神を畏れるため(十戒・XII)

〜出エジプト記講解説教(35)〜
出エジプト記20章18〜21節
ローマの信徒への手紙3章21〜31節
2005年10月30日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)神と人の生きた関係を示す

 これまで十戒について、前文(序文)を含めて、11回にわたって取り上げてきましたが、今日はその後の部分を読みながら、十戒全体について、その意義について、もう一度振り返ってみたいと思います。序文についてお話した時にもお尋ねしたことですが、皆さんは十戒の全文を覚えておられるでしょうか。「あの時はまだ覚えていませんでしたが、今はもう覚えました」という方もあるかも知れません。でも「なかなか覚えられません」、という方もあるのではないでしょうか。
 『讃美歌21』では、93−3というところに十戒の全文が出ていますが、これは聖書どおりですので、長すぎてなかなか暗唱できるものではありません。ちょうど『こどもさんびか』には簡潔にしたショートヴァージョンがでていますので、それをコピーしてきました。今日はまず全員で、「使徒信条」や「主の祈り」をそうしているように、全員でその言葉の意味をかみ締めながら、唱和してみましょう。

「わたしは主、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
@あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
Aあなたはいかなる像も造ってはならない。
Bあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
C安息日を心に留め、これを聖別せよ。
Dあなたの父母をうやまえ。
E殺してはならない。
F姦淫してはならない。
G盗んではならない。
H隣人に関して偽証してはならない。
I隣人の家を欲してはならない。」

 十戒とは、「何々してはならない」という言葉が並んだ規則集、あるいは神様と人間の間のルール本という風に思われる方もあるかも知れません。しかしながらこれはそういうことをはるかに超えて、神様と人間の生きた関係を示すものであります。
 神様が私たち人間に興味を持ち、かかわりを持とうとされる。そして私たちの歴史の中に直接入ってこられて対話をされる。人間がどのようにすれば、神様の前にも、隣人の前にも正しく生きることができるかということを、神様の方から明らかにされたものであるということができるでありましょう。
 そのために神様はまずご自分の方から、自分が一体誰であるか、何をした者であるかを告げられました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」この十の戒めを読み解く鍵が、この序文の中に示されています。すべての掟は、ここにさかのぼって、それを確認するところから読まなければならない。「ひとつひとつの戒めは、一々序文を読んでから読むべきだ」ということを提案している人もあります。
 十戒というのはただ単に私たちを束縛するもの、律法主義ではなく、そうかと言って、私たちに人間が全く方向性を示されることなく、「何をやってもいいんだ」という自由放任主義でもありません。その両方を退けなければならないのです。

(2)束縛ではなく、自由のため

 十戒の本来の意図は、出エジプトの出来事が、神の民にとって、まさに本質的な決定的な解放の出来事であったということを伝えることでありました。
 私たち今日のクリスチャンが、「自由」を本当に理解しようとして、格闘するところ、そこで十戒が大きな意味をもってくるでしょう。ただ単に「こうしなさい。」「あっ、そうですか」ということではない。その中には、今日ならではの格闘があります。対話があります。解釈しなければならない。生き方が多様な中で、何が神様の御言葉にふさわしく生きる道なのか。新しく御言葉を聞くことが求められる。ある方向に方向付けられながら、それが示されているわけです。律法とは私たちを束縛するものではなく、私たちに自由を得させるものです。
 東京神学大学の小友聡先生が、2001年の経堂緑岡教会夏期全体修養会に来てくださいましたが、小友先生は、「旧約聖書の中心から考える」という題で講演をしてくださいました。19章の話をした時に、すでに一度、申し上げたことですが、小友先生は、旧約聖書の中心は律法にある。(律法とは、創世記から申命記にいたる五書をさしています。)そしてさらにその中心は、シナイ契約にあると言っておられます。シナイ契約とは出エジプト記19章から24章にあらわされた神様と人間の契約であります。その枠組みが19章と24章、そして今日の20章18節以下にも記されています。
 そこで「シナイ契約の中心には何があるか」ということで「20章の十戒がある」と語られました。「それは神の民が、神の招きに応えて生きる指針である。それは徹頭徹尾共同体に向けて語られたものである」と述べておられます。そこで束縛するためのものではなく、自由を与えるためのものである。小友先生は、そこで一つのたとえをあげておられます。

 「こんな風に考えるといいと思います。子どもを例にとって考えますと、広い遊び場があり、神様は柵を設けられた。これより先へ行くと危ないよ、と柵を設けられた。この柵を十戒と考えてみてください。広い遊び場の中に柵がある。この柵はむしろ神様が私たちの自由を擁護するものです。この柵を越えたならば、自由どころか、命を失うことになります。命を失うならば、自由の意味が全くなくなってしまう。神様は私たちの自由を保障するために、十戒を与えてくださった。要するに十戒は、私たちが神様から自由を与えられている証拠であるという風に考えることができます。いずれにしても十戒は、私たちから生きる自由を奪うものではない。」

 これはよくわかる的確なたとえではないでしょうか。大人と子ども、あるいは親と子。お父さん、お母さんが子どもに「これこれ、こういうことをしてはならない」というのは、子どもを束縛するためではなくて、ましてや虐待するためではなくて、その子どもが自由に、活き活きと、伸び伸びと生きるためのものである。ちょうど、神様がエデンの園にいたアダムに対して、「園の中央にある木からだけは取って食べてはならない。それを食べると、死ぬことになる」と言われた延長線上に十戒を見ることができるのではないでしょうか。

