「私はある」という方

〜ヨハネ福音書講解説教(32)〜
イザヤ書43章1〜3節a
ヨハネ福音書8章20〜30節
2004年3月7日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)厳しい言葉

 受難節第二主日を迎えました。受難節は、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、苦しみを受け、死なれたことを覚える季節です。それゆえ、私たちが自分の罪を深く覚え、悔い改める季節ですし、同時にイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちが救いに入れられた恵みを感謝する季節でもあります。
 私たちは今、ヨハネ福音書の8章を続けて読んでおります。やや難解に見える言葉であるかも知れませんが、この季節にふさわしい、味わい深い御言葉が与えられたと思います。
 今日の箇所で、まず私の目に飛び込んできたのは、21節の「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉でありました。この言葉は、24節で、更に2回繰り返されています。

「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(24節)。

 何か私たちを不安にさせる言葉ではないでしょうか。
 しかし私たちは、このことは聖書が私たちに突きつけている厳しい現実であるということを、心に留めなければならないでありましょう。このことがわからないでは、受難節の恵みも、本当には一体何が恵みであるのかがわからないのです。パウロも、ヨハネがこのように言ったのと同じことをローマの信徒への手紙の中で言っております。それは「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)という言葉です。

(2)聖書が言う「死」と「いのち」

 聖書が言う「死」というのは、必ずしも肉体的な死ということではありません。もちろんそれと無関係であるわけでもありませんが、聖書が「死」と呼ぶのは、肉体的な「死」よりももっと根源的な死であります。一体それがどういう状態であるのかは、それと反対の「いのち」について考えるのがいいでしょう。聖書が「いのち」と呼ぶのは、あるいは「生きている」というのは、神様とつながっている状態のことです。そこからすると、「死」というのは、神様から切り離された状態であるということがわかります。私たちが恐れるべき「死」とは、まさにこの状態のことであって、この神様から切り離された状態、その「死」の状態から救いの道をつけるために、イエス・キリストは十字架におかかりになったのです。

「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25)

 という有名な言葉も、「生きる」とは神様とつながっていること、「死ぬ」とは神様から切り離されていることと理解すれば、よくわかるのではないでしょうか。
 「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」(21節、24節)という言葉は、私たちを不安にさせますが、注意深く24節の前後を読めば、どうすればそうならないかということも、わかります。

(3)下に属する、上に属する

 先ほどの24節の方は、「だから」という言葉で始まっていました。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである」。ですからこの前に大事なことが書いてあるのです。「イエスは彼らに言われた。『あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない』」。ここで「下に属する」「上に属する」という表現が出てきます。この言葉を理解するには、更にその前の節から見た方がいいでしょう。主イエスが「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが……わたしの行く所に、あなたたちは来ることはできない」とおっしゃったことに対して、ユダヤ人たちは「自殺でもするつもりなのだろうか」と言いました。当時自殺者は、地獄の最も悲惨な陰府へ下ると考えられていました。「確かに、自殺をするのであれば、私たちはいくらお前を捜しても捜すことはできない。この世のどこを捜しても見つからないし、ましてや遠い陰府へ行ってしまうのだから」ということなのでしょう。ここでは自殺した者が行く国は「下に属する」「下も下、一番下に属する」ということが前提になっています。そして彼ら自身は、普通の人間よりも「上に属している」「神に属している」と信じていました。
 そうした彼らの皮肉か嘲笑のような言葉を逆手にとって、主イエスは「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」と言われたのです。前の口語訳聖書では「わたしはこの世の者ではない」と訳されていました。
 (ちなみに、ある女子高生が、夜、暗がりで痴漢に襲われそうになった時に、学校で習った聖書の言葉を思い出して、勇気を出して「わたしはこの世の者ではない」と言いました。そうすると、痴漢が気味悪がって去っていったそうです。本当か嘘かわかりませんけれども。たぶん嘘でしょう。そういう話を聞いたことがあります。)
 誰もイエス・キリストのところへ行くことができないのは、イエス・キリストが下に属するようになる(陰府にくだる)からではなく、上に属するお方、この世に属するのではないからだということです。
 ところがあなたたちはそうではない。だから「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃったのです。ですから、これをひっくり返して言えば、この「上に属する方」、イエス・キリストに連なることによって、道が開けてくるということです。確かに私たちはこの世の中を歩み、下に属するものでありながら、同時に上に属することを許されるのです。そして聖書は、確かに私たちがそういう者であることを語り続けております。

