神の使い

〜出エジプト記講解説教(38)〜
出エジプト記23章4〜5、20〜22節
テサロニケの信徒への手紙一5章12〜22節
2006年5月7日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)正義・公正・慈愛

 モーセの「契約の書」と呼ばれる部分を読んでおりますが、今日は、その中の出エジプト記第23章に心を留め、御言葉を聞いてまいりましょう。この「契約の書」は20章22節から始まっておりました。今日で3回目であり、最後であります。
 「契約の書」は、十戒を与えられたイスラエルの民が、その十戒を、いかに具体的な生活に適応したらよいかを示したものと言えると思います。その根底に流れる精神は、「神が正義に満ちた方であるように、あなた方もいつも正しくあれ」、「神が公平な方であるように、あなたがたも誰に対しても公平であれ」、「神が憐れみ深い方であるように、あなた方も憐れみ深くあれ。特に貧しい人、困っている人に憐れみ深くあれ」ということであります。個々の戒めにも、そうした精神が貫かれています。
 新共同訳聖書では、具体的な個々の法律について、番号が振ってあります。この23章は、(11)から(16)までの6つと、20節以下の結びの言葉です。具体的な法の部分で、前半の三つ、(11)法廷において、(12)敵対する者とのかかわり、(13)訴訟においては、「法廷での手続きを規制する法」として、後半の三つ、(14)安息年、(15)安息日、(16)祭りについては、「祭儀暦」としてまとめることができると思います。

(2)曲げてはならない

 23章は、このように始まります。「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない」(1〜2節)。どれも今日でも、しばしば行われていることではないでしょうか。「根拠のないうわさを流す。」「不法を引き起こす証人となる。」「多数者に追随する。」人を陥れるつもりはなくとも、自分を守るために、自分の家族を守るために、自分の会社を守るために、ついそうしてしまう。
 先週4月28日は、水俣病公式確認50周年でありましたが、水俣病の被害がこれほどまでに拡大してしまったことは、国や県や会社が非を認めようとしなかったからであると同時に、それを守るため、それを擁護するために、一流の学者がそれを支持するような証言をしたからでありました。
 6節以下においても、それに通じる裁判の訴訟のことが記されています。「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない」(6〜7節)。ここに掲げられている言葉は、たった一つ、水俣病という具体的なケースに照らしてみても、今日においても、びんびんと私たちに響いてくるものではないでしょうか。さらに「あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである」(8節)と書いてある。これも、何と私たちの弱さを見抜いた言葉でありましょうか。
 政治家の発言を聞いていると、誰が考えてもおかしいとわかるような事柄を、平気で「一体、どこがおかしいんだ。何が悪いんだ」と開き直って言ってのけることがある。そんな時、恐らく裏で何らかのお金が動いているに違いないと、私は思います。賄賂というのは、人の目を見えなくさせ、正しい判断力を麻痺させてしまうのです。
 さかのぼって、3節では「また弱い人を訴訟においてまげてかばってはならない」とあります。これは一連の言葉と少しトーンが違います。それゆえにこの「弱い人」というのを「力ある人」と読み替える解釈もあります。子音を一つ補えば「弱い人」が「力ある人」といういわば反対の意味になるそうです。そうすれば、「力ある人におもねいてはならない」という風にトーンが一貫するわけですが、私はそのまま読んでも意味があると思います。私たちは、時に過度に弱い者の味方をして、真実が見えなくなってしまうこともあるからです。だからここで「曲げてかばってはならない」、と言うのです。いつもどんな状況においても、公正であらねばならない。
 申命記5章32節に「あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない」という言葉があります。私たちは、右に傾くことがあると同時に、時に左に傾くこともあるということを、わきまえておく必要があるでしょう。どちらにも曲げてはならない。聖書の神様は、どちらかと言えば、貧しい人、弱い人をひいき目にしておられるように見えます。そのことは、私も何度か言ってきました。しかし、それは社会全体が強い人、お金持ちの方に傾いているからであって、むしろそこで神様は、真ん中に引き戻そうとしておられるのです。とにかく、真っ直ぐに主の命じられることを公平に、公正に行うことが求められているのです。

(3)敵対する者とのかかわり

 さてその間の3〜4節には、こう記されています。
 「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」(出23:4〜5)。
 神は真実なお方です。誰かが困っていたら、それがたとえ敵であっても助けるようにと、命じられる。「いい気味だ」と思ってはならないということです。「あなたを憎む者のろば」というのも、興味深い言い方です。こちらが敵と思っていなくても、自分が憎まれていることもある。逆恨みということもあるでしょう。そうした時でさえ、その人を助けてあげよ、というのです。
 イエス・キリストは、こう言われました。

「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰ってきて、供え物を献げなさい」(マタイ5:23〜24)。

 こちらが反感をもっているかどうかではないのです。自分が反感をもっていなくても、誰かが自分に反感をもっているのに気づいたら、まずそれを解決し、それから神様に供え物をせよ、というのです。これがイエス・キリストの戒めでありました。
 私たちは、今日の社会において、いかに平和を築いていくか。小さなグループにおいて、家族において、会社において、時に教会・教団において。(教団の中にも、立場の違いによる不幸な対立があります。)そこでまず、相手の立場に立つことが求められているのです。

