命の光、掲げて

〜ヨハネ福音書講解説教(31)〜
詩編119編105〜107節
ヨハネ福音書8章12〜20節
2004年2月29日
経堂緑岡教会   牧師 松本 敏之


(1)受難節

 先週の水曜日から、受難節が始まりました。今日は受難節第一主日です。今日から、講壇の掛け布も私のストールも、悔い改めを表す紫色に変わりました。先ほど讃美歌291番(「栄えの主イエスの」)を歌いましたが、この中に次のような歌詞がありました。

「(3)
見よ主のみかしら みてとみあしより
恵みと悲しみ こもごも流るる

(4)
恵みと悲しみ ひとつにとけあい
いばらはまばゆき かんむりと輝く」

 美しい言葉であると思います。受難節というのは、私たちの罪を悲しむと同時に、それであるからこそそこに表れたイエス・キリストの恵み、それがどんなに深いものであるかを想う季節であります。

(2)大きな火が焚かれた場所で

 今日は、ヨハネによる福音書8章の12節以下を読んでいただきました。この箇所は、直接的には7章の終わりから続いています。第7章は仮庵祭という祭りの時の話でした。一度説明いたしましたが、仮庵というのは仮の住まい、仮小屋のことです。掘っ立て小屋のようなものです。このお祭りの時には、家の中庭か屋上に、仮小屋を建てて、そこで寝泊りしたそうです。そのようにして先祖たちの出エジプトの旅を思い起こしたのです。イスラエルの民は、モーセに率いられて、エジプトを脱出した後、40年にわたって、荒れ野を旅することになります。その時に彼らは、荒れ野で仮小屋に住んだのです。
 さてこの仮庵祭の時に、エルサレム神殿の中庭、婦人の庭と呼ばれるところに、4つのたいまつを置いて、火を灯したそうです。仮庵祭の初日に、そこで火が焚かれると、エルサレム中が照らされました。エルサレム神殿は標高800メートルの高台にありましたので、神殿から火が焚かれると、エルサレムの遠いところからでも、それを見ることができました。
 この火を焚くという行事も、やはり出エジプトの旅と関係があります。出エジプト記の中にこういう言葉があります。

「主は彼らに先立って歩み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(出エジプト13:21〜22)。

 仮庵祭の初日から、祭りの間ずっと、エルサレム神殿の中庭に大きな火が灯され続けたというのは、この出来事を記念するためでありました。
 また「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」(20節)とありますが、宝物殿というのは、この婦人の庭にあったのです。つまりイエス・キリストは、まさにこの大きな火が赤々と燃やされていたところで、次のように語られたのでした。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)。

 それは、彼らが、かつて彼らの先祖を、神様が昼も夜も迷うことのないように、確かに導いてくださったことを覚える場所でありました。その祭りのその場所で、イエス・キリストは「わたしは世の光である」と語られたのです。「かつて荒れ野で、神様は火の柱でもって、イスラエルの民を導いてくださったけれども、今は、わたしが世の光としてあなたがたのところへ来たのだ。わたしに従ってきなさい。それはあの火の柱よりも確かな道しるべだ。わたしに従って来る者は決して暗闇の中を歩かない。わたしは命の光だからだ」。この話を聞いていた人々の中には、自分たちの上方に赤々と燃えている火を見ながら、「ああそうであったのか。今わかった」と思った人々もいたでありましょう。

(3)誰か証人がいるのか

 しかしみんながそう思ったわけではありませんでした。かちんときて、「こいつは何を寝ぼけたことを言っているのだ。自分を何様だと思っているのか」と思った人々もいたのです。ファリサイ派の人々は、こう言いました。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」(13節)。「自分で言っているだけならば、信用できない。他に誰か証人がいるか」ということです。彼らの批判は一般論としては当たっております。今日の幾つかのあやしいカルト宗教の教祖も、「自分こそ救い主だ」と言います。あるいは「メシアだ。キリストの再来だ」と言う者もあります。それをそのまま信用したら、とんでもないことになるでしょう。
 宗教的事柄に限りません。新聞を読んでいても、雑誌を読んでいても、それが記事なのか、宣伝・広告なのかで、私たちは自然と違った読み方をしております。記事であれば、ある程度の客観性をもって、誰か第三者が書いている。まあまあ信用できる。広告ならば、本人、あるいは会社が書いている。ただ最近は、広告なのか記事なのか、紛らわしいページが増えています。「いいことが書いてあるなあ」と思って読んでいると、上の方に「広告のページ」とあって、「なんだ、宣伝か」と思うことがあります。自分で自分について言う分には、何とでも言えるわけです。ですから、ファリサイ派の人々の批判は一般論としては当たっているでしょう。しかしイエス・キリストの場合はどうだろうかということを考えたいのです。イエス・キリストは、それを十分承知しながら、あえて別の次元のことを言っておられるのではないでしょうか

