一旦話題になれば、とかく興味本位のことになってしまいがちです。誰かが不倫をしたという話は、いつも週刊誌をにぎわしておりますし、有名人ではなくとも井戸端会議には「持ってこい」の話題です。
私自身、「姦淫してはならない」という戒めは話すのが難しいな、という意識が働いたせいか、それまでは月に1回ペースで、十戒について説教していたのに、「殺してはならない」からついに4ヶ月が経ってしまいました。でもこれ以上、延ばすわけにいきませんし、とばすわけにも行きませんので、心して、取り上げることにしました。
その前の「殺してはならない」については、多くの人は「自分はどんなに悪いことをしようとも、人殺しまではしない。他の戒めはともかく、これは大丈夫だ」と思うのではないでしょうか。それに比べると、「姦淫」「不倫」の話は、いつも身近にあります。それだけに自分のところにまで忍び寄ってくる可能性も大きく、殺人よりもはるかに大きな誘惑であると言えるかも知れません。
イエス・キリストは山上の説教で、十戒の中の幾つかの戒めを一つ一つ取り上げながら、その根源にまでさかのぼって解釈されました。「殺してはならない」という戒めについては、次のように語られていました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:21〜22)。
私たちが誰かに腹を立てる時、「あの人なんかいない方がいい」と、心の中で思う時、すでに「殺してはならない」という戒めを犯したことになるのだということです。
それに続いてこう語られたのです。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:27〜28)。
こういう風に言われると、誰もこの戒めから逃げることはできないように思います。
ヨハネ福音書8章の冒頭に、有名な「姦淫の女」の話が出てきます。姦淫をおかした女性を広場に連れ出して、律法に従ってその人を石で打ち殺そうというのです。みんなが石をもってかまえながら、イエス・キリストに向かって、「さあ、この女をどうしましょうか」と尋ねます。その時イエス・キリストは「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:8)と言われました。そうすると、誰も石を投げることができなかったというのです。「罪を犯したことのない者」の「罪」にはもちろん、すべての罪が当てはまるのでしょうが、私はこの時、特に姦淫の問題について、みんな心の中では自分も紙一重だということを感じたのではないかと思います。
ただイエス・キリストは、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女をおかしたのである」と言う言葉で、自然な性欲を否定されたのではないと思います。この言葉だけを聞きますと、あまりにも理想的、あまりにも現実離れしているように思えてしまいます。そしてその理想と現実の矛盾に苦しんでしまう。そう感じる人もあるかも知れません。
しかし私たち人間が性的な関心を持ったり、衝動を持ったりするというのは、みだらなことでも何でもなく、ごく自然な当たり前のことであると思います。むしろ神様が創られた創造の神秘、美しさに属することです。旧約聖書は、これを大らかに肯定しています。旧約聖書の中に雅歌というのがありますが、これを読みますと、恋愛小説か何かを読んでいるようです。主イエスも、基本的に旧約聖書の教えを受け継ぎながら、その伝統の中におられると思います。
それでは主イエスのこの厳しい言葉を、どういう風に理解すればいいのでしょうか。一体、何が問題なのでしょうか。私は、自分の性欲を満たすために、私たちが入ってはならない領域にまで踏み込んでいくこと、これこそが罪ではないかと思うのです。姦淫、不倫も愛の一種だと言われることがありますが、実は愛とは正反対のことであり、愛の破壊です。
姦淫とは、侵入を意味します。一組の男女が幸せな結婚を楽しんでいるところに、他人が土足で踏み込んでいって、壊そうとする。愛の絆に生きようとしている人々のところに、土足で踏み込んでいく。それは押し込み泥棒に似ていますが、そういうことが一番の罪なのではないでしょうか。
また実際の行為にまで至らなくても、目や心において、すでにそういう「侵入」が始まっているのだと、主イエスは告げられたのだと思います。
私はそうした愛と性の問題を広く考えてみますと、責任を伴わない性行為であるとか、お金でもって性を買う「買春」(売春と区別)とかいうことも、すべてこれに関係してくるのではないかと思います。なぜそれが問題なのか。それが人の幸福を奪うからです。自分の欲望のために、他人の人権、他の人の幸福を犠牲にするからです。特に、性のことに関してそういうことははっきりとあらわれてきます。昔からそうした身勝手な性の欲望の犠牲になって泣いて来た人が、数限りなくありました。
すぐに思い浮かぶのは、ダビデの罪です。ダビデは、ある日の午後、宮殿の屋上から、一人の美しい女性が水浴びしているのを見て、一目ぼれします。そしてそれが誰かを部下に調べさせました。その女性は、バト・シェバという名前で、自分の指揮下にあるヘト人ウリヤの妻でした。ダビデはウリヤを前線から送り帰させ、「家に帰って足を洗うがよい」と言って休ませようとさせるのですが、彼は「仲間が戦っているのに、そんなことはできません」と断ります。さて自分の思惑通りに行かないダビデは、どうしたかと言えば、今度は逆に、ウリヤを最も戦闘の激しい最前線に送り込み、敵の手でウリヤを殺させてしまうのです。そしてダビデは、バト・シェバを自分のものにしてしまいました(サムエル記下11章参照)。
神様は、このダビデの罪を見逃さず、預言者ナタンを送って、叱責しました(同12章参照)。(ちなみに、このナタンの叱責を聞き、ダビデが悔い改めて歌ったのが詩編51編とされています。またこのダビデとバト・シェバから次の王、ソロモンが生まれてくることになります。)