(4)安息年と安息日

 その後の三つは、祭儀や暦に関することです。最初に安息年。 
 「あなたは6年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、7年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。」
 これは、今日のサバーティカルの原型です。サバーティカルというのは、大学の先生が6年働いたら1年間(あるいは半年)与えられる研究休暇のことですが、本当は、大学の先生のような知的な働きをする人よりも、肉体労働者にこそ、サバーティカルは必要であるのでしょう。同時に、土地も動物も休ませなければならない。そしてその年にこそ、歪を補正する。これは、実際に行われたかどうかは不明ですが、そこにある精神は、すべての人が休む必要がある。時に大きな休みをいただいて、リフレッシュしなければならないということ。立場の弱い人であればあるほど、それが必要だと言うことです。
 さらにこの背景には、土地は、神からイスラエルに貸し出されたものであり、本来は神ヤハウェのものである、という考え方があります。農業を営む上でも、土地を休ませることは有益であるようです。
 その後は、安息日です。これについては、これまで何度も触れました。6日働いたら1日休む。自分が休むと同時に、自分のところで働いている人たち、家畜たちを休ませなければなりません。

(5)祭りについて

 その次は、イスラエルのお祭りについてです。「除酵祭」、「刈り入れの祭り」、「取り入れ祭り」という三大祭り。
 除酵祭というのは、4月下旬から5月初旬、春の大麦の刈り入れの始めを画するものでありました。刈り入れの祭りは、6月の穀物の収穫の完了を祝うものでありました。ペンテコステは、ここに由来しています。三つ目の取り入れの祭りは、ユダヤ暦の年の終わり(9月頃)に、ぶどうとオリーブの季節が終わった時期に行われました。
 こうした祭りも、神様のもとに立ち帰って行くということと同時に、休みを与え、気持ちをリフレッシュさせるということがあったでありましょう。
 年に3回と言えば、ブラジルにも、6月のフェスタジュニーナ(六月祭)、12月のクリスマス、2月、3月のカーニヴァルという三つの大きなお祭りがありました。ブラジル人はお祭りが大好きで、そのために1年間働いている、という感じもしました。
 キリスト教でも、イースターとペンテコステとクリスマス、という神様の御業を祝う三つのお祭りがあります。

(6)いつも新たに、神に聞く

 さて、この契約の書の終わりに、「違反に対する警告」というエピローグが置かれています。これは、それまでのところと文体も違っています。
 「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである。」(20〜22節)。
 この「彼」というのが、一体誰のことなのか、何を指しているのかよくわからないのですが、何らかの天使のような存在であろうかと思います。モーセ自身という解釈もありますが、そう限定する必要はないでしょう。神様が必ず、そういう使いをあなたの前において、あなたを守り導いてくださるということです。
 実際に十戒の具体的適用法がここに収められると言っても、私たちが直面する現実はもっともっと複雑であります。その都度その都度、具体的判断を問われる。一体、どうすればよいのか。祈りをもって、「神様は今、私をどういう風にするようにと導いておられるのか」ということを、謙虚に、柔軟に、聞いていかなければなりません。
 私たちには、モーセの時代の人々と違って、イエス・キリストという、さらに神様と直結した神の使いが与えられております。山上の変貌と呼ばれる物語において、イエス・キリストを指して、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえてまいりました(マタイ17:5)。旧約聖書のさまざまな掟、律法を読む時も、私たちはイエス・キリストというレンズを通して見る時に、枝葉末節ではなく、その本来的な精神に立ち帰らされていきます。
 聖書の言葉というのは、いかようにも解釈できる。自分に都合のいいように解釈しようと思えば、できなくもない。「神様は果たして、今のコンテクスト(文脈)において、私に何を求めておられるのか。」そこで聞こえてくる声は、時に自分の利害に反するものであり、自分が歩みたくないと思う方向のものであるかも知れません。しかしその声を素直に聞き、そこでその声と対話していくことによって、私たちの進むべき道が示されていくのではないでしょうか。

(7)敵を恐れさせる力

 この神の使いを「聖霊」と呼んでもよいかと思います。聖霊がいつも私と共にあり、私の前にあって、私を導いてくださる。「わたしは、あなたの前にわたしの恐れを送る」(27節)とあります。これは私たちに対する「恐れ」ではなくて、私たちに敵対する者を恐れさせるものです。もっともそれは4節に出てきたような「敵」ではなく、私たちの前に立ちはだかるもの、例えば死であるとか、病気であるとか、あるいは憎しみ、と読む方がいいのではないでしょうか。このお方が共にいてくださるならば、私には恐れることはない。

「死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。」(詩編23:4)

 私たちは誰かに、何か悪いことをされる時にも、自分で復讐するのではなく、正義と公平の神様を信じて、むしろお互いに平和を築いていくことにこそ、心を用いていくべきではないでしょうか。
 パウロは、その精神を引き継いで、先ほど読んでいただいたテサロニケの信徒への手紙の中で、こう言っております。

 「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」(一テサロニケ5:12〜15)。

 私たちのゆく手に主が先立っておられる。この神の使いを前に見て、「主よ、御手もて 引かせたまえ」と歌いつつ、祈りつつ、歩んでまいりましょう。


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