盗んではならない (十戒・\)

〜出エジプト記講解説教(32)〜
出エジプト記20章15節
ヤコブの手紙5章1〜6節
2005年7月3日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)さまざまな種類の「盗み」

 今日は、十戒の第八戒である「盗んではならない」という戒めを心に留めましょう。「盗んではならない」ということは、私たち誰にでもよくわかる戒めであるように見えます。家庭でも、学校でも、人のものを盗むことは悪いこと、罪だという風に教えられますし、法律でもそう定められている。しかし、一体何が盗みであるかを規定するのは、なかなか難しいことであります。
 泥棒とか、万引きとかはわかりやすいし、批判もしやすいものです。しかしそのような盗みというのは、罪は罪でも、小さな罪でしょう。そういう小さな盗みは裁かれるのに、もっと大きな盗みは裁かれないでいるというのが、私たちの実感ではないでしょうか。
 ここ2、3日、大きなニュースになっている訪問リフォーム詐欺なども、「盗み」にあたるでしょう。その他にも多くの組織的な盗みが横行しています。橋を作るための談合も、「盗んではならない」という戒めと無関係ではないでしょう。また法的にどんなに合法的であっても、その隙間をぬって搾取するということが、今日でも多くあるのではないでしょうか。 私たち自身が自覚しないまま、その大きな構造的盗みに加担してしまっている。いや不本意ながら、そうしたシステムの中に巻き込まれているとこともあるのではないでしょうか。ですから私たち自身、たとえ、実際に万引きや泥棒をしたことがなかったとしても、この戒めを犯していないとは、誰も言えないと思います。
 特に今日のような社会においては、盗んではならないという戒めは、個人情報の問題、知的財産権の問題、肖像権の問題、特許の問題など多岐にわたり、しかも取り扱いはなかなか難しいということを思います。簡単に人のものを自分のものにすることができる。インターネットでも拾えてしまう。論文でも何でも、インターネットで拾ったものを継ぎ合わせば、それなりのものができあがってしまう。(しかしそうした剽窃が公になった場合の処分は厳しいようです)。特に音楽の分野での財産権は大変です。どこまでが個人の財産で、どこからが共有財産であるか、線が引きにくいものです。
 説教にしても、どこまでが人の本から学んだもので、どこからが自分のオリジナルであるか、線は引けません。もともと同じ聖書から説教するのですから、先達の説教や注解書を参考にするのは当たり前ですし、それを一々出典について述べていれば、皆さんは煩わしくて仕方がないでしょう。ただしそれをホームページに載せる時には、それなりに気を使います。
 美空ひばりの「川の流れのように」の歌詞を説教で引用したことがあるのですが、それをホームページ上の説教に載せることは控えました。「突然、JASRAC(日本音楽著作権教会)から請求書が来るよ」と言って脅かされました。「アメイジング・グレイス」や「聖なる都」の直訳も、説教では、既存の訳を使いましたが、ホームページに引用した時は、一応、自分で訳し直したものを用いました。

(2)本来は「誘拐の禁止」

 「盗んではならない」という戒めは、本来、どういう意味を持っていたのでしょうか。アルブレヒト・アルトという学者によれば、「この第八戒の本来の意味は、盗み一般にではなく、人を盗んではならない、という意味であった。つまり誘拐の禁止を指していた。さらに突き詰めれば、人一般ではなく、イスラエルの自由人男子の誘拐の禁止であった」と言うことです。古代世界では、人を誘拐し奴隷として売り飛ばすことが頻繁になされていたそうですが(エジプトのヨセフを思い起こします。創世記37章)、もともとはそれを禁止する戒めでありました(出エジプト記21:16参照)。もっとも人と言ってもかなり限られていて、「自由人、イスラエル同胞の男子の誘拐」が対象であったようで、それ以外の人間を売り飛ばしても、この戒めを犯したこととは考えられていなかったようです。
 この「盗んではならない」という第八戒をそのように細かく規定していたことの背景には、「むさぼってはならない」という第十戒との関係があったようです。つまり当初は、「盗み」一般については、第十戒の問題と考えられたのでした。

(3)次第に広い意味に解釈

 その後、第十戒の方が精神的なむさぼりの欲望を禁ずるものと考えられるようになってからは、こちらの第八戒は、(人の誘拐も含む)物質的な「盗み」全般を禁ずるものと理解されるようになっていきました。
「ハイデルベルク信仰問答」は、この戒めについて、こう語っています。

「問110 第八戒で、神は何を禁じておられますか。
答  神は権威者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず
暴力によって、
または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、利息のような合法的な見せかけによって、
あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、
わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる邪悪な行為また企てをも、盗みと呼ばれるのです。
 さらに、あらゆる貪欲や
神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。」

 とても広い理解、そして深い解釈だと思います。神様から賜ったものを不必要に浪費することも「盗んではならない」という戒めに反することだというのです。たとえそれが合法的に見えても、「盗んではならない」という戒めに反する行為がある、むしろそちらの方が大きな問題だと言おうとしているのではないでしょうか。

(4)ナチス・ドイツ時代の「盗み」

 前にも触れましたが、ディートリッヒ・ボンヘッファーは、ナチスの時代に、「教会の罪責告白」という文章を書き残しました。これは十戒に即して書かれていますが、彼は第八戒のところではこう告白しています。

「教会は、貧しい者たちが収奪され搾取され、強い者たちが富みかつ腐敗して行くことに対して、沈黙し、傍観していた」(『現代キリスト教倫理』72ページ)。

 この言葉の背景には、ナチス支配下のドイツで行われていた不正があります。ヒトラーが、次第に絶対的な権力を掌握していきますと、批判勢力をことごとくつぶし、財産も取り上げていきました。さらにユダヤ人を強制収容所送り込んで、その巨大な財産を全部ナチスが没収していきました。ボンヘッファーは、それは紛れもない、第八戒違反だと告発すると同時に、自分たちの教会はそれを見て見ぬ振りをしていると、罪責告白したのです。

