神の住まい

〜出エジプト記講解説教(40)〜
出エジプト記25章1〜22節
使徒言行録7章44〜50節
2006年7月9日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)わたしは彼らの中に住む

 出エジプト記は、25章から31章まで6章にわたって、細かい幕屋建設の指示について述べております。最初に、神様はモーセにこう言われました。
 「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(8節)。これは、一つの神様の大きな約束であると言ってもよいでしょう。そして命じられます。「わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(9節)。
 幕屋建設の命令には、「掟の箱」を中心とする祭具の製作も含まれていました。これまで出エジプトの民を導く神様の存在は、雲の柱と火の柱によって象徴されていましたが、ここから先、荒れ野における神様の導きを示すものは、この「幕屋」、そしてその中心にある「掟の箱」となるのです。
 「掟の箱」というのは、22節に出てくる言い方ですが、その他にも、この箱は、「契約の箱」、「神の箱」、「主の箱」、「律法の箱」、あるいは単純に「箱」などさまざまな呼ばれ方をします。この箱の中には、モーセが受け取った「掟の板」、すなわち十戒を記した2枚の石の板が納められることになります。

(2)神の箱の威力

 この箱は、これから後、非常に重要な意味を持ってくるようになります。それは、出エジプトの旅の間だけではありません。約束の地カナンに入る時にも、ヨシュアをリーダーとするイスラエルの民は、この契約の箱を担いでヨルダン川を渡るのです。
 「ヨシュアが祭司たちに、『契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ』と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ」(ヨシュア3:6)。そしてこの契約の箱を担いでいくと不思議なことが起きます。かつてモーセが紅海の水をせき止めて、民を渡らせたように、ここではその契約の箱が水をせき止めるのです。

「ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海、すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった」(ヨシュア3:14〜17)。

 すごい威力です。契約の箱は、神様が共にいるしるしであったということがわかります。神様は、この箱を通して働かれたと言ってもいいでしょう。この箱を通して、イスラエルの民を守られるのです。

(3)神の箱、奪われる

 しかしながらこの箱は、神の民の都合のいいように働くわけではありません。いつも守ってくれるわけではありません。
 この「契約の箱」は、ギルガルを経て、シロというところに安置されることになります。ヨシュアの時代からサムエルの時代まで、長い間ここに置かれました。ただし一時、この「箱」が盗まれるという大事件が起きるのです。その話は、サムエル記上4章に出てきます。新共同訳聖書では、「神の箱、奪われる」という見出しがついていました。週刊誌の見出しのようですね。
 イスラエル軍がペリシテ軍と戦って、イスラエル軍が劣勢になった時のこと、あの「契約の箱」の力にあやかろうということになります。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう」(サムエル記上4:3)。しかしそれは安易な考えでありました。
 「契約の箱」が到着すると、イスラエル軍は大歓声に包まれます。イスラエルの人たちは、これまでこの箱がいかに力を示して来たかをよく知っていたのでしょう。
 逆にペリシテ軍の方は、そのどよめくような歓声を聞き、恐れを抱きました。
 「大変だ。このようなことはついぞなかったことだ。大変なことになった。あの強力な神の手から我々を救える者があろうか。あの神は荒れ野でさまざまな災いを与えてエジプトを撃った神だ」(7〜8節)。
 イスラエルの神の名声は敵陣にまで及んでいたのです。しかしペリシテ軍は、それでひるんで逃げ出すのではなく、逆に、気を引き締めることになります(9節)。彼らは死に物狂いで戦ったことでありましょう。結局、この戦いはペリシテ軍が勝つのです。しかし、それはペリシテ軍の力が神の箱の力に勝ったということではなく、神の箱がイスラエルの人々の安易な気持ちに答えなかったというべきでしょう。
 そして神の箱はやすやすと盗まれてしまいます。奪われた神の箱は、敵方でも威力を発揮しますが、その発揮の仕方がおもしろいのです。神の箱は、それが誰の手に渡ったかに関係なく、自由にふるまいます。一体どちらが主人なのかが、むしろそれによって明らかにされる。神が共におられるということは、こちらの思うとおりに祝福してくれるということではありません。
 それは、今日の私たちもよくわきまえておかなければならないことでありましょう。神様が教会を建てられると言っても、必ずしも私たちに益するように働かれるとは限りません。むしろ神が神であるということを、その時その時に自由にお示しになるのです。こちらの言うとおりになる神様であれば、それこそ偶像でありましょう。
 奪われた神の箱は、まずアシュドドという町で、ペリシテ人の神であるダゴンの神殿に運ばれます。戦利品のようなものです。ところが翌朝になってみると、神の箱の前で、ダゴンの像の方がうつ伏せになって倒れているのです。その翌日は、そのダゴン像の頭と両手が切り取られて胴体だけになっていました(サムエル上5章参照)。
 そしてアシュドドの人々の上に、次々と災いが起きるのです。疫病神のようになってしまう。神の箱は、ペリシテのいろんな町でたらい回しにされ、その行き先々で災難をもたらします。とうとう7ヶ月経って、「元のところへ返そう」ということになりました。ただ逆に「手ぶらで返していいものか。何か賠償の献げ物をしなければ、またひどい目にあうかも知れない」ということになってさまざまなお土産がついて来るのです。その帰って来方がまたおもしろいのですが、それはサムエル記下6章の「神の箱の帰還」をご覧ください。
 やがて、この神の箱はダビデによってエルサレムに移され(サムエル記下6:4)、ソロモンによって神殿の中に置かれることになりました(列王記上8章)。この契約の箱のために、神の住まいである神殿が建設されたと言った方がいいでしょう。

