自由をもたらす方

〜ヨハネ福音書講解説教(33)〜
イザヤ書53章11節
ヨハネ福音書8章31〜47節
2004年3月14日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)国立国会図書館の理念

 今朝、与えられた御言葉の中に、「真理はあなたたちを自由にする」(32節)という言葉があります。この言葉は、ヨハネ福音書の中でも有名な言葉の一つであります。『聖書名言集』というようなものには、必ず入れられるものでしょう。ただしもしかすると教会の中よりも、外において有名であるかも知れません。最もよく知られているものとしては、国立国会図書館に刻まれている「真理がわれらを自由にする」という言葉があります。
 国会図書館のホームページには、次のように記されています。「国立国会図書館は昭和23年に公布された国立国会図書館法前文にあるように、『真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和のために寄与することを使命として』設立されました。この言葉は国立国会図書館設立の基本理念といえます。」
 この国立国会図書館の理念である「真理がわれらを自由にする」という言葉は、元の聖書の言葉と、微妙違っています。聖書では、「あなたたちを」となっているのに、こちらは「われらを」となっているのです。これは国立国会図書館法の起草にかかわった羽仁五郎という人がドイツ留学中にフライブルク図書館の銘文として記憶していた言葉であり、彼の記憶違いか、あるいはあえてそれを書き換えたものか、どちらかでありましょう。もっとも国会図書館には、日本語と一緒に聖書のオリジナルのギリシャ語も記されていて、ギリシャ語の方は、どういうわけか、聖書どおり「あなたたち」となっています。聖書が「あなたたち」と言っているものを、「わたしたち」と置き換えている。私は、この違いはかなり決定的であるような気がしました。

(2)「あなたたち」か「わたしたち」か

 この「あなたたち」と「わたしたち」の違いに注目してみますと、聖書の方は、あくまでイエス・キリストの言葉として書かれている。イエス・キリストは、私たちに向かって、「あなたたち」と呼びかける他者です。しかも人格的存在です。それを「わたしたち」と言い換えてしまう時に、そのような人格的他者として、私たちに向かって呼びかける方の存在がぼやけ、見えなくなってしまうように思います。
 またそのことによって、「真理」という言葉が、意味する内容まで変わってくるのではないでしょうか。もちろん国会図書館が理念とする「真理」というのがキリスト教の真理であっては困りますので、わざとそうしたのかも知れません。図書館が言うところの「真理」とは、宗教的な事柄ではなく、学問によって到達する一般的真理、あるいは哲学的真理、科学的真理、数学的真理のような事柄でありましょう。
 しかし聖書の方は、必ずしもそういうことではありません。この聖書の言葉の前後をもう一度読んでみましょう。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31〜32節)。

 本当にイエス・キリストの弟子になる時に、私たちは真理を知るようになるのだということが告げられ、そしてキリストの弟子として真理を知るようになれば、その真理が私たちを自由にしてくれる、というのです。それが、本来の意味です。ですから、この言葉は有名であるにもかかわらず、いささか聖書本来の意味と違って理解され、流布していると思いました。

(3)真理とは何か

 「真理とは何か」ということは、私たち人間の究極の問いでありましょう。だからそれに到達することと自由になることが深く結びついているのです。「真理とは何か」という問いは、実はイエス・キリストの裁判で、ポンテオ・ピラトも口にいたしました。イエス・キリストが「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と語られた時に、ピラトは「真理とは何か」(ヨハネ18:38)と問いました。これはイエス・キリストに教えを乞う為に尋ねたのではないでしょう。あざ笑ったような言葉です。独り言であったかも知れません。しかしこのピラトの問いは、この歴史を貫いて、私たち人間がずっともち続けた問いです。今日も、そして将来にわたって、私たちは生きている限り、「真理とは何か」という問いを発し続けているということもできるでしょう。
 聖書は、この問いに何と答えているのでしょうか。イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と告げられました。あなたたちは「真理とは何か」と捜し求めているが、このイエス・キリストのもとにこそ真理がある。「この人を見よ」「この人の言葉のもとに留まれ。そこにこそ真理がある」「いやこの方こそ真理そのものだ」と、聖書は語るのです。

(4)ボンヘッファーの「愛」の理解

 このことを考えておりまして、私はボンヘッファーが「愛」について語っている言葉を思い起こしました。ボンヘッファーは「神は愛である」という言葉を、こういう風に注解しております。私たちは、愛についてのなにがしかの概念をもっています。男女の愛、親の子に対する愛、博愛主義の愛。しかしそうした愛についての一般的概念から始めて、それを神様にあてはめてみても、「神は愛である」ということは決してわからないというのです。むしろ「愛である」という述語ではなく、「神は」という主語から始めなければならない。神様の中に「愛」を理解するヒントがある。神が一体何をしてくださったか、神がイエス・キリストを通して、私たちに何をしてくださったか、そこにこそ愛の原形がある。それを知らないでは、私たちは愛を知らなかったというのです。その出来事を通して、私たちは初めて愛とは何であるかを知るのです。これはとても大事なことを語っていると思います。
 ヨハネの手紙一には、こうに記されています。

