み名が唱えられるところ

〜出エジプト記講解説教(36)〜
出エジプト記20章22〜21章2節
マタイによる福音書18章18〜20節
2006年1月15日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)契約の書

 今日から「契約の書」と題された部分に入ります。20章22節から21章2節をお読みいただきましたが、ほぼ21章全体を扱いたいと思います。
 「契約の書」とは、一種の法律集のようなものです。「(1)祭壇について」で始まり、21章では(2)奴隷について、(3)死に価する罪、(4)身体の傷害、(5)財産の損傷、と続きます。
 この「契約の書」という名前がどこから来ているのかと言えば、24章7節であります。24章には、「契約の締結」という題が付けられていますが、6節から読んでみますと、「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振り分けると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた」とあります。その「契約の書」というのが、この20章22節から23章の終りまでの部分なのです。
 この「契約の書」は十戒のすぐ後ろに置かれております。十戒は、「盗んではならない」とか言うように、「断言的」な命令でありました。この「契約の書」では、それが、実際の生活においていかに適用されるかを具体的に展開されているのです。

(2)ハムラビ法典の影響と相違点

 この「契約の書」は、一体いつ頃成立したのでしょうか。最終的に整えられたのは、ダビデ王、ソロモン王の後の分裂王国時代であろうと言われますが(紀元前8世紀頃)、その原型となったものは、士師の時代(つまりサウル、ダビデ、ソロモンという王が現れる以前)にあったであろうと言われます(紀元前12世紀から11世紀頃)。
 興味深いことに、この「契約の書」は、それよりも前の時代のバビロンのハムラビ法典との間に、さまざまな類似点があるのです。ハムラビ法典の方は、紀元前1792〜1750年(紀元前18世紀)に成立したものです。ハムラビ法典の最も有名な言葉の一つに「目には目を、歯には歯を」という言葉があります。
 ちなみに、この言葉は、「誰かに何かされた場合に、必ず復讐しなければならない」という意味で引用されることが多いのですが、本来は、むしろ逆に、私的な復讐(リンチ)を禁じ、制限するものであったそうです。人間の復讐心というのは、だんだんとエスカレートします。聖書の中でさえ、「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍」という言葉があります(創世記4:24)。「目には目を、歯には歯を」とは、「目をやられたら、目だけ。歯をやられたら、歯だけ。それ以上は、やってはならない」というのが、その本来の精神でありました。
 さて、本題に戻りますが、この「契約の書」の中にも、「この目には目を、歯には歯を」によく似た言葉が出てきます。
 「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」(21:23〜25)。
 これなどは、明らかにハムラビ法典を下敷きにしているものでしょう(時代の順序として)。彼らはどこで、このハムラビ法典に触れたのか。それはエジプトだと考えられます。イスラエルの民は、エジプトで奴隷でありました。エジプトにも、このハムラビ法典の影響を受けた法律があった。イスラエルの民は、エジプトでそれに出会い、それが伝えられていったのではないかというのです。
 モーセによってイスラエルの民が出エジプトを行ったのが紀元前1290年頃(つまり紀元前13世紀初頭)と言われます。その後、彼らはモーセを通して十戒をいただき、契約の書をいただくということになるわけですが、そこでハムラビ法典のなにがしかの知識があったのでしょう。しかし彼らは、それを新しく神様からいただく「契約の書」として受けとめ直したのです。
 このハムラビ法典とモーセの「契約の書」を比べてみると、似ていながら、決定的に違っているところがあります。モーセの「契約の書」は、あくまで神様からいただいたものであり、そこには神様の心が表れているのです。そして一貫して、「契約の書」の方が人道的であります。人道的といっても、ただ単に人間的レベルで、ヒューマニスティックということではありません。そこには明確に、神が人間を契約の相手として大事に扱われる、ということが映し出されているのです。人間関係を問うものでありながら、そこには神様の意志、神様ならどうされるかということが示されている。その意味で、これは単なる法律集を超えたものであります。特に、最初に「(1)祭壇について」ということから始まるのは、その性格をよく表していると思います。

(3)奴隷の解放

 さて先に21章の方を見てまいりましょう。短い序文が、まず出てきます。「以下は、あなたが彼らに示すべき法である」。「あなた」とは、モーセです。神様がモーセに対して、「こういう風に語れ」と、以下のことを述べられた。その序文に続いて、最初にあるのが「(2)奴隷について」の規定です。これは、古代中近東の法律書の中では異例のことだそうです。ちなみにハムラビ法典では、最初に公的秩序(組織的な司法制度、所有財産の保護、王や国家に対する賦役義務など)があり、次に、個々の市民の権利や利害に関する事例を取り扱って、奴隷に関する法は最後に置かれています。
 しかしこのモーセの「契約の書」では、奴隷に関する法が、最初に置かれています。しかもその内容は、解放について語っているのです。「あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる」(2節)。
ここに「ヘブライ人」とありますので、「同胞を奴隷とする場合だけか」と受け取られるかも知れませんが、そうではありません。「ヘブライ人」という呼び名は、「束縛状態にある人」一般を指す言葉でもありました(創世記39:14、申命記15:12、エレミヤ34:9、サムエル上14:21参照)。ここでは生まれながらの奴隷、簡単に奴隷状態に陥ってしまう貧しい社会層の人々、何らかの理由で、普通の人が享受できる法的保護を受けられないアウトサイダーを指す言葉であったようです。
 もちろん、彼らが自由になるためには、さまざまな条件を満たしていなければなりません。それがこの後に記されているのです。そうした制約がある中で、奴隷状態に置かれている人間の自由について、最初に述べているというのは、聖書の神様の関心事の優先順位を示しているのではないでしょうか。