(4)「掟の箱」のスケッチ

 そういう数々の大きなドラマを形づくっていく神の箱、契約の箱の始まりについて、私たちは今、この出エジプト記25章で見ているのです。
 ここから非常に細かい指示が続きます。それらをすべて見ていくことはできませんが、最初の部分は、一例として見ておきたいと思います。最初に製作を命じられるのは、この一番大事な「箱」であります。
 「アカシア材で箱を作りなさい。寸法は縦2.5アンマ、横1.5アンマ、高さ1.5アンマ」(10節)。1アンマというのは、ひじから中指までの長さです。聖書巻末の度量衡換算表によりますと、約45センチ。私も自分の腕を計ってみましたが、ちょうど45センチでした。昔の人は案外大きかったのだなと思います。口語訳聖書ではキュビトとなっていましたが、同じ長さです。これで換算しますと、この箱の大きさは、縦112.5センチ、横と高さが67.5センチとなります。
 「純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る」(11節)。全部金ぴかにするのです。「四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシア材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く」(12〜15節)。
 イスラエルの民が移動する時には、この箱をおみこしのように担いでいきました。ヨシュアの部下たちも、サムエルの時代のイスラエルの兵士たちも、この箱を担いだのです。
 「この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい」(16節)。やがて十戒の板がこの中に納められることになります。

(5)「贖いの座」のスケッチ

 その次は、「贖いの座」です。「寸法は縦2.5アンマ、横1.5アンマ」(17節)。先ほどの箱の上面と同じ大きさです。それが契約の箱の蓋のようになるのです。
 そしてケルビム。ケルビムというのは、手足と翼をもつ天的な存在、人間の理性と動物の威力をもつと考えられていました。

「打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める」(18〜21節)。

 これで契約の箱と贖いの座のスケッチができあがりました。今日であれば、設計図で示すであろうものを、全部言葉で書いている。よくここまで細かく指示したなと思います。
 そして、最も大事な言葉が記されます。「わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをあなたに語る」(22節)。つまりここが、神様の現臨の場所、神様が地上で存在を示す場所となるのです。目に見えない神の、目に見える現臨のしるしです。

(6)「机」と「燭台」のスケッチ

 この後、25章では、さらに二つの祭具を製作するよう、命令されます。これは簡単にしておきましょう。最初は机です。何のための机か。最後に書いてあります。
 「この机に供えのパンを、絶えずわたしの前に供えなさい」(30節)。供えのパンのための机です。今日の私たちからすれば、献金台のようなものでしょうか。あるいはパンということ、神様が食事をなさる場所ということから言えば、聖餐台にむしろ近いかも知れません。
 その次は燭台です。七つの燭台。純金で作られる。最後に重さは1キカルの純金とあります。これも聖書巻末の度量衡換算表では、1キカルは、34.2sということですから、かなり重いものです。
 この燭台はその後もしばしば登場します。皆さんもどこかでその絵をご覧になったことがあるのではないでしょうか。真ん中に1本の柱があって、その両方に3本ずつ腕のように支柱が出ている。そしてそこからアーモンドの花の形をした萼(がく)と節と花弁を付ける。輝くともし火は、神の守りのしるしでありました。
 ちなみに新約聖書のヨハネの黙示録に、次のような言葉があります「わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、7つの金の燭台が見え、燭台の中央には一人の人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた」(黙示録1:12〜13)。 燭台は神様の現臨を示すものであり、その中央にキリストがおられたのです。

(7)神が住んでくださる

 ちなみにソロモンによる神殿奉献以後、契約の箱のことは、イスラエルの伝承から忽然と消えてしまいます。その後、聖書には出てこないのです。それから後は、エルサレム神殿が神様の臨在する場所とされていきます。それまでは自由に動けたのに、そこからは場所が固定されて少し不自由になられたように思えますが、そんなことはないでしょう。神様は遍在の神、ユビキタスの神であります。ご自分が住みたいと思うところにお住みになり、働きたいと思うところで働かれるお方です。
 主イエスは、ペトロに対して、「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)とおっしゃいました。主イエスは、地上においては、教会を神が働かれる拠点とされたということができるでしょう。そこに、神が共におられるしるしがある。またイエス・キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束してくださいました。
 さらに、先ほど招詞で読んでいただいたように、パウロは「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか」(Tコリント3:16)と言いました。私たちのうちに、神様が宿ってくださるのです。この後、讃美歌471番を歌いますが、この歌のとおりに、主イエスが私たちのうちに宿ってくださることを信じ、前に進んでいきましょう。

1 あめなるよろこび 聖なる愛を
 こよなくとうとき わが君イエスよ
 救いの恵みを   たずさえくだり
 おののくこの身に 宿らせたまえ
4 われらも新たに  造りかえられ
 きよめを受けつつ 栄えにすすみ
 み国にいたりて  み前に伏す日
 み顔のひかりを  仰がせたまえ
(『讃美歌21』475)

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