問いかけてくる存在

〜ヨハネ福音書講解説教(28)〜
ミカ書5章1〜4節a
ヨハネ福音書7章25〜36節
2004年1月11日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)背景

 今日、私たちに与えられたテキストは、ヨハネ福音書7章の25〜36節であります。第6章と同じように、この第7章も全体として続いておりまして、途中で切るのが難しいところです。ですから25〜36節を中心にして、7章全体に触れるお話をいたします。
 時は仮庵祭というユダヤの収穫感謝祭の季節でした。イエス・キリストは故郷のガリラヤから密かにエルサレムに上ってきておられます。エルサレム神殿の境内で教え始めると、それを聞いていた人々は、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(15節)と驚嘆いたしました。ところがその一方で、イエス・キリストの登場を快く思わず、むしろ憎く思っている人々もいました。イエス・キリストがエルサレム神殿のすぐそばにあるベトサダの池のほとりで38年間も病気であった人を癒してあげたのが、本来どんな仕事もしてはいけない安息日であり、そのことから、宗教的指導者たちとの間で激しい論争が生じていたのです。彼らはイエス・キリストを、神を冒涜する者として、何とか殺そうと考え始めておりました。今日のテキストはそのところから始まっています。

(2)さまざまな登場人物

 この第7章には、さまざまな人々が登場いたします。最初に出てきたのは、イエスの兄弟たちでありました。その次に群集が出てきます。それから「ユダヤ人たち」とも記されていますが、ファリサイ派の人々や祭司長たちなど、宗教的指導者たち(32節)が現れます。彼らの下で働く下役たちも出てきます(32節)。イエスの兄弟たち、群集、宗教的指導者、下役たち、これらの人々がイエス・キリストに対して、さまざまな反応をしているのは、なかなか興味深いことであります。

「さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。『これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるか、誰も知らないはずだ』」(25〜27節)。

 「エルサレムの人々」というのは、先ほどの群衆、宗教的指導者、下役たちのすべてを含んでいるように思います。
 「議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」という言葉は、本当に戸惑っているようにも読めますし、「まさか認めたのではあるまい。お上は一体何をしている。なぜ捕まえないのか。何をもたもたしているのだ」という風に読むこともできます。

(3)イエスかノーか

 ここでは「イエス・キリストとは一体誰か」ということを判断する客観的な情報と、イエス・キリスト自身の口から出た言葉、あるいは内側から感じられる権威というものが、食い違っている。それが錯綜し、その両方に触れる人を混乱させるのです。
 客観的な情報というのは、「この男はガリラヤのナザレの出身で、大工ヨセフの息子だ」ということ、つまり「この男は出所が知れている。素性が知れている」ということです。さらに「メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」ということがありました。そうしたことからすれば、三段論法で「それゆえにこの男はメシアではない」、ということになります。
 これに関連して40節には、このように記されています。

「この言葉を聞いて、群集の中には『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか』。こうして、イエスのことで群集の間に対立が生じた」
(40〜43節)。

 ちなみに「聖書に書いてある」と言うのは、先ほど読んでいただいたミカ書第5章のことですが、これについては後で改めて触れることにいたします。
 イエス・キリストの言葉、イエス・キリストの存在は、それに触れる人に対立を生じさせるのです。判断が分かれる。「イエス」というか、「ノー」と言うか、どちらかを迫られるので
す。このことは、実は前のところからすでに始まっていました。

「群集の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた」(12節)。「しかし群集の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った(31節)。

 宗教的指導者たちは、特に、彼に対して否定的な反応をしました。自分の権威が脅かされ、否定されるという思いを持ったのでしょう。あるいは「もしもこの男が正しいのであれば、我々は一体何をやっているのか、ということになってしまう」と躍起になって否定したのかも知れません。それをすりかえて「神が冒涜されている」と、イエス・キリストを非難したのです。恐らくみんながみんなそうではなかったと思います。宗教的指導者ではありませんが、議員の一人であったニコデモは、ここで立ち止まり、自分なりの判断をすることになります(50節)。ニコデモについては、次回、お話いたします。

(4)上司の命令に従わない下役

 おもしろいのは、下役たちの反応です。下役たちというのは、いわば「神殿警備員」です。彼らは祭司長たちとファリサイ派の人々に雇われています。彼らは上司の命令どおり動かなければなりません。「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした」(32節)とあります。彼らは基本的に自分の考えをはさんでいけはいけないのです。上司の命令どおりに動く。軍隊や自衛隊のようなものです。「イラクへ行け」と命令されれば、そのように動くことが求められる。この時は、「イエス・キリストを捕まえて来い」と言われたのです。
 ところが、彼らはイエス・キリストを捕まえず、手ぶらで帰ってきてしまうのです。彼らはイエス・キリストを見つけられなかったわけではありません。イエス・キリストは26節にもあるように、公然と話していました。祭司長たちやファリサイ派の人々は、彼らを問い詰めます。「どうして、あの男を連れてこなかったのか」(45節)。下役たちは言い訳をしません。「いやどうしても見つけられませんでした」とか「すんでのところで逃げられました」とか言わないのです。そうではなく、こう答えました。「今まで、あの人のように話した人はいません」(46節)。
 彼らは本来、絶対であるはずの上司、上官の命令に従わなかったのです。その後、罰せられたかも知れませんし、もしかしたら解雇されたかも知れません。しかしそういうことよりも、彼らは自分で正しいと思うことによって判断をしたのです。上官の命令に聴き従うよりは、良心の声に聴き従ったのです。