「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Tヨハネ3:7〜10)。

 そしてこう続けます。

「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(Tヨハネ3:11)。

 この出来事を示されないでは、「互いに愛し合うべきです」という言葉も、よくわからないし、むなしいのです。

(5)キリストこそ「真理」

 話は広がりましたが、私は「真理」ということについても、このボンヘッファーの愛についての理解が役に立つのではないか、と思いました。私たちは「真理とは何か」と尋ね求めます。学問をして、探求をして、真理に到達できると考えているかも知れませんが、むしろ聖書が告げている大事なことは、イエス・キリストが「わたしは真理である」とおっしゃったことです。イエス・キリストがなさったこと、そしてイエス・キリストの語られたことの中に「真理とは何か」ということを理解するヒントがある。ですから私は、聖書がいう真理とは、先ほどの「愛」ということに非常に似ているのではないかと思います。イエス・キリストが「真理を伝えるためにこの世に来た」ということは、内容的に言えば、まさに「神様の愛を伝えるためにこの世へ来た」というのと同じことを指しているのでしょう。そこで示されている真理というのは、何か一般的な法則のようなものではありません。むしろ十字架を通して、神様が私たちに何をしてくださったのか。その出来事にあらわされた真理こそが、私たちを自由にする。聖書は、そう告げるのです。

(6)罪、死、固定観念からの自由

 それでは、この「真理」は、私たちを一体、何から自由にしてくれるのでしょうか。第一は「罪から自由にされる」ということでしょう(34節参照)。イエス・キリストにつながらないでは、私たちは罪の奴隷であった。しかしながら、イエス・キリストを受け入れる時に、そうした罪から解放されるのだというのです。
 第二は、「死から自由にされる」ということです(51節参照)。イエス・キリストにつながる時、私たちは決して死ぬことがないと、約束されているのです。
 さらに、悪しき伝統や固定観念からの自由ということもあるでしょう。
 イエス・キリストがここで向き合っておられるユダヤ人たちには、イエス・キリストの言葉や行為が、自分たちの伝統から逸脱しているように思えました。彼らのこれまでの考え方が、金科玉条のようになってしまい、がちがちに身動きが取れなくなってしまっている。「真理」というのは、本当はそうした状態から自由にしてくれるものなのです。
 ただし「イエスは御自分を信じたユダヤ人たちに語られた」(31節)にもかかわらず、すぐその後で、主イエスは、「あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」(37節)と語られました。彼らは主イエスの言葉によって自由になるよりも、かえって頑なになってしまったのでした。
 しかしそのことを考える時に、クリスチャンもまた誤った解釈に囚われてきたことを知っておかなければならないと思います。キリスト教会は、この2000年の間、このような聖書の言葉から、「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ」という根強い反ユダヤ主義を培ってきたのです。

(7)映画「パッション」

 最近、アメリカでイエス・キリストの受難を描いた『パッション』という映画が公開されました(メル・ギブソン監督)。イエス・キリストが十字架にかかる前の12時間を克明に、非常にリアルに描いた映画だそうです。日本では5月公開予定ということで、私もまだ観ていませんが、アメリカでは、これまでの受難映画ではなかった程の騒然たる議論を巻き起こしています。イエス・キリストを鞭打つシーンが延々と15分間も流れたりするなど、とにかく非常に残虐なシーンが目立つとのこと。しかし一番問題とされているのは、この映画では「ユダヤ人がイエス・キリストを殺した」ということが極端にクローズアップされていることであり、「反ユダヤ主義をあおりかねない」という抗議が相次いでいます。
 私たちは慎重に考えてみなければなりません。キリスト教会は、実はこの2000年の間、「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ」ということをずっと悪意をもって語ってきたのです。20世紀に起きたアウシュヴィッツの悲劇というのも、ヨーロッパのポーランドの一角で偶然起こったのではなく、キリスト教文明の中だからこそ、キリスト教文明であるがゆえに、起こるべくして起こった悲劇でありました。
 そうしたことを考えあわせますと、イエス・キリストがユダヤ人に向かって「あなたたちはわたしを殺そうとしている」と語られた言葉をどう理解すべきか。私は、イエス・キリストは、ここで自分の属するコミュニティーを批判されたのだということを見落としてはならないと思うのです。その外に立って、「あいつらは悪いやつだ」と言われたのではない。イエス・キリストご自身もユダヤ人でありました。いわば自己批判の一環です。ですからクリスチャンが自分を抜きにして、ユダヤ人を他人として見ながら、「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ」というならば、大きな思い違いをすることになってしまうでしょう。(自分の属するコミュニティーということで言えば、「教会がイエス・キリストを殺した」というようなことなのです。)
 イエス・キリストによって自由にされるということは、これまで当たり前のように考えていたことからも解き放たれて、真理に近づく。神様の御心に近づくということを意味しているだろうと思います。

(8)十字架の言葉

 今日、私たちは招詞として、

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Tコリント1:18)

 という言葉を聞きました。
 「十字架の言葉」というのは、イエス・キリストが自分の罪のために死んでくださったということです。ただそれだけのことであります。それは学問的なことから言っても、一般的なことから言っても通用するような真理ではないでしょう。しかしパウロは言いました。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(Tコリント1:26)。愚かに見える聖書の言葉ですが、そこにたたえられた真理によって、真の自由をいただく者でありたいと思います。あるいはまた私たちが、キリスト教の間違った理解に囚われていることがあれば、新しく御言葉を聞くことによって、そこからも自由にされていきたいと思います。