第二次世界大戦中、日本軍は占領地の女性たちを狩り出して、強制的に兵士たちのセックスの相手をさせました。従軍慰安婦と言われますが、そうした事実がいろんなところから明らかにされてきています。「従軍慰安婦」という言い方は、自ら従ったような印象を与えかねないので、「軍隊慰安婦」という言いかえがなされることもあります。
今日でも日本人の男性と他のアジアの女性の歪んだ性関係は、セックス産業の中でずっと続いており、さまざまな社会問題を生み出しています。日本国内には、セックス産業に従事させるために、他のアジア諸国から大勢の女性が日本へ送り込まれております。その多くは正式な入国ではありません。夢のような話を聞かされ、だまされて日本にやってきた女性もたくさんあります。入国するや否や、ボス、仲介人に、パスポートを取り上げられて、監禁状態にされるということも、しばしば聞きます。
キリスト教関係では、婦人矯風会が母体となって、HELP(House in Emergency of Love and Peace)という組織が、そういう女性たちを救う「駆け込み寺」のような働きをしています。
また反対に、日本人が会社や町内会で男性だけのツアーを組んで、アジア諸国へ出かけて行き、現地の女性と「遊ぶ」、いわゆる「買春観光」があります。そこでは、その国において、さらにさらに貧しい田舎から少女が売られてきて、セックスの相手をさせられます。多くは10代の少女だそうです。
私は、こうしたことはそれに参加する人のモラルの問題であると同時に、そうしたところに夫を送り出してしまう妻や家庭の問題でもあり、それを許している社会全体の問題でもあると思います。それを突き詰めていくならば、お金持ちと貧乏人の差がどんどん広がっている現代の社会構造の問題にまで行き着くのではないでしょうか。
これは日本と他のアジア諸国の間で際立った問題ですが、ブラジルにおいてもそういうことがありました。特に私がおりましたレシフェという町は外国人(ヨーロッパ人)観光客の多い町でしたが、ドイツ人の男性がレシフェの海岸で「少女を買う」ということが問題に取り上げられたこともありました。
私は、主イエスの言葉は、「姦淫してはならない」ということを突き詰めて、そこに潜んでいる心の奥底の問題、そしてゆるしている社会構造や精神の問題まで、告発しているのではないかと思うのです。
イエス・キリストの言葉は、そこからさらに「モーセの離縁状」の問題に続いています。
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」(マタイ5:31〜32)。
モーセの時代には、女性の人権は基本的に認められていませんでした。女性の人権が認められていなかったということは、この十戒の「姦淫してはならない」というのは、むしろ男性の罪の問題として取り上げられていることを忘れてはならないでしょう。もともと姦淫とは、「男性が、既婚女性や、嫁ぐ相手の決まっている女性と性的関係をもち、他の男性の結婚を破壊すること」を意味したそうです。(木幡藤子、岩波書店版『旧約聖書』の注)。
モーセがどうして離縁状を出せと言ったかといえば、女性がモノとして取り扱われ、必要がなくなったら、勝手に離縁されても何も言えないような状況があったからです。離縁状というのは、離縁された女性が、せめてその後、結婚できる身分にあるということを保障するものでありました。その女性にとっては、将来を保障する大事なものであったのです。ところが時代が下っていき、イエス・キリストの時代になると、本来、女性の最低限の権利を守るはずのものであった「離縁状」さえも、男の都合のいいように用いられるようになってしまった。つまり「離縁状」さえ出せば、いつでも離縁していいのだという風に解釈されるようになってしまっていたのです。
また姦淫は、本来男の罪であったのに、イエス・キリストの時代にはむしろ女性の罪だと考えられるようになっていました。さきのヨハネ福音書8章の「姦淫の女」の物語も、姦通の現場を押さえたのであれば、どうして女性だけが引っ張り出されるのか、という気がいたします。(日本でも戦前にあった「姦通罪」というのは、女性にだけ適用されたそうです。)
社会の弱い立場にある者が、より犠牲を強いられていく構造を見る思いがいたします。イエス・キリストはそうした中で、基本的に弱い立場にある女性の側に立って、本来の男の罪を問題にされた。私は、それはいかにもイエス様らしいと思いました。
主イエスは、そこで結婚の意義、二人の人間が結びついて生きることの神聖さについて語り直されたということができるでしょう(マタイ19:6参照)。
もっともここで語られているのは、男であろうと女であろうと本質的には同じです。ひとりの夫、ひとりの妻を心と体において真実に愛しぬくというのは、どういうことであるのか。それが問われている。今日ほど性のモラルが崩れている時代はないかも知れません。イエス・キリストは、
「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなってしまっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(マタイ5:29〜30)
という厳しい言葉を語られました。それを今こそ、心して聞くべきではないでしょうか。
私は結婚式の司式をする時に、しばしば申し上げることですが、結婚というのは、二人が向かい合って愛の誓いをし、共に生きる決心をすることであると同時に、二人が並んで同じ方向、つまり神様の方を向いて誓約をするのです。二人がどんな時にも、健やかな時も、病める時も、その権利を守り、いたわりあって生き抜いて行く。それを神様に向かって誓うのです。結婚は、当の二人だけで成り立つものではありません。家族、友人、みんなの祈り、みんなの祝福があり、神様の守りがあって、初めて成り立つものです。だからこそ、みんなの前で誓約をし、神様の前で誓約をして、歩み始めるのです。そのことを改めて深く覚えさせられました。