(5)良心的兵役拒否

 「良心的兵役拒否」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。ベトナム戦争の時にもありましたし、湾岸戦争の時にもありました。今日のイラク戦争でも、当然あります。湾岸戦争の時には、私はちょうどニューヨークにおりました。その時、やはりもともと志願して軍隊に入ったにもかかわらず、「どうしてもこの戦争には賛成できない」として、湾岸に行くことを拒否する兵士たちがいました。兵役に就かなければならないのに、それを拒否すると逮捕され、軍法会議にかけられるのです。これが良心的兵役拒否にあたるものであったかどうかはわかりませんが、そうした人々を、私の学んだユニオン神学校の隣にあったリバーサイド教会は、かくまって保護していました。リバーサイド教会も、湾岸戦争に対して反対の姿勢を貫いていました。「宗教の政治への介入だ」と批判されながらも、教会は教会で、あえてそれが良心に従うことだと判断したのでしょう。
 今日でもアメリカからイラクへ派遣されることを拒否している若者が多数いることや、イスラエルの青年将校たち百数十名が、パレスチナ侵攻にかかわることを拒否する声明を出したことなどが、ニュースなどで報道されていました。そうしたことと、この聖書の下役たちの行動が、私には重なって見えてくるのです。

(6)非難と嘲笑を超えて

 さて下役の話に戻ります。命令に従わなかった下役たちに対して、ファリサイ派の人々は「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」(47〜48節)と言います。きちんとした教育を受けた人間であれば、あんな男に惑わされるはずがないではないか。客観的情報、歴史的知識と常識に照らして、冷静に考えてみれば、そんなことはありえない。そんなこともわからないのは、お前たちに教育がないからだ。そうでないとすれば、魔術にでもかけられているのだろう。そして吐き捨てるように「律法を知らないこの群集は呪われている」(49節)と言い放ちました。
 今日でも似たようなことがあります。「科学を少しでも学んだ者であれば、あるいは歴史を学んだ者であれば、歴史上にあらわれた一人の人間、しかも2000年前にパレスチナ地方の一角にあらわれた男が、神の子であり、救い主であったということは、あるはずがない。そんなことを信じる奴は、科学を知らないからだ。あるいは洗脳されているのだ」。確かに、この世の普通の考えでいけば、そういうことになるのかも知れません。そうした非難、あるいは嘲笑を、信仰者は今日でもしばしば受けています。
 しかし、イエス・キリストという存在は、そうしたこの世の考えを超えて、内側から、ある権威を伴って、本物であるということ、真実であるということを訴えかけてくる。そこで、私たちは、どちらに自分を賭けるべきかが問われるのです。イエス・キリストという方は、それに触れる人に、「この人は一体誰なのか」という問いを投げかけるのです。
 確かに今日の時代、あやしい宗教まがい、マインドコントロール(洗脳)を伴うカルト宗教が流行っていますから、注意しなければならないのは、事実でありましょう。このことについては、今日は詳しくは申しませんが、その信仰が、どのような人を生み出し、育てているかを見ることは大事なことであると思います。

(7)どこから、そしてどこへ

 それではイエス・キリスト自身は、ご自分のことを何と言われたのでしょうか。それを最後に見ていきたいと思います。

「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」(28〜29節)。

 「エルサレムの人々」は、イエス・キリストのルーツについて、「この人がどこの出身か知っている」と言いましたが、それは単にこの地上でのことでした。イエス・キリストは、「それはそうだ」と肯定しながら、「自分がどこから来たのか」について、もっと根源的な話をされたのでした。それは「(父なる)神のもとから遣わされた」ということでありました。
 この地上でのルーツということで言えば、先ほど引用しましたように、この後で「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」(42節)という言葉も出てきます。彼らは、イエス・キリストが、父ヨセフと母マリアの出身地、あるいは「育ち」から言えば、ナザレの出身であるけれども、「生まれ」から言えば、ベツレヘムの出身であったということを知らなかったのでしょう。これは先ほど触れましたミカ書の言葉に合致することです。

「エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」
(ミカ書5:1)。

 私は、ここでもメシアのルーツを、単にベツレヘムとせずに、「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」と記していることに、興味を覚えます。これは、ある意味で非常に神学的な言葉です(コロサイの信徒への手紙1:15〜17参照)。
 イエス・キリストは、「自分がどこから来たのか」についてだけではなく、「どこへ行くのか」についても、語られました。

「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」(33節)。

 (父なる)神のもとから来て、(父なる)神のもとへ帰っていかれたお方、イエス・キリスト。そのお方は、今日も私たちに問いを投げかけ、迫ってこられるのです。
 イエス・キリストは、ある日、弟子たちにこう問われまし
た。

「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。

 弟子たちが、さまざまな答えを披露した後、主イエスは、ずばりお尋ねになります。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。

 シモン・ペトロは、こう答えました。

「あなたはメシア、生ける神の子です」。
(マタイ16:13〜16参照)

 私たちもペトロのように、イエス・キリストを受け入れ、従っていく者となりたいと思います。