(5)ナボトのぶどう畑

 権力をもっている者が、その権力によって弱い者のものを搾取していくというのは、実は聖書の時代からありました。有名なものとしては、「ナボトのぶどう畑」の話があります(列王記上21章)。イズレエルの人ナボトは、ぶどう畑をもっていましたが、サマリアの王アハブは

「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を支払ってもよい」(2節)

 と、持ちかけます。しかしナボトは、

「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(3節)

 と、その申し出を断りました。アハブは機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰るのですが、それを見ていた妻のイゼベルが話を聞いた後で、

「今、イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」(7節)

 と言いました。このイゼベルがまた悪い人なのです。彼女は策略を講じ、アハブの名前でこのように布告しました。

「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ」(9〜10節)。

 そしてその言葉の通りに、ナボトは殺され、彼のぶどう畑は王に没収されました。
 それを神さまは見過ごしにされません。預言者エリヤを遣わして、こう告げさせるのです。

「主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか」(19節)。

(6)グローバル時代の「盗み」

 強い者が弱い者の持っているものまで奪っていくということは、今日においても起こっています。いや今日ほど深刻な時代はかつてなかったでしょう。今日は、地球全体が一つのシステムに組み込まれた「グローバリゼーション」の時代です。そこでは、地球規模において、巨大な金額の「盗み」が起こっています。「グローバリゼーション」というのは、地球全体が一つの神の家であるという風に、一見「神の国」を指し示しているように見えますが、そこではむしろ、神様の御心に反することが行われています。ほんの一握りの人間が、大きな権利を持ち、その人たちに都合のいいような世界です。あとの人は、持てるものまで奪われ、その人たちに仕える従属的な地位を強いられる構造です。人間が二種類に分けられていく。そういうことは確かに昔からありましたが、せいぜい小規模な地域単位、国単位のことでした。しかし今やその構造が地球全体に広がっているのです。
 今、地球上に65億の人間がいますが、いろんなことを積極的にかかわれる立場にあるのはせいぜい10億人だと言われます。あとの55億人の人は、その10億人の人に従っていくしかない。そういう世界というのは、「盗んではならない」という戒めと無関係ではないだろうと思うのです。
 私たちは、そうしたところでこそ、この第八戒を、心を無にして、「私たちが行っていることは、神様の前で正しいことであろうか」と、尋ねていかなければならないと思います。

(7)土地は誰のものか

 また私たちが自分のものとして主張しているものも、本来、一体誰のものであるかということも、謙虚に考えてみなければならないでしょう。聖書的に言うならば、すべては神様から受けたものです。それを自分のものとして主張する時に、すでにある種の傲慢、倒錯があると思います。
 特に、土地については、デリケートです。私は長くブラジルにおりましたが、ブラジルの先住民は、もともと土地を人間が所有することなんてできないのだという理解の中で生きておりました。土地は私たちの母であり、神様のものと考えています。そこへある日、白人が入り込んできて、それを奪ったり、極端に安い値段で「合法的に」買い取ったりした後、切り売りし始めた。もともと自分たちのものだと、主張しなかったから、それが全部白人のものになってしまいました。今日になってそれが一体誰のものであるかという裁判が起きたりもしています。ブラジル政府は、確か1989年に、「そこにもともと住んでいる先住民は、土地の所有者ではないが、その用益権がある」と初めて認めたのですが、それがまた登記上の所有者との間の争いを大きくさせています。
 そうしたことは南米だけに限りません。「シアトル酋長のメッセージ」というのをご存知でしょうか。自分たちの最後の土地を、白人に売り渡したアメリカ先住民の酋長の言葉として伝えられているものです。

「1854年のことである。
スカミッシュ族の酋長は、部族会議でこう語った……。
大統領から、我々の土地を買いたいとの申し出があった。
ありがたいことだ。なぜなら大統領には我々の同意など本当は必要ないのだから。
しかし我々には分からない。
土地や空気や水は誰の物でもないのに、どうして売り買いができるのだろう。
土地は地球の一部であり、我々は地球の一部であり、地球は我々の一部なのだ。
この土地を流れる水は祖父の血であり、水のさざめきは祖父の声なのだ。
川は兄弟であり、我々の渇きを癒し、カヌーを運び、食べ物を与えてくれる。
もしもこの土地を売ったとしても、
水の語る一つ一つがわが民の物語であることを記憶に留めなくてはいけない。
川は我々の兄弟であると共に、あなた方の兄弟なのだ。
……
土地の所有を望むように、白人は神さえ所有しているつもりかも知れないが、
それは不可能なこと。
神はすべてのものの神。
そのいつくしみはすべてに等しく注がれている。
大地を害すれば、必ずその者は滅びるだろう。なぜならばそれは神を侮辱することに他ならない。」
(『地球村』代表、高木善之訳)

 預言者のような言葉として、私たちに訴えかけてくる言葉です。土地は、本来一体誰のものであるのかということを、重く考えさせられます。
 今日は出エジプト記に続いてヤコブの手紙5章の「富んでいる人たちに対して」と題された厳しい言葉に耳を傾けました。私たち日本人は、地球全体で見れば「富んでいる世界」に属している人間だと思います。
 招詞で読んでいただいた言葉は、使徒言行録の2章43節以下です。ここには、「皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。神の国のひとつの原型のような情景です。
 私たちも、人のものを尊重しながら、自分のものも本来は神様からいただいたもの、神様に属しているものだという謙虚な思いをもって、過ごしてまいりましょう。


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