〜出エジプト記講解説教(37)〜
出エジプト記22章20〜26節
ヤコブの手紙1章22〜27節
2006年2月12日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
出エジプト記の「契約の書」を読んでいますが、今日は、先ほど読んでいただいた箇所(22:20〜26)を中心に、21章37節から22章の終りまでを取り扱います。煩わしく見える法律集のようなものですが、ここにも興味深い事柄がたくさん散りばめられています。(6)盗みと財産の保管、という項目から始まります。
「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として羊四匹で償わなければならない。彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない。もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたまま見つかった場合は、二倍にして償わねばならない。」(21:37、22:2b〜3)。
なかなか細かい規定であります。盗みをした場合には、4倍ないし5倍にして返すということです。私はこれを読んでいまして新約聖書で有名な、徴税人ザアカイの話を思い起こしました(ルカ19:1〜10)。
ザアカイは、貧しい人たちから財産を横取りするようにし、税金に上乗せして、私腹を肥やしていました人でありましたが、イエス・キリストと出会って人間が変えられます。誰も友だちがいなかったのに、イエス・キリストは、彼を見るなり、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃったのです。彼はうれしくて、精一杯のもてなしをしました。そして彼は、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)と宣言しました。ザアカイは、誰も強制していないのに、自ら進んでそう言いましたが、その背景には、この「契約の書」、神様の前に誠実であるためには、4倍ないし5倍にして償わなければならない、という規定があったであろうと思います。
その次は泥棒を殺してしまった場合の話です。「もし、盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけられ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。しかし、太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある」(22:1〜2a)。これは、今日の言葉で言えば、正当防衛と過剰防衛のことではないでしょうか。夜に侵入された場合は、相手も見えず、こちら側も不安である。泥棒を殺してしまったとしてもやむを得ない。しかし明るいところでは「やむを得ない」とは言えない、ということです。
戦争という事態においては、私たちは自分を守るために、どうしても人を殺さざるを得ないということが出てきます。(もちろん、そうした事態を発生させること自体が問題なのですが)。そうした中で許される範囲の防衛と、明らかに過剰防衛と思われる殺人があります。特に、捕虜になってしまっている人、つまり危害を加える恐れのない人を収容所の中で殺してしまう事件が相次いで報道されています。旧約聖書のこの段階ですでに、そうしたことを戒めているということがわかります。
「人が畑あるいはぶどう畑で家畜に草をたべさせるとき、自分の家畜を放って、他人の畑で草を食べさせたならば、自分の畑とぶどう畑の最上の産物をもって償わなければならない」(4節)。
自分の畑の草がもったいないから、他人の畑の草を食べさせる。その場合は、最上のものをもって償わなければなければならないというのです。ただし人間の場合は違っていました。貧しい人が、自分の飢えをしのぐために、人の畑に入ってその場で飢えをしのぐことは許される行為として規定されていました。こういう言葉があります。
「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(申命記23:25〜26)。これが背景となって、イエス・キリストと弟子たちが麦畑を通り過ぎる時に、その麦の穂を摘んで食べるという記事が新約聖書に出てきます(マタイ12:1〜3)。今日の私たちの法律からすれば、これも泥棒行為になるでしょうが、それは許されていたのです。ただし限度があった。籠に入れて持って帰ってはいけませんよ。鎌を使ってはいけませんよ。貧しい人のことを配慮した戒めであります。神様の温かい配慮を見るような気がいたします。
その後、火事の話が出てきます(5節)。火を出した者の責任が問われています。放火の場合だけではなく、たとえ過失の場合でも、火を出したものが償わなければならないというのです。
さらに、誰かの物を預かっている間に、それが盗まれた場合の責任は誰にあるかというような規定が続きます(6〜14節)。三人の人がいます。盗人と、持ち主と、それを預かっていた人です。盗人が見つかった場合は盗人が償う責任がある。当然です。盗人が見つからなかった場合は、それを預かっていた人は、自分が盗ったのではないという誓いをしなければならない。
あるいは誰かが人のものを盗み、それが本当はどちらのものであったのか争う場合には、両者が神の御もとに進み出て、自分は人のものを盗んでいないと誓いをする。その上で、どちらが正しいことを言っているのか、神の判断を仰ぐというのです。もちろん祭司がそれを執り成すのでしょう。
その次は、預かっている家畜が死ぬか、病気になるか、盗まれた場合の責任です。畑を借りて耕す人がいるように、家畜を借りて、それで仕事をする人がいました。借り賃も支払っていました(14節参照)。そのように借りている間に起きた事件、あるいは事故。証人がいない場合には、「自分は決して人の持ち物に手をかけなかった」という誓いをする。そうすると、所有者はそれを受け入れなければならない。ただし彼のところから盗まれた場合は、賠償責任があるというのです(11節)。また野獣にかみ殺された場合は、その証拠を見せなければならないとあります(12節)。
私は、創世記のヤコブの息子ヨセフが、兄たちにエジプトへ行く商人に売り渡された時のことを思い起こします。あの場合には、家畜ではなく、ヨセフという一人の人間でありましたが、彼が野獣に殺されたということの証拠として、兄たちはヨセフの服にわざと野獣の血をつけて、父ヤコブに見せたのです(創世記37:18〜35)。もちろん、それは偽証でありました。