(4)天の国籍

 パウロはそのことを別の言葉で、「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と言いました。口語訳聖書では、「わたしたちの国籍は天にある」となっておりました。この方がわかりやすいかも知れません。わたしたちは、今は、この世、この地上を生きていますけれども、それは言わば外国人として寄留しているようなものだ。本当の国籍は別の国、天の国にある。だからあちらの国籍をもっている。天国のシチズンシップをもっている。天国の市民権をもっている。天国のパスポートを持っているということです。
 私たちはこの世で生きている限り、ある意味でこの世に束縛されて、この世の法則(科学など)の中で、あるいはこの世のしがらみの中で生きています。またこの世で生きている限り、当然、この世のルールを守って生きなければなりません。しかしそのような中で、寄留者のように、外国人のようにして生きているのです。
 それは二重国籍というのとも、ちょっと違うと思います。二重国籍というのは便利ですね。うちの息子も二重国籍をもっていますが、あっちの国に入る時はあっちのパスポートを見せて、こっちの国に入る時はこっちのパスポートを見せる。ただし天国とこの世では必ずしもそううまくはいきません。そういう風にうまく使い分けているかのように見えるクリスチャンもありますが……。ある時はクリスチャンとして、ある時はクリスチャンでないかのようにして生きている人もあります。もちろんクリスチャンに対する偏見のあるところで、「そうじゃないクリスチャンもいるんだよ」と証しをするのはいいかも知れません。しかしクリスチャンであることを隠すことによって、この世を生き延びるような生き方は、それはどこかで自己分裂してしまうのではないでしょうか。あるいはそのようなダブルスタンダードに自分で気づかないこともあるかも知れません。そうした生き方は、本質的にはこの世に属しているのではないかという気がします。これは微妙なところです。確かにどちらでもいいところでは蛇のように賢く生き抜きながら、肝心のところでは鳩のような素直さ(率直さ、真っ直ぐさ)が求められるのであろうと思います(マタイ10:16参照)。私自身、自戒の念を込めて、そう思うのです。
 しかしそのように命の根源であるイエス・キリストに連なる時に、私たちも上に属する者とされる。天の国籍が保証される。上のものへの道が開かれるのです。これが一つ目であります。

(5)「わたしはある」

 さて24節の二つ目の「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉には、ある条件が付けられています。「『わたしはある』ということを信じないならば」。ここにも救いへの道が間接的に示されているのではないでしょうか。この文章をひっくり返して読めば、「『わたしはある』ということを信じることの中に、自分の罪のうちに死なない道がある」ということになるでしょう。その救いへの道とは、イエス・キリストが「わたしはある」というお方であるということです。
 この言葉は、実はヨハネ福音書に何度も出てくる「エゴー・エイミ」というギリシャ語です。そのまま英語に訳せば、「I am」という言葉です。ただし他のところでは、さまざまな補語がついています。つまり「私は世の光である」とか、「私は復活であり、命である」とか、「私はよき羊飼いである」とか、何かしらの説明があるのです。ところがここでは困ったことに「エゴー・エイミ」(I am)だけです。前の口語訳聖書では、言葉を補って「わたしがそのようなものであることを信じないならば」と訳していましたが、この新共同訳聖書では、そうした補いをせずに、そのまま「わたしはある」と訳しました。私はこちらの方が奥深い言葉であるように思いました。新共同訳聖書は大胆な訳をしたなと思います。「私はある」「私は存在する」ということです。この言葉には、旧約聖書の伝統を背景にした言葉です。

(6)モーセに告げられた神の名

 出エジプト記の第3章に、これと同じ「わたしはある」という言葉が出てまいります。神様がモーセを出エジプトの指導者として立てる場面です。モーセはその召しを一旦引き受けた後も、「私がイスラエルの人々のところへ行くと、「彼らは『その(神の)名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(出エジプト3:13)と食い下がりました。神様はモーセに答えられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)。これが、神様ご自身がモーセに明かされた神様の名前でありました。この言葉は、「存在の根源である」とか、「いつの時代もある」とか、いろんな意味があります。神様の名前ヤハウェというのが、実はこの「わたしはある」という意味なのです。
 この神様がご自分の方からモーセにあらわされた名前、「わたしはある」という名前をイエス・キリストが、ご自分のこととして語っておられる。これは非常に意味深いことではないでしょうか。
 イエス・キリストは「わたしはある」とおっしゃった。私たちが生きている世界は、「神様が果たしておられるのだろうか」と、問わざるを得ないような世界です。そう感じる出来事が次から次へと起こります。本当の支配者はおられないのではないか。いや別のもっと恐ろしい何かしら悪い支配者がいるのかも知れない、とさえ思う時があります。そうした中で、イエス・キリストが「わたしはある」と宣言してくださることそのものの中に、大きな励ましと慰めがあるのではないでしょうか。
 あるいは私たち自身、自分の人生を省みる時にも、「神様は本当におられるのだろうか」と問わざるを得ない時があります。そこでも神様は「わたしはある」とおっしゃってくださる。イエス・キリストもそれを受けて、「わたしはある」とおっしゃってくださるのです。

(7)どんな時にも共にいる

 先ほど読んでいただいたイザヤ書に、こう記されています。

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るとも、
わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、
あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず、
炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主」
(イザヤ書43:1〜3a)。

 これから私たちは聖餐式をいたします。聖餐式というのは、まさしく「わたしはある」というお方が共にいてくださるしるしであります。このパンと共に、イエス・キリストは確かにいてくださり、この杯と共に確かに、イエス・キリストは臨在してくださるのです。これを受けて、キリストが私たちの中に宿り、共にいてくださることを信じてまいりましょう。