しばしの不在

〜出エジプト記講解説教(39)〜
出エジプト記24章1〜18節
ヨハネによる福音書16章5〜7節
2006年5月28日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)契約の締結

 来週の日曜日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)であります。ペンテコステの10日前は、教会の暦では昇天日と定められています。今年は、先週の5月25日(木)でした。昇天日とは、イエス・キリストが復活し、40日間、この地上で過ごされた後、天に上げられたことを覚える日です(使徒1:3〜11参照)。そしてその10日後に、聖霊として帰ってこられますので、この10日間は、いわばイエス・キリストの不在期間であったと言えるかも知れません。
 もちろん、そこにも意味があります。いつでも、どこでも、どんな時に私たちと共にいるために、しばしの間、去って行かれたということです。
 今日私たちに与えられた出エジプト記の24章にも、モーセが、しばしの間、山の下の群れを離れたということが記されていますが、それもモーセが新しくされて帰ってくるためでありました。昇天日後の日曜日に、ふさわしい箇所が与えられたと思っています。
 この24章は、「契約の締結」と題されています。神様がモーセに現れて、十戒を与えられ(20:1〜17)、さらに契約の書を与えられる(20:22〜23:33)。この二つの大事なものを与えられた締めくくりの物語であります。
 契約付与の話は19章から始まっていましたが、その最初の部分ですでに、モーセが「民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った」(19:7)ということが、記されていました。それに対し、「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った」(19:8)のです。
 実は、この応答と同じ言葉が、しめくくりの24章にも出てきます。
 「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った」(3節)。さらに「わたしたちは主が語られた言葉をすべて行い、守ります」(7節)と繰り返されています。
 ここに神様と神の民との契約が成立いたします。「モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』」(8節)。
 しかしこの民の応答は、「返事はいいけれども、行動が伴わない」ということになります。そのために神様は心を痛め、やがて大きな決断をして、神の民のために新たな契約を備えられることになるのです。この箇所は、そうした神様の今後のご計画を予見させるような内容を含んでいますが、テキストに従って、見てまいりましょう。

(2)アロン、ナダブ、アビフ

 「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。しかし、モーセだけは主に近づくことができる」(1節)。ナダブ、アビフというのはアロンの息子、長男と次男であります。この二人は、神様の御心に背いたということで、若くして、神様がその命を取られるということになります。この二人の下には、更に二人のエリアザルとイタマルという二人の弟、三男、四男がいるのですが、この二人は、アロンの継承者として生き延びて、祭司の家系を作っていくことになります(レビ記10章参照)。今日の出エジプト記24章の段階では、この三男、四男はまだ幼かったのか、生まれていなかったのか、出てきません。
 モーセは、アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの70人の長老を連れて、主の元に行くのですが、モーセ以外の人々は、「遠く離れて、ひれ伏さなければならない」とあります。この頃、神様に近寄った者、特に神様を見た者は必ず死ぬという風に言われていました。それだけ神様は、きよいお方であって、汚れた者は近づくことができないという風に信じられていました。それゆえモーセだけが近づいていくのです。
 彼らがいい返事をした後で、「モーセは主のすべての言葉を書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、12の石の柱をイスラエルの12部族のために建て」ました(4節)。12というのは完全数であり、そこに全イスラエルの代表がいるということの象徴でありましょう。
 モーセは「イスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた」(5節)。きよい神様の前に出るのに、献げ物をしなければならない。動物の献げ物、その血によって清めていただく。まだ祭司制度が整っていませんので、若者たちがそのために遣わされたのです。

(3)聖餐式の下敷き

 そしてこの後は、まずその血を二つに分ける。そして半分を鉢に入れて、残り半分を祭壇にふりかけるのです。半分が民の側にあり、半分が神様の側にあって、それによって契約がかわされているということでしょう。そしてモーセは「契約の書」を取って、一つ一つ声に出して読んで聞かせました。人々が「守ります」と声に出して、誓いの言葉を述べると、モーセは半分の鉢の方の血を取って民の方にふりかけ、こう宣言するのです。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(8節)。
 これはイエス・キリストの聖餐式の予型、下敷きと言えるのではないでしょうか。
 「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(Tコリント11:25)。
 イエス・キリストは、それまでの契約とは違う「新しい契約」を立てられると言われましたが、それは、イエス・キリストご自身の血(犠牲)によって、なされなければなりませんでした。その前提となっている、そもそもの古い契約が、今日の箇所に記されているのです。
 「アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい」(1節)とありましたが、9節で、その命令が実行に移されます。
 「彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた」(10節)。この「サファイアの敷石」とは、実はラピスラズリのことであろうと言われます。青く、透明な、澄んだ宝石です。大空の色を指し示すものであります。その御足の下に、このラピスラズリがいっぱいあったと言うのです。
 「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」(11節)。これは不思議な光景であります。こういう形、つまり神様を見ながら食事をし、そして飲んで、しかも死ななかったというのは、旧約聖書でここだけに記されていることです。神様が手を伸ばされなかったというのは、彼らがそれによって死ななかったということを意味しています。神様が共におられるところで飲み食いをする。これもまたイエス・キリストによって制定される聖餐式の前触れ、先駆けと言えるのではないでしょうか。