ここまで(14節)のところは、今日の私たちにも受け入れられますが、ここから先(15〜19節)は、なかなか今日の私たちには、受け入れられないものです。
「人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒むならば、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばならない」(15〜16節)。
これは、女性が一人の人間として人格を認められていなかった時代の律法であります。今日の私たちからすれば、こんな男のわがまま勝手なことが許されるのか、と思うでしょう。当然のことです。ただこのところで何を言おうとしているかと言うと、「その行動には必ず責任が伴う」ということであります。今日であれば、その女性がその人と結婚したくない場合は、それをはっきり断る。そして賠償金を要求するということになるでしょうが、この当時は、その父親がその女性の保護者でありましたので、父親が娘に代わって、それを拒む権利をもっていたのです。こういう法律がない状態では、弱い立場の人間、その女性がしばしば泣き寝入りということがありました。
「契約の書」を細かく見ていきますと、時代的制約のような事柄と、普遍的に妥当する事柄、いや今日の法律よりも深い次元の事柄、その両方を見るような思いがいたします。特に20節以下の箇所は、神様の心がどこにあるかということが、よくあらわれている部分であると思います。
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」(20〜22節)。
旧約聖書の時代、寄留者、寡婦、孤児、これらの人々は社会の中で、最も弱い立場にある人たちの代表であるとされていました。この人たちには、彼らを守り、支える保護者がいませんでした。だから共同体がその人たちを守り、養う責任があるというのです。「何よりもまず、あなたたち自身がエジプトで寄留者であったことを思い起こしなさい。その時、神様が力強い御手をもって、あなたたちを守り、支え、導き出してくださったではないか。その恵みを思い起こすことによって、あなたたちが今、何をなすべきかが見えてくる」と言われます。寡婦、孤児、彼らがどのように大事にされていくか。それがその共同体がどれほど成熟した共同体であるかどうかの一つのバロメーターなのだと思います。
先ほど読んでいただきましたヤコブの手紙の中にも、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(1:27)という言葉がありました。
こうしたことは、今日の私たちの社会においても、教会においても、大事なことではないでしょうか。これをもっと具体的にしたような戒めが申命記の中に出てきます。
「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で積み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたはエジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うよう命じるのである」(申命記24:19〜22)。
美しい言葉であると思います。この言葉ですぐに思い起こすのは、ルツの物語です。ルツは夫に先立たれて、寡婦になります。しゅうとめのナオミはルツに実家に帰って再婚するよう、何度も勧めるのですが、ルツはナオミを見捨てず、どこまでもナオミに従って行くのです。ナオミが故郷のユダに帰る時も、ルツは住み慣れた土地(モアブ)を離れて、ナオミに従いました。ルツはユダの地では誰も知り合いもしませんでした。寡婦であり、寄留者でありました。しかしそのルツに目をかけた人がいました。ボアズという人でした。ボアズは、ルツに対して、「心配せず、自分の麦畑で落穂拾いをすればいい」と言いました。そして自分の畑で働く若者に向かっては、こう命じるのです。「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけでなく、刈り取った穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ」(ルツ2:15〜16)。
やがてボアズは、正式な手続きを経てルツを妻としてめとり、その二人の間から、エッサイが生まれ、エッサイから後に王となるダビデが生まれてくることになります(ルツ4:17)。そうした神様の物語が、こうした配慮の中で育まれていくのです。
「もし、隣人の上着を質に取る場合には、日没までに返さなければならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」(25〜26節)。
こういうきらりと光る言葉に出会うのです。「わたしはあわれみ深いからである。」このようなところにこそ、神様の御心があらわれています。そしてイエス・キリストというお方はそういう神様の「あわれみ深さ」が、人の姿をとってあらわれた方ではなかったでしょうか。イエス・キリストは、「最も小さい者の一人にしたことはわたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言って、その関係を明確に位置付けられました。
この22章は、「祭儀的律法」という項目で終わっています。「あなたの豊かな収穫とぶどう酒の奉献を遅らせてはならない。あなたの初子をわたしにささげねばならない」(28節)。ささげ物の心得について、教えられる思いがします。私たちも献金というささげ物をしますが、それは最初のもの、自分の中で最も大事なものを取り分けてささげる。それが本来の心でありましょう。もちろん、そのことは神様が私たちにしてくださった恵みと一つであります。「あなたたちが寄留者であった時に神様は大事にしてくれたでしょう。だから、あなたたちも大事にしてあげなさい」ということと「だからあなたたちも神様に最も大事なものを捧げなさい」ということ。この二つは、やはり切り離せないところでセットになっているのです。
主イエスの名前のもとに、私たちはここに呼び集められ、ここで一つの群れとされています。そうした中、神様の御心、イエス様の御心に応える群れでありましょう。