〜出エジプト記講解説教(34)〜
出エジプト記20章17節
ルカによる福音書19章1〜10節
2005年10月23日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
十戒を共に読んできましたが、今日はその最後の第十戒について学びましょう。
「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出20:17)という戒めです。以前の口語訳聖書では「むさぼってはならない」という訳でした。「欲する」というよりも「むさぼる」という日本語の方が、私たちの心の奥底にひそむ思いをよくあらわしているのではないかと思います。言わんとするところは、もちろん同じであります。
十戒の後半、象徴的な言い方をすれば、二枚の板のうちの二枚目の板は、隣人に関する事柄でありました。第六戒、第七戒、第八戒は、「殺人、姦淫、盗み」という具体的「行為」に現れた罪に関係がありました。第九戒は、「偽証」という言葉に関係がありました。そういう言い方をすれば、この第十戒は、「貪欲」という私たちの「精神」「心のありよう」に関係があると言うことができるでしょう。
『ハイデルベルク信仰問答』は、この第十戒について、このように述べています。
問113 第十戒では、何が求められていますか。
答 神の戒めのどれか一つにでも逆らうような
ほんのささいな欲望や思いも、
もはや決してわたしたちの心に
入り込ませないようにするということ。
かえって、わたしたちが、
あらゆる罪には心から絶えず敵対し、
あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。
「殺人」「姦淫」「盗み」のような具体的行為でなくても、私たちは罪なしとは言えないということを、この第十戒は示しています。宗教改革者カルヴァンは、「この律法は、外面的なものではなく、私たちの魂に関わっている」と言いました。十戒は最後の最後で、私たちの心の奥底に潜む罪にまで、目を向けるのです。
そもそも人間の罪がどこから始まるのかと考えますと、私はやはり貪欲ではないかと思います。そのことを最もよく、象徴的に表しているのは、創世記第3章のアダムとエバの物語でありましょう。蛇がやって来て、女に向かって、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(創世記3:1)と問うのです。
蛇は神様の言われたことを歪曲し、神様の禁止を誇張して、彼女の神様への信頼を揺さぶります。最初、彼女はそれを否定します。「園のどの木からも食べてはいけない、なんておっしゃっていません。『園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない』と言われたのです。それは、私たちは死んではいけないからということでした。」
蛇は巧みに女の貪欲をくすぐります。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」(同5節)。そういう風にして、彼女をそそのかしました。「食べてはいけない」と言われているものを食べてみたい。そういう人間の欲望がよく現れていると思いますし、同時に、「神のように賢くなりたい」という欲望もここに現れています。女に続いてアダムも食べました。彼も同じように、貪欲をかき立てられたのです。そしてそうしたことが、聖書を通じて、次から次へと折り重なって行ってきます。私たちの罪の現実を見せつけられるような思いがいたします。欲望には際限がありません。
もちろんこの戒めは、私たちの心の中の状態のことだけを言っているのではありません。行為に直結しているのです。「むさぼってはならない」の元のヘブライ語、ハーマドという言葉は、何かが欲しいと思ったら、それを実現していこうとする行為をも含んでいるということです。
「ハーマドは衝動的な意志として『欲する』を意味するだけでなく、欲したものを所有するにいたる陰謀をも含む。それゆえ、第十戒が本来意味したところによれば、それは単に、意志に対してむけられているだけでなく、同時に、隣人の財産を得るために人が用いる暴力的陰謀にも向けられている」(シュタム・アンドリュウ『十戒』)。
人が持っているものを自分のものにしたい。力を持っている者は、その力を用いて何でも自分のものにしていこうとする。これまでも、十戒を学ぶ中で、ダビデがウリヤの妻バトシェバを自分のものにした罪(サムエル下11章)について、「姦淫してはならない」のところで申し上げましたが、それ以前に、この「むさぼってはならない」という戒めに反したことになりますし、「ナボトのぶどう畑を手に入れたい」というあのアハブ王の思い(列王記上21章)も同じくここにつながってくるものであります。
最近は、どこかのIT企業がある放送局の株を大幅取得したとか、プロ野球チーム獲得に名乗りを上げたとか、巨大なマネーゲームのような報道が、刻一刻と目に飛び込んできます。私には想像もつかない金額の世界ですし、善し悪しをいう知識も持ち合わせていませんが、何だか資本主義の恐ろしさというものをまざまざと見せつけられる思いがしています。食うか食われるか。こうしたことが、国内でも国際舞台でも、弱い者をどんどん食いつぶしてきたのでしょうか。
また「セレブ」という言葉を耳にすることが多くなりました。庶民とは違う、選ばれたお金持ちというような意味で使われているようです。バラエティー番組では、そうした「セレブ」の超ぜいたくな生活ぶり、超ぜいたくな買物ぶりを見せつけて、「庶民」の羨望をかき立てています。
しかしその一方で、中越地震のニュースがあり、パキスタンではものすごい大地震で、何万人もの人が死んでいるということが報道される。ハリケーンのニュースがある。アジアやアフリカの極度の貧困の状況、貧困ゆえに拡大した自然災害の被害。あるいはあまりニュースにはなってはいませんが、コンゴ民主共和国やスーダンなど中央アフリカでは、非常に厳しい状況、戦争、虐殺、避難、飢餓が続いている。そうしたことが、同じテレビから茶の間に流れてきます。
この不釣合い、アンバランス。この二つを並べて見る時に、私は富の極度の偏り、自分のために極端に浪費的にお金を用いるということは、それがどんなに合法的であったとしても、人にとやかく言われる筋合いがなかったにしても、やっぱり罪だなということを思わざるを得ないのです。
