収穫感謝祭のイエス

〜ヨハネ福音書講解説教(27)〜
レビ記23章33〜43節 
ヨハネ福音書7章14〜24節
2003年11月23日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)収穫感謝

 本日は、教会のカレンダーでは1年の最後の日曜日であります。来週からクリスマスを待ち望む待降節、アドベントが始まると同時に、教会暦の新しい1年が始まります。日本基督教団では、この教会暦における1年の最後の日曜日を、収穫感謝日および謝恩日と定めています。私たちの教会学校でも、今日は収穫感謝の礼拝の後に、1階のガレージで焼き芋会をいたしました。
 この日を収穫感謝日と定めていることは、恐らくアメリカの Thanksgiving Day と関係があるのでしょう。アメリカではピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々がメイフラワー号でマサチューセッツ州のプリマスに上陸した後、最初の収穫を祝って収穫感謝祭が行われました(1621年)。その時には新大陸での生活を助けてくれたネイティブ・アメリカン(先住民)を招いて祝われたそうです。現在、アメリカでは11月の第4木曜日に収穫感謝祭が祝われています。
 ちなみにブラジルでは、北半球と季節が反対ですから、11月には収穫感謝祭はありません。6月にフェスタジュニーナという一連の聖人祭があるのですが、それが収穫感謝を兼ねております。とうもろこしが、それこそ文字通り山のように積まれて、大きな焚き火をいたします。そしてその周りをクアドリーニャというフォークダンスのようなダンスをいたします。収穫の季節は農家にとって、本当にうれしい時です。いかにも村祭りという感じがいたしました。

(2)一年の恵みを感謝する

 東京で、都市の生活をしていますと、収穫感謝と言っても、あまりぴんと来なくなってきます。また最近は1年中、どんな野菜でもどんな果物でも手に入るようになってきましたので、あまり季節感がなくなってしまいました。しかし私たちは大地の産物、野菜、果物、お米なくしては生きていけませんので、日を定めて、そうした収穫をいただいていることを神様に感謝するのは、とても大切なことであると思います。
 今日は招詞で、詩編65編を読んでいただきました。

「あなたは地に臨んで水を与え、
豊かさを加えられます。
神の水路は水をたたえ、
地は穀物を備えられます。
あなたがそのように地を備え、
畝を潤し、土をならし、
豊かな雨を注いで柔らかにし、
芽生えたものを
祝福してくださるからです」
(詩編65:10〜11)。

 旧約聖書の時代の人々は、天に水路があって、そこにあふれる水が、地上に雨となって注がれるのだと考えていました。美しい言葉であります。畑を耕し、種を植えて、水を注ぎ、それを刈り取るのは人間ですが、その背後にあって、それを成長させてくださるのは神様である、実りを与えてくださるのは神様です。
 本当は農作物だけではなく、どんな仕事であってもそうなのでしょう。商業であれ、工業であれ、あるいは教育であれ、牧会であれ、私たちの働きがそのまま実りになるわけではありません。神様がそれを育んで、成長させて、実りを与えてくださるのです(コリント一3:6〜7参照)。
 私たちはこの収穫感謝日に、実際の大地の実りを感謝するだけではなく、それぞれの働きに応じて、あるいはそれを超えて与えられた収穫というものを思い起こして、改めて感謝したいと思います。その意味で、教会暦の一年の終わりに収穫感謝日が定められているというのはなかなか意義深いと思います。一年を振り返って、この年に与えられた恵みを思い起こして、感謝いたしましょう。またこの日が謝恩日となっているのも、有意義なことであると思います。教会が今日あるのは、もちろん神様が背後から支え、育ててくださったためでありますが、それと同時に、そのために直接、一生懸命働いてくださった先輩諸先生方への感謝も忘れないようにしましょう。本日の礼拝献金は、隠退教職の先生方のために捧げることにしています。