(4)石の板に刻まれた

 モーセは、その後、再び神様の声を聞き、山に登っていきます。「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」(12節)。
 いよいよ十戒が刻まれた石の板を授かるのです。モーセは後に後継者となっていくヨシュアと共に山へ登って行くのですが、長老たちにこう言いました。
 「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる」(14節)。アロンは、モーセの兄弟です。フルについては、よくわからないのですが、モーセの姉ミリアンの夫ではないかと言われます(ヨセフス)。

(5)モーセの不在

 モーセは、山に登って行って、そのまま帰ってこなかったというのではありません。この後、新しい形で、神様の言葉をしっかりと携えて、神様と人間の仲保者として立てられたことを、身に帯びて帰ってきます。いわば、民の中に帰ってくるために、しばしの間、不在となったということができるでしょう。
 しかしそのモーセの不在期間に一体何が起こったか。やがて読むことになりますが、モーセがいない間に、だんだん神様のことがわからなくなってくる。神様が共におられるということが信じられなくなってくる。そしてアロンに頼んで、「金の子牛を造ってくれ」というようになるのです。偶像であります。神様が一緒におられることがわからなくなる時に、私たちは別のものに頼りたくなる。そうした人間の弱い思いをよく表す出来事であると思います。やがてモーセは帰ってきて、その情景を見て憤慨いたします(出エジプト記32章参照)。
 そのために再び戒めが与えられなければならなくなります(34章参照)。しかし戒めが再び与えられても、イスラエルの民は神様との契約の相手として、ふさわしくその歩みを全うできませんでした。

(6)新しい契約

 普通、契約というのは、どちらかが約束を守らない場合、破棄されるということになります。しかし神様と私たち人間の間の契約は、それで破棄されてよいものなのか。神様ご自身が、「いやそのようなこと、人間の不信仰によって、不服従によって、破棄されてはならない」と自問自答し、ある決意されるのです。神様は何をなさるのか。新しい契約を、イスラエルの民の中に送られるのです。それは旧約聖書と新約聖書を結ぶ大事な、そして美しい言葉ですので、ぜひ覚えてくださるとよいでしょう。

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」(エレミヤ31:31)。

 この「かつて結んだ契約」こそ、出エジプト記24章の「契約」であります。

「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(同32〜33節)。

 最初の契約は、「石の板」に記されましたが、「新しい契約」は、石の板ではなくて、「胸の中に授け」、「心にそれを記す」というのです。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(34節)。これがエレミヤに与えられた神様の新しい契約の約束です。
 ちなみに「新約聖書」の「新約」という言葉は、このエレミヤ書31章31節に由来しています。古い契約(旧約)に対する新しい契約(新約)ということです。

(7)いつも共にいるために

 神様は神の民が不信仰に陥って、そこから去ってしまう時にも、決して見捨てられない。神の民であり続けるために、直接、心にその律法を記すと約束されました。それはイエス・キリストという形で、この地上に実現した。私たちクリスチャンは、そのように信じているのです。
 イエス・キリストは、30年間、この地上に、「神がわれらと共におられる」ことをはっきりと伝えるために、人間という形で、共に過ごされました。十字架にかかり、死に、そして復活され、さらに40日の間、復活した体で、この地上で過ごされました。
 しかし肉体をもったイエス・キリストは、ある場所とある時間の中におられ、限定されています。私たちのように遠い日本の、しかも2000年の後に生きている者と共にいることはできません。
 イエス・キリストが来られたのは、神様の約束、「神がわれらと共におられる」という約束が実現するためでしたが、それが普遍的に妥当するために、昇天という出来事は起こらなければならなかったのです。天に昇って、聖霊という新しい形で、いつでもどこでも私たちと共にいてくださる神様として、新たに降られるのであります。
 今日は、ヨハネ福音書16章の言葉を読んでいただきました。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16:7)。肉体をもったイエス・キリストが去って行くことによって、肉体から自由になった、聖霊という弁護者があなたたちのところへ帰ってくる、と約束されたのです。
 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」(ヨハネ14:18)。イエス・キリストの力強い約束です。イエス・キリストが聖霊として共にいてくださる。しかしながら、その聖霊は目に見えないものですから、私たちは、あのモーセの時代の神の民と同じように、「神様は、本当に私と一緒にいてくださるのだろうか」と、不安になることもあるでしょう。どんなに強い信仰を持っていても試練が来た時に、そういう気持ちになるものです。しかしながら、「イエス・キリストは再び帰ってこられる」という約束の中で、信仰はより確かな希望に変えられていくのではないでしょうか。もう一度、目に見える形で、私たちの世界に来られる。私たちはその日を待ち望みながら、それぞれに与えられている歩みを全うしたいものであります。


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