(3)神の顕現

 「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立(ち)」(18節)。この情景は、19章に続くものです。「三日目の朝になると、雷鳴が稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた」(19:16)。
 神様が人の前に現れる時の情景。それを雷鳴と稲妻、角笛の音、そして山が煙に包まれるという形で記しています。そしてモーセに言うのです。

「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます」(19節)。

 このことの前提としては、神を見た者は死ぬと言う風に言われていたことがあります。神様の聖さの前には、どんな人間も向き合って立つことはできない。その聖さが、罪に汚れた私たちを滅ぼしてしまう。民自身がそのことをよく知っていました。神様が現れようとする時に、少し逃げ腰という面もありますが、モーセに向かって、「あなたが代表して神に向き合ってください」と言ったわけです。仲保者モーセの姿が、ここに記されています。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(20節)と言いました。このところに、一体何のために、律法が、特に十戒が一体何のために、私たちに人間に与えられるのかということが端的に示されています。

(4)恐れと畏れ

 興味深いことに、モーセは、ここで、「恐れることはない」と言いながら、「あなたたちの前に神を畏れる畏れをおく」と言っています。日本語の聖書では「おそれ」に違う漢字が当てられています。「恐れるな」と「畏れよ」ということが同時に語られる。この一見矛盾するようなことが、実は私たちの信仰というものをよく表しています。神様の前に畏れを持たなければならない。これが信仰の出発点であります。神様を神様として立てると言うことは、その前で自分の分をわきまえて、神様によって創られたものであることを知る。神様の前では、立っていることができない程の存在である。ところが、この時彼らが「自分たちは死んでしまいます」と語ったように、私たちを恐怖に陥れるものであろうか。不思議なことにそうではない。私たちがそういう資格がないにもかかわらず、私たちが立つことができるようにしてくださる。それが聖書の神様が私たちに示してくださっていることであります。
 この時はモーセが仲保者として神と民の間に立ちましたけれども、私たちは、その後、イエス・キリストという神様の直接遣わされた神様の御子を救い主としていただいております。この方においてこそ、畏れ敬いながら、イエス様が親しく「アバ(お父ちゃん)」と呼ばれたように、私たちも恐れることなく親しい方として、あがめる道が開かれたと言う風に言えると思います。

(5)宗教改革記念日

 本日は、宗教改革記念日であります。免罪符を発行するなど腐敗していた当時のカトリック教会に対して、マルティン・ルターは、1517年10月31日に95か条の提題をヴィッテンベルク城教会の門に貼り付けて、プロテストしたと言われています。そのことに基づいて、10月31日、あるいはその直前の日曜日を、プロテスタント教会では、宗教改革記念日としております。
 ルターはその後(1520年)に『キリスト者の自由』という書物を出版しましたが、その題名からもわかるように、私たちが自由を得るのはどこからなのか、どこに立つ時に、「キリスト者の自由」(それは同時に「真の自由」)が与えられるのか。それを、この書物で明らかにしようとしました。彼は、この書物の冒頭で、「キリスト者とはどういう人か」について、二つの命題を掲げています。それは、「キリスト者は万物を支配する自由な君主であって、誰にも従属しない」ということと「キリスト者は万物に奉仕する僕であって、すべての人に従属する」ということです。これは、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(Tコリント9:19)というパウロの言葉に基づいています。
 この「自由と奉仕という互いに相矛盾する命題」は、イエス・キリストからさかのぼって、モーセの十戒を理解するためにも有益でしょう。十戒は、徹底的に神に仕え、人に仕える時にこそ、その精神が全うされるものです。十戒は、そのような命令を与えることにより、一見、私たちを拘束するように見えながら、実は、私たちに真の自由を与えるものなのです。
 それは、「畏れをもて」と命じつつ、「恐れるな」という勇気を与え、私たちに解放と自由を告げるのです。

(6)静かにささやく声

 神が私たちに現れる姿。それは雷鳴をもって、稲妻をもって、大きな音で、山が煙に包まれる。そうした中から神様が現れるということを、今日の箇所から示されていますが、もう一つ、神様の違った現れ方を印象深く思い起こすのです。それは預言者エリヤに現れた時でした。列王記上19章であります。「主は『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。『見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた』」(19:11a)。ちょうどモーセがシナイ山で経験したような情景です。
 「しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に、地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(19:11b〜12)。
 エリヤは、風や地震や火の中においてではなく、それらの後に「静かにささやく声」において、主の言葉を聞いたのです。エリヤはその声を聞くと、外套で顔を覆って、洞穴の入口に立つのです。

(7)教会全体懇談会

 私たちに対して、神様はどういう風に語りかけられるか。イエス・キリストという確かな仲保者をいただいております。そしてそのイエス・キリストの言葉と業を記した聖書をいただいています。聖書に向き合う時に、静かにその都度その都度確かな形で、私たちを導いてくださる神様がおられるのではないでしょうか。
 今、この十戒をみんなで唱和しましたが、教会の中に私たちは招かれています。そして、この教会が神様の御旨にふさわしく立てるかどうかが問われています。今日は、礼拝の後で、教会全体懇談会を開くことになっていますが、まさに神様の示される道がどこにあるのか、一人一人がその声、それは静かにささやくような声かも知れませんが、その声を聞きもらさないように、私たち、これから教会がいかに歩んで行くべきかを語り合いたいと思っています。一人一人の信仰も、十戒など聖書の言葉を通して導かれることを信じ、歩んでまいりましょう。


HOMEへ戻る