(4)主イエスご自身の口から

 主イエスは彼らの表面的な要求に対して、その証人を出そうと思えば、できたでありましょう。最も代表的な証人は洗礼者ヨハネです。彼は、イエス・キリストの証し人として、この世に遣わされた人でありました。まさにそのことこそが彼の使命でありました(ヨハネ1:6〜7等参照)。
 また今日の私たちにしてみれば、「イエス・キリストが世の光である」という大勢の証人がいます。ヘブライ人への手紙の著者の言葉を借りれば、それこそ「多くの証人に雲のように囲まれて」います(12:1、口語訳)。しかしイエス・キリストはあえて、そのような道、つまり「自分の他にも人間の証人がいるよ」という道をとりませんでした。
 確かに証人は、まわりからイエス・キリストを浮き上がらせてくれます。しかしまだ不十分です。私たちはイエス・キリストについて何百人、何千人の証しを聞いても、まだイエス・キリストがどのような方であるかということは、間接的にしかわからないわけです。ですからイエス・キリストは、そのような人間の証人を示すよりも、もっと大事なこと、自分で、自分が誰であるかを語られたのです。イエス・キリストについての証しも、それを前提にして初めて意味をもってくるのだと思います。イエス・キリストは、ご自分の口から「わたしは世の光である」と、はっきりと語られました。この宣言を聞くことは、他の何百人、何千人の証しを聞く以上の意味があるのではないでしょうか。

(5)突き放した言葉

 イエス・キリストは、ファリサイ派の人々の批判に対して、次のように答えられました。

「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかしあなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」(14節)。

 このイエス・キリストの言葉は、ファリサイ派の人々を突き放したような言葉です。
 また「わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(18節)とも言われます。もしも二人の証人が必要だと言うなら、私と父なる神で合計二人になるということです。
 私は、このイエス・キリストの言葉が、どれほど彼らの質問、あるいは論理に合致しているかということは、あまり意味がないように思います。これは答と言うより、宣言として聞いた方がいいでしょう。彼らにしてみれば、イエス・キリストの言葉は、何の答にもなっていなかったでしょう。彼らは、この言葉を聞いた瞬間、怒る前に、皮肉って、あざ笑いながら、「それじゃあなたの父はどこにいるのか」(19節)と言いました。彼らはイエス・キリストのこの世での父親のことを指して言ったのでしょう。あるいは「父なる神」のことだとしても「証人というならば、連れてきてみろ」ということかも知れません。
 主イエスは、こう答えます。

「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っているはずだ」(19節)。

 彼らは、自分たちこそ、神の意思をこの世で代行しているのだと自負していましたので、主イエスの答は、むしろ彼らの怒りの火に油を注いだようなものでした。かーっときたに違いありません。しかし彼らはイエス・キリストを捕らえることができません。それは「イエスの時がまだ来ていなかったから」(20節)でした。

(6)世を照らす光

 さてファリサイ派の人々の質問は、非常に浅薄で、いわば愚問のようなものですが、それを用いながら、イエス・キリストは、ご自分が誰であるかを、語ってくださいました。それは時代を超えて、私たちにも響いてきます。その意味で、「わたしは世の光である」というイエス・キリストの言葉に、もう少し集中してみたいと思うのです。
 「世の光」というのは、やはり最も大事なこととして、「世を照らす光」ということでしょう。ヨハネ福音書は「初めに言(ことば)があった」という言葉で始まりますが、そのあとで、「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(1:4〜5)とあります。あるいは「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1:9)と書いてあります。イエス・キリストこそ、この世を照らす光、道しるべであります。かつてイスラエルの民は、荒れ野で迷うことがないように、火の柱という光が与えられました。「こちらが進むべき道だ。」彼らはそれに従って行ったわけです。それと同じように、あるいはもっと確かな仕方で、イエス・キリストは、光として私たちの行く道を照らしてくださるのです。
 イエス・キリストの行いや言葉は、私たちには聖書を通して示されています。ですから聖書こそがイエス・キリストの光を映し出している。聖書こそが光であるということができるでしょう。
 詩編119編に「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らすともしび」とあります(詩編119:105)。

(7)世を裁く光

 「世の光」は、「世を照らす光」であると同時に、「世を裁く光」でもあると思います。私たちは、光を求めると同時に、光を恐れます。光は私たちの暗い部分、罪の部分を汚れた部分、闇の部分をも、否応なく照らし出すものであるからです。光は裁きを伴っているのです。
 この8章の最初には「姦通の女」と題される話がありましたが、この話こそまさに、イエス・キリストが光として来られたということ、それは裁きと救いを同時にもたらす光であったということを示しているのではないでしょうか。イエス・キリストは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)と言われました。この言葉は、彼らの内面の暗い部分を、明るみに出す裁きの力を持っていました。しかしイエス・キリストは最後に、この女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)と言われます。これはイエス・キリストの言葉が、裁きとしての光で終わらす、その向こうに道が開けていることを示す光であったことを、よく示していると思います。

(8)受難をも知っておられた

 今日の聖書の箇所で、イエス・キリストが「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている」と語っておられます。これは、もちろん自分が父なる神のふところから、この世界にやってきて、やがてまた父なる神のもとへ帰るということを指し示していますが、イエス・キリストは、その前に「苦しみを受け、十字架にかかって死ななければならない」ということも知っておられたに違いない、と思いました。そういうお方であるからこそ、まことの世の光なのだと思います。「イエス・キリストは世の光としてこの世に来られた」というのは、クリスマスの大きなメッセージでありますが、それは最後の十字架をも含んでいることなのです。イエス・キリストは、私たちの罪をそのような形で担っていてくださるからこそ、裁きでは終わらない、救いをも指し示している、まことの人生の道しるべとしての光であるということを心に留めたいと思います。受難節、40日の間、特にそうしたことを覚えながら、命の光を高く掲げながら、過ごしていきましょう。