川の流れのように

〜ヨハネ福音書講解説教(29)〜
エゼキエル書47章1〜12節
ヨハネ福音書7章37〜52節
2004年1月25日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)美空ひばりの歌

 本日の説教題を「川の流れのように」といたしました。「川の流れのように」と言えば、美空ひばりが52歳で亡くなる直前、1989年に歌った最後のヒット曲の題名でもあります(秋元康作詞、見岳章作曲)。

(当日はここで歌詞全文を紹介しました。)

 「最近、松本牧師は説教中に、突然、歌いだすことがある。今日ももしかして」、とご心配なさった方、歌いませんので、どうぞご安心ください。ちょっと期待なさった方、残念でした。私は、歌謡曲はあまり知らないのですが、この曲は知っております。皆さんの中にもきっとお好きな方があるでしょう。それなりのメッセージも込められております。慌しい時代に生きる私たちに、「そんなに忙しく生きてどうするんだ。もっとゆったりと、穏やかに、生きたらどうか。人生とは川の流れのようなものではないか」と呼びかけております。それぞれ自分の歩んできた道を振り返りながら、なつかしい思いにさせられます。長い人生の中でのよき思い出に立ち返らせてくれる。「人生って、つらいこともあるけれど、いいものだなあ」としみじみと思う。人生を肯定的にとらえ直す気持ちにさせられる。なかなかの名曲だと思います。
 ただ聖書的視点から言うならば、それでいい気持ちになって、現状を肯定して終わってしまうのではどうかな、と思います。そのよき思い出を、単に「よき思い出」で終わらせるのではなく、その中に神様の恵みを数えるような視点が欲しいと思うのです。「あああの時も神様が共にいてくださった。この時も神様が導いてくださった。ありがとうございます」。人生とは確かにとうとうと流れる川のようなものでありましょう。そこに身をまかせて、穏やかに生きることも許されています。しかしどうしてそれが許されるのか、どうしてそれが可能なのかと言えば、それは、私たちの目には、どこへ行くかわからない川のようなものであっても、実は確かに導いてくださっている神様がおられるからなのではないでしょうか。これが、悪魔が導くままに身を任せるのであれば、大変なことになってしまうでありましょう。

(2)恵みが川の流れのように

 さて「川の流れのように」という説教題は、実は今日の聖書のテキストから付けました。それは美空ひばりの歌と、必ずしも同じ意味ではありません。主イエスはこのように言われました。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37〜38節)。

 ここでは人生を川の流れにたとえているのではなく、神様、あるいはイエス・キリストから、「生きた水」が川の流れのようにあふれ出すというのです。それは、私たちを生かす力、恵みです。この力、恵みのことを、福音書記者ヨハネは、"霊"という言葉で呼んでいます。

「イエスは、御自分を信じる人が受けようとしている"霊"について言われたのである」(39節)。

 旧約聖書においても、水はしばしば"霊"の象徴とみなされておりました。創世記の天地創造の記事に、「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2)という言葉がありますが、その水の動きは霊の動きと考えられたのでしょう。ちなみに水に用いられる「注ぐ」という動詞は、同じように"霊"にも用いられました(ヨエル3:1など)。ちょうど水が染み入ってくるように、神様の霊もどんなところにでも入っていく。そしてその霊を受けたものは満たされるのです。命の水です。渇く水ではありません。イエス・キリストは、サマリアの女にこう言われました。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)。

(3)聖書に書いてあるとおり

 さて、ここで「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38節)とあります。「聖書に書いてあるとおり」というのは、旧約聖書のどこか一箇所というよりは、いろんな箇所を指しているのでしょう。これを思い起こさせる箇所を幾つかあげてみたいと思います。
ひとつは、イザヤ書58章11節です。

「主は常にあなたを導き、
焼けつく地であなたの渇きをいやし、
骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、
水の涸れない泉となる」。

 イザヤ書58章は、いわゆる第三イザヤと呼ばれる人によって書かれた部分です。バビロン捕囚後、精神的にも、肉体的にも打ちのめされたイスラエルの人々の心はまさしく砂漠、荒れ野のようなものであったでありましょう。そうした人間に力を与えてくださるというのです。
 またゼカリア書14章には、次のような美しい言葉があります。

「しかし、ただひとつの日が来る。
その日は、主にのみ知られている。
そのときは昼もなければ、夜もなく
夕べになっても光がある。
その日エルサレムから命の水が湧き出て
半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい
夏も冬も流れ続ける。」
(ゼカリア書14:7〜8)