(4)殺人と過失致死

 次にあるのが、「(3)死に価する罪」という項目です。「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる」(12〜13節)。
 「契約の書」は、断言的命令である十戒の具体的な適用だと申し上げましたが、これも「殺してはならない」という十戒の戒めが、いかに適用されるべきかを述べたものであります。ここで興味深いのは、「故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合」という表現です。これは、現代の言葉で言うと、「過失致死」に近いものでしょう。「過失」がない場合も含まれるかも知れません。本人に殺意はなかったのです。その場合は、むしろ、殺してしまった人は、復讐のために殺されてはならない。リンチ(私的復讐)から守られなければならない。神様がそのために、ある場所を備えられ、そこに逃れることができる、ということです。それが一体どこであるのか。この後を読んでみますと、それが祭壇であろうことがわかります。
 「しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる」(14節)。つまり祭壇がひとつの「逃れの場所」(サンクチュアリー、聖域)であったことが考えられる。殺されそうになった時に、そこで保護されたのです。神様はそういう場所を用意しておられた。このことは後の時代になってきますと、「逃れの町」というひとつの町に発展していきます(申命記19章)。

(5)神の意志

 「偶然、彼の手に神が渡された場合」には、交通事故のようなことも含まれるでしょう。最近では、医療ミス、医療事故のようなこともあるでしょう。私たちは今日でも、そういうことを、さまざまな形で経験します。確かに、その責任は問われなければなりませんが、人間が勝手に殺したのでなければ、そこには神の意志が何らかの形で働いている。神様が、その人の手を通して、命を取られたのだということなのです。そういう認識、信仰が、この短い言葉の中に現れているのではないでしょうか。当事者の責任を問いつつも、そこに神の意志を見ようとするのです。そこには被害者にとっても、ある種の慰めがあるのではないでしょうか。
 その後、「(4)身体の傷害」と続きます。誰かに傷害を与えた場合のことです。重傷、軽傷さまざまです。また家畜による傷害もあるでしょう。いろんな事例を細かく検討しています。これを読んでいくと、なかなかおもしろいものです。家畜が人をつく癖があることを家畜の主人が知っていた場合、つまりその家畜が傷害を与える可能性が高いことを所有者が知っていた場合はどうなるかなど、さまざまです。「(5)財産の損傷」も同様であります。

(6)土の祭壇

 さて最初の「(1)祭壇について」に返ります。「主はモーセに言われた。イスラエルの人々にこう言いなさい。あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない」(23節)。これも、十戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」を展開したものと言えるでしょう。
 イスラエルの民は、実はこの後、モーセがいなくなっている間に、モーセの兄弟であるアロンをせき立てて「金の小牛」の像を造ることになります(出エジプト記32章)。みんなから金を集めるのです。何かしらこの世的にも、値打ちのある神様が欲しい。これはある種の誘惑であります。そちらの方が、いかにも神様が宿っているように見える。みすぼらしいものよりも、神々しいものの方が優れているように見える。この時に、モーセはそうした人間の誘惑というものをよく知っていたのでしょう。
 それではどこでどのように礼拝すればよいのか。こう続きます。「あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くすささげ物、和解のささげ物、羊、牛をその上にささげなさい」(24節)。「ええ、土ですか。」そういう応答がかえってきそうです。「土の祭壇なんて、魅力がありません。値打ちがありません。せめて石で造らせてください。土なら大雨になると、泥になって崩れてしまいます。石の方がまだましです。」そういう反論を、モーセはちゃんと予期しているのです。「しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである」(25節)。「石を使いたいなら、まあ仕方がない。許してやろう。ただし『切り石』を使ってはならない。」切り石というのは、のみを使って、きれいに整えたものです。その方が値打ちがあるように見えるでしょう。しかし、ここでは「のみを当てると、石が汚される」というのです。神様が造られたとおりのもの、人間の手が加わっていないものを使って祭壇を造る。そこには、偶像に通じる「よりよいもの、より美しいものこそ、ありがたみがある」という誘惑があるのです。

(7)み名により集まる群れ

 それでは、神様は一体どこにおられるのか。24節後半に、こういう風に記されています。「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」
 何と力強い言葉でしょう。形によらない。金銭的価値によらない。芸術的価値にもよらない。人間の持つものさしではないのです。ただ「わたしの名が唱えられるところ」。「ヤハウェ」の名が唱えられるところ。そこに神様がおられる。
 もちろん「み名を唱える」というのは、表面的、形式的なことではありません。イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)と戒められました。真実な心で、神様のみ名が唱えられるところ。そここそが、礼拝の場所であるというのです。ヤハウェの神様の高らかな宣言ではないでしょうか。
 イエス・キリストは、こう言われました。

「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19〜20)。

 イエス・キリストの名前が、二人、三人、あるいはそれ以上の人々によって真実に唱えられるところ、そこに教会があるのです。そして私たちは、イエス・キリストの名が唱えられるところへ招かれて、今日もこのように礼拝をしております。
 神様の御心が一体どこにあるのか。この契約の書に記されたような、神様の御心を私たち自身の心として受けとめ、それを実現していく群れでありたいと思います。


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