いつも真実に(十戒・])

〜出エジプト記講解説教(33)〜
出エジプト記20章16節
マタイによる福音書5章33〜37節
2005年9月11日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)裁判における偽証

 今日は十戒の第九戒である「隣人に関して偽証してはならない」という戒めから、御言葉を聞いてまいりましょう。この戒めを聞きますと、すぐに「嘘をついてはいけないということだな」と思われるかも知れませが、事柄はそう単純ではありません。
 元来、この戒めが意味していたものは、単なる「嘘や中傷を意味するのではなく、裁判における偽証を禁止する戒め」(大野恵正、『新共同訳、旧約聖書注解』)であったようです。「偽証は正しい人の名誉を傷つけ、裁判を誤らせて、社会的公正を崩壊に至らせる。人間の人格的尊厳と社会的公正の確立こそは、人間が真に人間として生きるに不可欠な社会の基盤である」(同上)。
 私たちの中で、実際、裁判にかかわった経験のある人は、少ないでしょう。あったとしても、せいぜい遺産相続をめぐる裁判や、離婚の際の調停のような民事裁判位ではないかと想像いたします。刑事裁判で証言台に立たされるということはあまりないように思います。刑事裁判でも、今日では科学技術が発達したせいもあり、誰かの証言よりも、指紋であるとか髪の毛であるとか、物的証拠の方が大きな意味をもっているようです。
 しかし昔の裁判では、そうした物的証拠よりも証言が重んじられました。二人以上の証言によって、有罪か無罪かが決定しました。ですから、そこで偽証がなされたら、とんでもない冤罪になり得たわけです。人の将来がかかっている訳ですから、偽証の罪は非常に重いものとされたのです。
 また当時は、今日よりも裁判が日常的に行われていたようです。今では警察があり、警察の捜査や逮捕に対して納得がいかない時に初めて、裁判が大きな意味をもってきますが、当時は何かいざこざがあると、すぐに「裁判だ」ということになりました。もっともこの当時の裁判というのは、立派な裁判所ではなく、神殿の境内や町の広場の青空でなされたようです。あの姦淫を犯した女の裁判もそうでした(ヨハネ8章)。

(2)再び、ナボトのぶどう畑の話

 こうした裁判においては、やはりお金持ち、権力者に有利な証言(偽証)がしばしば行われたようですし、そこで裏金も動いたようです。
 私は、前回、「盗んではならない」という戒めを破った聖書の中の実例として、「ナボトのぶどう畑」(列王記上21章)の話を引用しました。あの話は、実はこの「隣人に関して偽証してはならない」とも深い関係があります。
 サマリアの王アハブは、宮殿のすぐそばにあるナボト所有のぶどう畑を欲しくなり、そのように申し出るのですが、見事にナボトに断られました。家で不機嫌にしていたアハブ王に対して王妃イゼベルは「あなたがこの国の王でしょう。私に任せなさい」と言いました。イゼベルの講じた策というのは、ならず者を二人彼に向かって座らせ、彼らに「ナボトが王を呪った」と証言させるというものでした。二人のならず者は言われた通りに偽証し、ナボトは石で打ち殺されました。
 ですから、この時アハブとイゼベルは、「殺してはならない」「盗んではならない」という戒めと並んで、「偽証してはならない」という戒めをも合わせて犯したと言えるでしょう。

(3)『ハイデルベルク信仰問答』

 今回も、『ハイデルベルク信仰問答』が、このところで何と語っているかを聞きたいと思います。『ハイデルベルク信仰問答』は、三つの事柄をあげています。

「問112 第九戒では、何が求められていますか。
答  わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、/誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、/誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。」

 これが一つ目です。裁判で偽証してはならないということを含め、とにかく公正であれ、と告げます。そしてさらに「陰口や中傷をする者にならず」と言います。広い解釈です。そして二つ目、

「かえって、あらゆる嘘やごまかしを、/悪魔の業そのものとして/神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、/裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、/正直に語りまた告白すること。」

そして、三つ目、

「さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを/わたしの力の限り守り促進する、ということです。」

 こうしたことすべてが第九戒で、私たちに求められているというのです。「真理を愛し、隣人の弁護者たれ」。私は、これはとても意味深く、美しい解釈であると思います。

(4)誓ってはならない

 イエス・キリストは、マタイ福音書の5章において、「殺してはならない」「姦淫してはならない」という戒めについて、独自の深い解釈をされましたが、「偽証してはならない」に関しては直接語ってはおられません。その代わりとして「偽りの誓いを立てるな」という戒め(レビ記19:12等)について語られています。それが今日読んでいただいた箇所です。