(3)仮庵祭

 さて私たちはヨハネ福音書の第7章を続けて読んでおります。「ときに、仮庵祭が近づいていた」(2節)と記されていました。この仮庵祭というのが、実はユダヤ人たちの収穫感謝祭でありました。先ほど読んでいただいたレビ記23章33節以下に仮庵祭について詳しく記されています。仮庵祭は、ユダヤ人の三大祭の一つで、過越祭、五旬祭と並ぶものでありました。
 「第七の月の15日から主のために7日間の仮庵祭が始まる」(レビ記23:34)。この第七の月というのは、春分の日から数えますので、大体9月末から10月頃のことです。15日というのは、太陰暦ですから満月の日です。その日から7日間がお祭りでありました。レビ記の続きにはこう記されています。

「なお第七の月の15日、あなたたちが農作物を収穫するときは、7日間の間主の祭りを祝いなさい。初日にも8日目にも安息の日を守りなさい。初日には立派な木の実、なつめやしの葉、茂った木の枝、川柳の枝を取って来て、あなたたちの神、主の御前に7日の間、喜び祝う。毎年7日の間、これを主の祭りとして祝う。第7の月にこの祭りを祝うことは、代々にわたって守るべき不変の定めである」(39〜40節)。

 元来は、ぶどう、果物、オリーブの収穫感謝という秋祭りでありましたが、それに出エジプトの際の荒れ野の天幕生活を思い起こすという歴史的意義が加わっていきました。仮庵というのは、仮小屋、つまり荒れ野で彼らが生活をした天幕、テントのことであります。

「あなたたちは7日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの地から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ記23:42〜43)。

 自分の家の中庭や屋上に仮小屋を造ります。自然の枝や葉をもって造る。立派な材木を使ってはいけない。柳の枝やなつめやしの葉で小屋を造って、そこで足掛け8日間の生活をしたのです。子どもたちはわくわくするでしょうね。
 人々は詩編の「都もうでの歌」を口ずさみ、エルサレムへ隊列をなして巡礼いたしました。神殿では犠牲が捧げられ、荘重な水汲み、水注ぎの儀式が行われ、夜ごとの祭典でにぎわったそうです。歴史家ヨセフスによりますと、これはユダヤ人にとって最大とは言わないが、ともかく最も大衆的な祭りであったということです。
 私は、この仮庵祭についてのレビ記の記述に、「わたしが彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである」「わたしはあなたたちの神、主である」と書いてあることは、とても大事であると思います。ただ単に昔の人の生活を思い起こすためではないのです。昔の人の苦労を思い起こすためではないのです。そこで神様を思い起こす。神様がそうした厳しい生活の中にあっても守り導いてくださったことを感謝するのです。それがなければ、これはただ楽しい村祭りということになってしまうでありましょう。そして一見関係のない収穫感謝ということと荒れ野の仮庵ということも、その「神様に感謝」という一点においてこそ、結びつくのだと思います。それがなければ関係のないものを、ただ並べただけということになってしまいます。

(4)権威ある者として

 さて仮庵祭についての説明が長くなりましたが、イエス・キリストはその仮庵祭も半ばに達していた頃に、神殿の境内に上って行って、教え始められました(14節)。そしてそれを聞いていたユダヤ人たちが驚いたというのです。

「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(15節)。

 イエス・キリストの教えは、多くの人々を動揺させました。普通、人々の前で話をするのは、それなりの学問を積んだ人でした。しかし彼はそれを受けていないにもかかわらず、話をした。それだけであれば、「何だ、こいつは」と言って、つまみだされたかも知れません。ところがそうさせない何か、人を惹きつける何かがあったのです。「どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。この「知っている」というのも、ただ聖書学者たちがよく勉強して「知っている」というのとは、質的に違った何かがあったのでしょう。
 一体具体的に、何をどう教えられたのかということはわかりません。マタイ福音書には、山上の説教と呼ばれる一連のイエス・キリストの教えが記されていますが、その一番最後にマタイはこう記しているのです。

「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群集はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マタイ7:28〜29)。

