本物の迫力

〜ヨハネ福音書講解説教(30)〜
詩編89編31〜36節
ヨハネ福音書7章53〜8章11節
2004年2月1日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)括弧に入れられた話

 本日与えられましたテキストは、ヨハネ福音書第7章53節から8章11節であります。新共同訳聖書では「姦通の女」と題が付けられていますが、全体が〔 〕の中に入れられています。実を言いますと、ヨハネ福音書の写本には、この物語が出ているものと出ていないものがあるのです。この物語は、ヨハネ福音書の他の部分と比べて、文体も使われている語彙もかなり違うものであります。例えば1節に「オリーブ山へ行かれた」とあり、3節には「律法学者たちやファリサイ派の人々」という言葉がありますが、これらはヨハネ福音書の他の部分には出てこない表現であり、むしろ、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書の総称)に特有の言い方であります。また文体や語彙だけではなく、メッセージそのものも共観福音書に、出てきた方がぴったり来るものであるように思えます(罪人の友として歩まれるイエス)。
 ただしそのようなことは、この物語が、実際にイエス・キリストがなさった出来事ではないだろうということではありません。この物語は、かなり早い時期の聖書の写本にも、登場いたします。(2世紀はじめのラテン語聖書にも出ているのです。)ところが、それはこの場所ではなく、ルカ福音書の中(21章38節以下)に置かれていたり、ヨハネ福音書の最後に付け加えられていたりしています。その後の写本で一旦姿を消したりしながら、断片として伝えられていたものが、最終的に、現在のヨハネ福音書8章の最初に置かれたのでしょう。この物語が聖書の中に収められるには、そのような紆余曲折の過程があったのです。

(2)疑わしさを超えて、真実を語る

 どうしてそのようなことが起きたのかと考えると、教会の中に、「このように簡単に罪が赦されてよいのだろうか。特に姦淫の罪は、そう簡単に赦されてはならないのではないか」という疑問があったからではないか思われます。「イエス様がこのように姦淫の罪を赦されたという物語が、聖書の中にあったのでは、示しがつかない」。もっとはっきり言えば、「この物語は困る」という風に考えられたのでしょう。しかしそれと同時に、この物語は、イエス様の真実を伝える物語として、どうしても欠かすことができなかったのでしょう。ありとあらゆる疑わしさを超えたところで、この物語は、内容そのものが本物であることを訴えかけてきたと言えるのではないでしょうか。まさにイエス・キリストならではの話であり、イエス・キリストでしか語りえないことを語っていると思います。イエス・キリストのメッセージそのものが、本物の迫力をもって私たちに迫ってくるのです。皆さんの中にも、この物語を愛しておられる方が何人もおられることでありましょう。この物語は、そのようにイエス・キリストの真実が私たちを揺さぶるのです。

(3)罠が仕掛けられていた

 改めて少し筋を追ってみましょう。
主イエスはエルサレム神殿へ、朝早くやって来られました。大勢の民衆が主イエスのところへやって来たので、主イエスは腰を下ろして、何かを教え始められました。そこへ「律法学者たちやファリサイ派の人々」が、一人の女性を連れて入ってきます。そして主イエスに向かって、こう言いました。

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(4〜5節)。

彼らは、イエス・キリストの判断を仰ぐために、このようなことをしたのではありません。「イエスを試して、訴える口実を得るため」にしたのです(6節)。一種の罠であったのですね。
 この時、イエス・キリストは、一体何の話をしておられたのでしょうか。もしかすると、他の箇所に記されているような愛についての話をしておられたかも知れません。そうしたところへ罠が仕掛けられたのです。ここで、もしもイエス・キリストが「その女をゆるしてやりなさい」とおっしゃれば、「律法を無視するのか」ということになる。そうかと言って「そんな女は石で打ち殺せ」とおっしゃれば、民衆の心がイエス・キリストから離れていってしまう。どちらになっても、彼らにとっては都合のいいことになると考えたのでしょう。
 ちなみにここで、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」とありますが、これにぴったりのモーセの律法というのは、旧約聖書にはありません。一番近いのは、レビ記20章10節の「人の妻と姦淫するもの、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」という言葉でしょう。「モーセの律法」という形で、広げられたものがユダヤ人の間に伝えられていましたので、その中に「石打ちの刑」というのがあったのかも知れません。
 このレビ記の言葉で私が印象深く思うのは、姦淫は、男女が同等に罰せられることが明記されていることです。ところが実際には、姦通という時には、女性ばかりが裁かれることが多かったようです。日本でも戦前には姦通罪というのがあったそうですが、それは女性にだけ適用されたと聞いております。そうした男女差別がここにも入り込んでいるのです。

(4)沈黙のメッセージ

 彼らはイエス・キリストの答を待っています。「どうだ。さあどう答えるか」と、勝ち誇ったように待っていたのではないでしょうか。しかしイエス・キリストはすぐにはお答えになりません。座ったまま、地面に指で、何か書き始められました。興味深いことに、イエス・キリストが何か字を書かれたということが聖書に出てくるのは、このところだけです。イエス・キリストは一体何を書いておられたのでしょうか。あるいは何語で書いておられたのでしょうか。それも興味のあるところですが、書いてありません。
 昔から、聖書の一節、つまり旧約聖書の一節を書いておられたのではないか、と言われてきました。多くの人々が思い起こす聖句の一つは、エレミヤ書17章13節であります。

「あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。
あなたを離れる者は、
地下に行く者として記される。
生ける水の源である主を捨てたからだ」。