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタイ5:33〜37)。

 主イエスは「一切、誓うな」と言われました。これは、第九戒の「偽証してはならない」と同時に、第三戒の「みだりに主の名を唱えてはならない」とも深い関係があります。イエス・キリストは、どうしてこのように言われたのでしょうか。「うかつに誓うと、後がこわいぞ。後で偽証罪に問われるぞ。後で責任を問われるようなことは、なるべく口にしない方が身のためだ」という、いわば保身術、処世術を語られたのでしょうか。私はそうではないと思います。そんな消極的なことではありません。
 そもそも誓いとは何か、と考えてみますと、それは「誓いをした後は、絶対に嘘は言わない。嘘であれば、裁きを受けてもよい」ということでなされるわけです。そして何か確かなものにかけて誓います。アメリカなどでは、(キリスト教徒は、)聖書に手を置いて、「聖書にかけて」誓います。他の宗教の人は、自分の信じる経典に手を置いて誓うのかも知れません。
 ですから本当は神にかけて誓うのが一番いいのです。恐らくはもともとは「神にかけて」ということがよくあったのではないかと思います。誓いの度に神様が引き合いに出される。自分の都合で神様が持ち出される。神様の了解を得ている訳ではありません。こっちだけの話です。もしも神様がひょっこり出てこられたら、「わしはそんな話は知らんよ」と言われるかも知れません。
 このところでは、「神にかけて誓う」というのは出てきませんので、ある意味で、「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めが生きていたと言えるかも知れません。しかしその代わりに神の次に確かそうなものが「天にかけて」とか「地にかけて」とか「エルサレムにかけて」とか、次々に出てくる。おもしろいことに、その持ち出すものによって、保証の程度を表すことにもなったようです。つまり「天にかけて」と言えば90%位。「地にかけて」と言えば80%位信用できる、「エルサレム」、「まあ70%」というような具合です。そこで主イエスは、「いくら天と言ってみたところで、それは神の玉座だ、いくら地と言ってみたところで、それは神の足台だ。言葉のごまかしに過ぎない」と言われたのです。
 最後の「自分の頭にかけて誓う」というのは、おもしろいですね。神を持ち出すのがだめであれば、何か自分のものにかけて誓おうということでしょう。「自分のカミ(髪?)にかけて」。しかし主イエスはそれさえも否定されました。あなたの頭とは本当にあなたのものか。「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」(36節)。
 今日ですと、「茶色にでも、紫にでも、オレンジにでもできる」と言われそうです。興味深いことに、この当時、すでに毛染めの技術はあったそうです。ですから、それを前提に言っているのかも知れません。それらは、表面をごまかすだけだというニュアンスでしょうか。
 日本人は、神を信じる人が少ないので、「自分の命にかけて」とか「自分の良心にかけて誓う」などと言いますが、結局は同じこと。時代が変わると、ぐらぐらしてしまうものです。神の名前さえ出さなければそれでいいというのではありません。
 イエス・キリストが「一切誓うな」と言われたのは、一つには「自分の都合で、自分の真実を保証するために神を持ち出すのはやめろ」ということでしょう。もう一つ大事なことは、「誓いということによって、真実である言葉と、真実でなくてもよい言葉を区別するのはやめろ」ということではないでしょうか。
 誓いというのは、言葉と真実が直結していないことのしるしです。人間が全く嘘をつかなければ、そもそも誓いなど必要ないでしょう。私たちは、真実である言葉と真実でない言葉を使い分けたりするのではなく、いつでもどこでも神様の前で真実であること、そして隣人の前で真実であることが問われているのではないでしょうか。

(5)真実を語るとは何を意味するか

 しかしそのこと、つまり神様に対して、そして隣人に対して真実であり続けるということは、表面的な意味で、事実と異なることを語ってはならない、ということではありません。「真実を語る」ということは、必ずしも「嘘をつかない」ということではないのです。
 この十戒を学ぶ中で、私はボンヘッファーの言葉をしばしば引用してきましたが、ボンヘッファーが「真実を語るとは何を意味するか」ということで興味深いことを言っています。

 「一人の児童が級友の前で先生から、『君のお父さんは、酔っぱらってうちに帰って来ることが多いというのは本当かね』とたずねられたとする。それは本当のことである。しかしその児童はそのことを否認する。……われわれは実際にそれでもなお、この児童の答えは偽りであると言うことができる。それにもかかわらず、この偽りの方がより多くの真実を含んでいる。すなわち、その答えは、この児童が級友の面前で自分の父親の欠点を暴露したと仮定した時よりも、より現実にふさわしいことである。彼の知識の基準に従って、この児童は正しくふるまったのである。偽りの罪は、ただ教師の上に帰って来るのである。」(ボンヘッファー『現代キリスト教倫理』421頁)。

 これは、非常に興味深いたとえです。この子どもは、まだ幼いので、「先生の質問は間違っています」とか「そんなことは、みんなの前で言うべきことではありません」という風に反論することはできません。だから単純に「ぼくのお父さんはそんな人間ではありません」と、いわば嘘をついたわけです。しかしその嘘は、「確かに、ぼくのお父さんはいつも酔っぱらって帰って来ます」という事実に即した言葉よりも真実だということです。ボンヘッファーは、「もし私の語る言葉が真実に忠実であろうとすれば、私の言葉は、それが誰に語るか、誰から問われているか、何について語るかに応じて違って来る。真実に忠実な言葉は、それ自身一定不変のものではなく、生活そのものと同様に生きているものである」(前掲書419頁)と言っています。
 ボンヘッファーがこれを書いたのは、恐らく1943年、彼がナチスに逮捕される直前であったと思われます。彼はこの時、ナチスから、さまざまなことを尋問されるであろうことを予期しながら、これを書き記したのでしょう。
 真実を語るとは何を意味するか。そのところで、一体何が問題になっているか。その言葉がどういう風に機能するか。これはデリケートなことですが、私たちはそこで神様に対して真実であること、隣人に対して真実であることを貫いて、言葉を選ばなければならないのです。時には正しい言葉でさえも、人を陥れることになるし、人を傷つけることになるものであることを思わされます。

(6)イエス・キリストの裁判

 最後に、イエス・キリストが十字架つけられることが決められた裁判のことを思い起こしたいと思います。イエス・キリストを合法的に死刑にするためには、それに相当する証言が必要でした。

 「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである」(マルコ14:55〜56)。

 イエス・キリストを死刑にするという結論は最初から全員で決めていたようです。しかし思うようにいかないので、とうとう、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ね、イエス・キリストは「そうです」とお答えになった。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた」と言って、一気に死刑へと動いていくのです。最後の最後まで真実を貫いたお方が、真実でない言葉によって殺されていく様は、私たちの罪を突きつけられる思いがいたします。しかしそのところで、イエス・キリストが貫いてくださった真実によって、逆にまた私たちを生かすことになった、ということを、恵みとして思い起こすのです。


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