いや実は、この二つは無関係なのではなく、共に人間の貪欲から生み出される世界の表と裏だと言えます。「セレブ」の世界を作り上げ、それを維持したり、羨望したりすることが、もう一方で、極度の貧困や戦争やテロを、直接的、間接的にもたらしているのです。
イエス様は、
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12:15)
と、言われました。
ある昔の人が、こう言ったそうです。
「人に与える富を除いて、お前がいつまでも自分のものとして享受できる富は他にない。人に与えられたものは、運命の危険から免れているからだ」。
これも非常に興味深い、しかも含蓄のある言葉であると思います。
私たちは富、財産を持っている。しかしそれはいつ失くすかわからないものだ。ありとあらゆる危険に脅かされている。より大きな会社がすっと奪ってしまうかも知れませんし、何かしらの災害でなくしてしまうかも知れません。あるいはそのようなことがなかったにしても、私たちの人生は、いつ突然終わるかわからないものであります。そうした富を、私たちが確実にこれは誰にも奪われることがない富だと言い切れるのは、人に与えたものだけだと言うのです。富というものは人に与えた時に、ゴールに達する。「あがり」に達する。自分の手に持っている限り、それはまだ危険だという意味合いがあるのではないでしょうか。
箴言には、含蓄に富んだ言葉がたくさんあります。
「富に依存する者は倒れる。
神に従う人は木の葉のように茂る」
(箴言11:28)
私たちは、究極のところ、一体何を頼りに生きているか。富を超えたもの(神)に究極の価値観を置くことによって、私たちは富からも自由にされる。富をもっている、もっていないにかかわらず、それを超えたところのお方を主人とする。それによって、富が本来持っている価値を、かえって十分に生かすことができるようになるのではないか、と思います。
箴言には、他にもこういう言葉があります。私も好きな言葉であります。
「二つのことをあなたに願います。
わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてください。
貧しくもせず、金持ちにもせず
わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り
主など何者か、と言う恐れがあります。
貧しければ、盗みを働き、わたしの神の名を汚しかねません。」
(箴言30:7〜9)
お金持ちになったらなったで、「神様など何者か」というおごり高ぶることがあって、信仰から離れてしまうことがあるかも知れませんし、あまりにも貧しくても、盗みをして、神様の名を汚すかも知れない。だから「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください」と祈るのです。
貪欲に関しては、さらに次のパウロの言葉に注目したいと思います。
「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)。
これも意味深い言葉であると、思います。「偶像を拝んではならない」という戒めを、私たちはすでに学んできました。私にとって、偶像って一体なんだろう、と考えますと、それは、神様に代わって、神様よりも力あるものだと、私に訴えかけてくるものです。そうすると、刻まれた仏像とかいったようなことよりも、私の貪欲をかき立てるものこそが偶像だと思わざるをえません。そして、それに神様よりも高い価値を置いてしまうことがもっとも危険な偶像礼拝だと言えるのではないでしょうか。
今日は、ルカ福音書の19章のザアカイの話を読んでいただきました。このザアカイという人も、欲望が留まることを知らないで、貧しい人からお金を巻き上げて、自分の財産を蓄え、自分を肥やしていく人生を送っていました。しかしそこで彼は決してそういう状態をよしとはしていませんでした。幾らお金をもっても満たされない。何か欠けている。友人がいない。いざという時に、自分を助けてくれそうな人は誰もいない。そうしたことで寂しい思いをしていました。そこへイエス様がやってきて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と声をかけられたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えて、そこから生き方が変わっていくのです。ザアカイは、イエス様を自分の家へ迎えた後に言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(同6節)。これは、いわば彼の信仰告白と言えるのではないでしょうか。イエス・キリストによって新しい生き方を示された。生き方の転換です。主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」(同9節)と祝福されました。彼の財産は、よりよい形で、本当に深い形で、最も意味ある形で生かされる道がここに開けているのです。
私たちは、今日、礼拝の後、バザーを行います。私たちのバザーは規模の小さなものですが、私がこの教会にやってきて、感心したことは、バザーの収益をすべて外部献金として捧げていることです。多くの教会の場合、自分たちの教会の修理のためとか、幼稚園の遊具のためとか、内側のことに用いるものです。そのような目的がある時には、何が何でも目標の収益を上げると必死になるものです。もちろんそれはそれで意味のあることですが、「すべて外部に」というのはなかなかできることではないでしょう。しかし私は、本当にそれを必要としている外の人のために用いるというのは、神様の喜ばれる道であろうかと思います。自分のものが、それを必要としている人に移る時に、神様は喜ばれるのです。
今こそ謙虚に、私たちが足ることを知って、人と共に生きる道、分かち合う道というものを、神様は私たちに求め、イエス・キリストもその道を歩むようにと、促しておられるのではないでしょうか。隣人のために、隣人が本当に生きる道を、私たちも考えて過ごしてまいりましょう。分かち合いに生きることによってこそ、隣人と、そして神様の豊かな交わりの中に入ることができるのです。
何より、イエス・キリストご自身がそのように謙虚なお方でありました。招詞で読まれた言葉、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント8:9)という御言葉を深く心に刻みましょう。