 第7章において、主イエスは

「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:38〜39)

とおっしゃいましたが、このエレミヤの言葉は、ちょうどそれを裏返したような言葉であると思います。
 あるいは何を書いておられたかはそれほど重要ではないのかも知れません。まさか「へのへのもへじ」ではないと思いますが、何を書いておられたかということよりも、沈黙そのものに意味があるということも言えるでしょう。私は、むしろこの沈黙にこそ、なにがしかのメッセージを感じます。特に、「姦通の現場を抑えたと言うのであれば、どうして女だけを連れてきたのか。そこに男もいたはずではないか。男の方は、一体どこにいるのか。モーセの律法に従うというのであれば、男と女が同等に裁かれるべきではないか」という抗議を感じるのは、私だけでありましょうか。
 そう言えば、主イエスが十字架にかかられる前、ピラトの裁判を受けられた時も、主イエスはじっと沈黙しておられました(マタイ27:12〜14)。沈黙には沈黙のメッセージがあるのです。

(5)他人の罪、自分の罪

 主イエスは、じっと黙ったまま、何かを書き続けられます。彼らはしつこく問い続けます。主イエスは、とうとう身を起こしてこう言われました。

「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。

 これは、誰も予期していなかった言葉でありました。きっと小さな静かな声であったでしょう。しかしそこには、聞く人に有無を言わせぬ程の迫力、本物のみが持つ迫力がありました。誰もこの言葉に対して、反論することができません。イエス・キリストは、再び腰を下ろして、また地面に何か書き始められました。沈黙が続きます。その間に、今か今かと、主イエスの答を待ち受けていた人々が、だんだんと手を下ろし、一人去り、二人去りして、最後には誰もいなくなってしまいました。
 私たちは他人の欠点、罪、過ちというのはよく見えても、自分自身のことはなかなか見えないものです。見えないにもかかわらず、見えていると思い込んでいる。勝手に自分でもみ消して、ないもののようにしている。自分の罪は棚上げにして、他人を責めて、他人の罪を裁こうとする。ところが一番の問題は、自分自身の中にあるのではないか。そういう問いかけであります。よく言われるように、私たちが誰かを指差して「お前が、お前が」という時には、あとの三本の指は自分自身を指しているのです。イエス・キリストのなさったことは、それに通じるものでありましょう。
 これは、相手の悪いところを改めさせるために何もしてはいけない、忠告してもいけないというようなことではありません。それが本当に通じるためにも、その前にすることがあるではないかということです。相手の罪や負い目を共に担っていくという姿勢において、初めて相手に対する言葉もきちんと聞かれるのだと思います。

(6)年長者からはじめて

「あなたがたの中で罪のない者が」という言葉が、不思議に彼らの心に響きました。彼らの良心を呼び起こしたのです。石を握り締めていた彼らの手が、だんだんと下がっていきました。そういう意味では、このファリサイ派の人々や律法学者たちにも、まだ良心のかけらが残っていたということができるでありましょう。
 ここで「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」いったというのは、興味深いことです。年を経た者ほど、自分の罪のことをよく知っていた、自分には石を投げつける資格がないということを悟っていたということではないでしょうか。そしてその年長者の姿を見て、若い人々も、自分にもその資格がないということを悟っていったのです。

(7)真に裁くことのできる方

 イエス・キリストの言葉は、「あなたにはその資格があるのか」と問いつつ、「本当に彼女を裁くことができるものは誰か」を指し示しています。彼らの中には、その資格のある人は誰もありませんでした。最後に残ったのは、この女性とイエス・キリストだけでありました。
 イエス・キリストは、彼女に問いかけます。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(10節)。

女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。

 罪を裁くことのできる唯一の方がここにおられるのです。そしてそのお方が「私もあなたを罪に定めない」と言われました。イエス・キリストは、ここでこの女の罪を決して水に流してしまったり、もみ消したりしようとしておられるのではありませんし、また逆に律法を否定したり、無視しようとされたりしたのでもありません。律法は律法として、神様の意志は意志として、罪は罪として、厳然と存在する。それをあいまいにすることはできません。罪の赦しということと、罪の是認ということは違うということを心に留めなければならないと思います。

(8)安価な恵みと高価な恵み

 ボンヘッファーという人が「安価な恵み」と「高価な恵み」ということを言いました。罪をそのままでいいというのは、安価な恵みである。イエス・キリストの恵みというのは、そうではない。罪のゆるしというのは、高価な恵みである。そこにはイエス・キリストのわざ、十字架へとつながっていく御業が背後にあるのです。「わたしもあなたを罪に定めない」ということは、実は「その裁きは、私が引き受ける」ということなのです。罪は裁かれなければならないのです。徹底的に罪が裁かれて、その中から赦しの宣告がなされるのです。
 この罪のゆるしの言葉が語られる時、その罪に対して、確かに血が流れている。ところが、不思議なことに、それが彼女の身の上に起こったのではなく、彼女とここで向き合って、身を起こして立ったイエス・キリストの上に起こる。イエス・キリストの十字架の上に血は流されるのです。この時には、イエス・キリストはまだ十字架におかかりになっていません。しかしすでに十字架を見据えておられたのであろうと思います。「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉にはそれだけの重みがあるのです。
 私たちは、クリスチャンとして生きる時に、どちらかと言えば、この「律法学者やファリサイ派の人々」のように、人を裁いてしまうものであります。イエス・キリストは、そのような私たちの思いをも身に引き受けて、間違いをただしながら十字架におかかりくださったのです。そのことを深く心に留めたいと思います。