 この仮庵祭の時も、イエス・キリストは「権威ある者として」お話になったのでしょう。イエス・キリストご自身は、その秘密についてこう説明されます。

「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(16節)。

 この言葉だけを取り上げれば、学問を積んだ学者たちも、同じことを言ったかも知れません。「それはこっちの言うセリフだ」。彼らも(旧約)聖書の解釈が自分勝手なものにならないように、神様の御心を探るために、一生懸命勉強していたのです。
 ところが学問というのは、両刃の剣です。勉強すればするほど、それを巧みに操ることもできるようになります。それを都合よく、自分に不利にならないように、自分を守るために用いる。一見、神様の御心を行うように見せて、実は巧みに自分を持ち上げている。神学を学べば学ぶほど、そういう危険性が裏腹についてくることを思わされます。

(5)割礼と全身のいやし

 その続きを読んでみますと、「わたしがひとつの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている」(21節)という言葉がありますが、この前後を読んでみても、この「一つの業」というのが何を指しているのかよくわかりません。実は、これは5章に出てくる話に基づいているのです。
 5章のところで、イエス・キリストは、やはりエルサレムへ来ておられ、エルサレムのベトサダの池のほとりで、38年間病気で苦しんでいた人の病気をいやしてあげました。そしてそれが安息日であったのです。そのことを取り上げて、ユダヤ人たちはイエス・キリストを非難しておりました。「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである」(5:16)。
 イエス・キリストは、そのことで自分が非難されているのを知っておられて、割礼の話を持ち出されました。

「しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。……だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している」(22節)。

 これはレビ記12章3節に基づいています。

「イスラエルの人々に告げて、こう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、……八日目にはその子の包皮に割礼を施す」。

 生まれた日が安息日であれば、(安息日であろうとなかろうと、赤ちゃんが生まれるのを止めることはできません)、八日目も安息日になります。ユダヤ人たちは、安息日であっても八日目に割礼を施すことは、きちんと守らなければならないと考えました(レビ記12:2〜3)。彼らは安息日にも、大きな仕事をしていたわけです。たまたま出血が止まらなかったりしたら、お医者さんも呼んだことでしょう。彼らは、それを自覚的にか無自覚的にか、いずれにしろ安息日律法よりも優先する事柄を設けていたのです。主イエスはそのことを前提にしながら、こう語られる。

「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか」(23節)。

 これはおもしろい説明であると思います。説得力のある論理です。
 割礼というのは、子どもの男性器、おちんちんの先の皮を切るわけです。そうした体全体から見れば、体のごく一部に過ぎない、小さな器官に関わる事柄で、安息日律法の規定違反をすることが認められているのであれば、「全身」、体全体を癒すというもっと大事なことが、どうして認められないのか。そう問われたのです。
 細かいことにこだわって、もっと大事なことがおろそかになってしまう。意識的に自分に都合のいいようにそうする場合もあるでしょうし、無意識のうちにそうした袋小路印入り込んでしまうこともあります。規則、原則を貫こうとする余り、本質的なことからだんだん逸れていってしまう。筋道を優先しようと思って、神様の御心と反対の方向へ行ってしまう。そうした危険性があるのではないでしょうか。

(6)うわべよりも愛

 これは今日の世界を見る時にも、とても大事なことであります。同じ聖書を読み、同じ神様を信じ、同じクリスチャンであるはずの人間が、一方は戦争に突き進んで行くことを肯定し、一方は反対をする。一体どちらが神様の御心なのか。両方とも、神様の御心を主張する。字面だけを追えば、両方とも、その根拠となるように見える聖書の箇所を引用することができる。私たちは、本当の神様の御心はどこにあるのかということを見抜くアンテナを持たなければならないと思います。その一つの指針は、「うわべ」よりも「心」ということでしょう。

「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」(24節)。

 これは、そこに「愛」があるかどうかということであるように思います。イエス・キリストは字面を重んじることで、主客転倒が起こること、律法を大事にしているようであって、御心から逸れていく可能性を指摘されたのです。
 そうしたことを考えると、17〜18節に記されていることも、よくわかる気がいたします。

「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」。

 自分の栄光を求めるか、神様の栄光を求めるか。一見、神様に栄光を帰しているように見えながら、巧みに自分自身の栄光、あるいは自分の国の栄光を求めているということが、しばしばあるのではないでしょうか。イエス様が、字面ではなく本質、うわべではなく愛に基づいて、行動なさったことを学び、私たち自身も御心を行う者になっていきたいと思います。