(4)神殿から水があふれ出す

 このヴィジョンをもっと具体的に、数字まであげて描いているのが、先ほど読んでいただいたエゼキエル書47章の言葉です。
 最初に「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した」とあります。エゼキエルは、天使によって、理想のエルサレム神殿の幻を見せられるのです。
 「すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた」と始まります。神殿の下からこんこんと水が湧き出てくる。そしてその水が神殿の東西南北、四方八方に広がっていき、水かさも増していきます。最初、その距離を測ると、1千アンマありました。アンマというのは、指先からひじまでの長さです。45センチとすると、1千アンマは450メートルになります。その時、水かさはエゼキエルのくるぶしまで来ていました(3節)。さらに1千アンマ先に達した時、水かさはひざに達しました。やがて水は腰にまで来て(4節)、その後、水かさはもはや泳がなければ渡ることのできない高さに達し、ひとつの川になります(5節)。エゼキエルはそれをありありと経験させられたのです。それが本物であったのかどうかはわかりません。今日の言葉で言えば、バーチャル空間のようなものであったかも知れません。
 川岸にはたくさんの木が生えてきました。天使はこう言いました。

「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち、汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物が生き返り、魚も非常に多くなる、この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(8〜9節)。

 まさに命の水です。エルサレム神殿から命の水がとうとうと溢れ出し、その水は、汚い水を浄化し、生き物を生き返らせる力があるというのです。最後にこう記されます。

「川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる」
(12節)。

(5)エデンの園の回復

 このヴィジョンは、ただ単にエルサレム神殿の回復、ということに留まらず、エデンの園の回復ということを示しているようです(創世記2:9〜10参照)。
 ちなみに、エゼキエル書47章の預言を受けて、その成就を示しているのが、ヨハネの黙示録であります。

「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや呪われるものは何一つない。」
(黙示録22:1〜3)

 非常に壮大な幻です。イエス・キリストが「聖書に書いてあるとおり」とおっしゃった時、そのような壮大なヴィジョンを心に描いておられたのでしょう。そしてそれは、まさにイエス・キリストによって実現するのだということではないでしょうか。イエス・キリストこそがまことの神殿であったからです(ヨハネ2:21参照)。

(6)祭りのクライマックス

 さてこの言葉が語られたのは、仮庵祭という祭りのクライマックスの時でありました(37節)。お祭りのクライマックスというのは、みんなが喜びに浮かれて、大騒ぎをしている時です。しかしそうした時にこそ、さめた人は、逆にそれに乗れない自分を強く意識するのではないでしょうか。深い魂の渇きがある時には、「自分の渇きは、こんな一時的な騒ぎでは決していやされない。この祭りはやがて過ぎ去ってしまう。そうすれば私の渇きはまた始まる」と、思うでしょう。イエス・キリストは、そのことをよく知っておられました。
 このイエス・キリストの言葉を聞いて、ある人は「この人は、本当にあの預言者だ」と言いました。またある人は、「この人はメシアだ」と言いました。ところが反対に「メシアであるはずがない」と考えた人もありました。祭司長たちやファリサイ派の人々は、何とかしてイエス・キリストを捕らえようとしたのですが、下役たちはそれに応じませんでした。彼らは「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。律法を知らないこの群衆は呪われている」(48〜49節)とののしります。

(7)ニコデモ再登場

 ところが、そこに一人の議員が登場するのです。ニコデモです。彼はこう言いました。

「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決をくだしてはならないことになっているではないか」(31節)。

 祭司長たちやファリサイ派の人々はあせったでしょうね。イエス・キリストを信じるのは無学な群衆ばかりかと思っていたら、最高の教育を受け、律法もよく知っている議員が、理路整然と反論したのです。実は、これにぴったりくる律法は旧約聖書に見当たらないのですが、律法を持ち出すまでもなく、ニコデモは今日でも通用する当然のことを述べたということができるでしょう。立派な意見であると思います。
 彼らは、ニコデモにこう言いました。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者が出ないことがわかる」(52節)。ニコデモは再び黙ってしまいます。ニコデモという人の微妙な心が表れているように、私は思いました。彼は、一度イエス・キリストを訪ねたことがありました(ヨハネ3:1〜2)。「もしかすると、この人こそメシアではないか」と、直感的に察知したのかも知れません。しかし彼は人目を避けて、夜にこっそりと訪ねるのです。今日のところでも、何かしら中途半端な印象を残したまま、この物語は閉じます。しかし彼はやがて、「イエス・キリストの遺体を引き取りたい」とピラトに願い出ることになります(ヨハネ19:39)。他の弟子たちであれば、門前払いか、それどころか逮捕されるところであったでしょう。誰もが尊敬する議員のニコデモであったからこそ、遺体を引き取ることができたのです。神様はこのニコデモを、時間をかけて準備しておられたのではないかと、私は思うのです。「イエスの時はまだ来ていなかった」(30節)と記されていますが、ニコデモの時もまだ満ちていなかったのです。
 イエス・キリストこそが、まことの神殿。このお方につながる者はくめども尽きぬ泉のような命を得ることができる。今日私たちは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28) という招きの言葉を受けて、この礼拝を始めました。そして今、ここから出て行こうとしています。この命の水をそれぞれに携えて出て行きましょう。
 私たちがこれから歩んで行く道は、最初の歌にありましたように、川の流れのようなものであるかも知れません。しかしその川の流れに身を任せるというよりは、その川の流れを導いてくださる神様に身を委ねながら、確かな神様の導き、摂理があることを信じて歩む者でありたいと思います。