アブラハムとイエス

〜ヨハネ福音書講解説教(34)〜
創世記22章1〜14節
ヨハネ福音書8章48〜59節
2004年3月28日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)アブラハムの子孫?

 これまでヨハネ福音書の第8章を読んできましたが、今日はその最後の部分です。今日は、前回のテキストにもさかのぼりながら、イエス・キリストとアブラハムの関係に焦点をおいて、お話したいと思います。
 イエス・キリストが「わたしの言葉にとどまるならば、……あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31〜32節)とおっしゃった時に、ユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」(33節)と答えました。それに対してイエス・キリストは、まず「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている」と言われます。これは表面的な意味です。それに続けて、

「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理を語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった」(39〜40節)

 と答えられました。
 「あなたたちがアブラハムの子孫であるというのは、単なる名目ではないか」と問われたのです。「実質を伴っていない。アブラハムの子孫だと言いながら、アブラハムの意に反することをやろうとしている。もしも今、アブラハムが生きていたら、決してそんなことはしなかったはずだ。」

(2)信仰の父、アブラハム

 アブラハムは「信仰の父」と呼ばれるイスラエルの父祖です(創世記12章〜24章参照)。アブラハムは、聖書の中で、歴史に痕跡を残す最古の人物です。それ以前のアダム、エバ、カイン、アベル、ノアという人物は、歴史上というより、神話上の人物です。アブラハムも確かなことはよくわからないのですが、それらしき人物は確かにいた。その人をイスラエルの人々は、自分たちの信仰の父祖だと考えたのです。
 彼はある日、神様の声を聞きました。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたの名を高める」(創世記12:1〜2)。

 彼はその声に聞きしたがって、行き先を知らないで出発をしました(ヘブライ11:8)。ここにまず、信仰の原型があります。信仰とは、行き先を知らないまま、神様が必ず導いてくださるという約束を信じて、聞き従っていくようなものだからです。
 それから神様はある夜、アブラハムに星のきらめく夜空を見せながら、「あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)と約束されました。アブラハムはそれを信じました。ここにも彼の信仰があります。ところが、自分の妻サラにはいっこうに子どもが与えられる気配もありません。お互いに歳をとってしまいました。そこで一時、不信仰からサラの女奴隷ハガルによって、子どもを得ることになるのですが、話が広がり過ぎますので、今日は省略いたします。アブラハムとサラ夫婦の間に、ようやく念願の子どもが与えられました。神様は自分たちに「笑い」(喜び)をお与えくださったということで、彼らはその子どもに「イサク」(笑い)と名づけました。
 ところがアブラハムは、神様から最大の信仰の試練を受けることになります。「お前の最愛の息子イサクを犠牲の捧げものとして、わたしに捧げなさい」。究極のところで、「息子と私とどちらが大事にするのか」という問いを突きつけられたのです。それが今日、読んでいただいた創世記22章の物語です。

「アブラハムよ」、
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)。

 彼はそれを聞いて非常に驚きました。悶々と悩み苦しみました。しかしながら、最後には決然と、神様の命令に従っていくのです。山の上で、イサクを捧げるために殺そうとした、その瞬間、神様の声が聞こえてきます。

「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(創世記22:12)。

 「もうそれで十分だ」。アブラハムが目を凝らしてみると、一匹の雄羊が、後ろの方に見えました。アブラハムは神様に感謝をささげて、その雄羊を捧げます。その場所はやがて「主の山に備えあり」(ヤーウェ・イルエ)と呼ばれるようになりました。そこまでして、神様に忠実であろうとしたのです。

(3)ユダヤ人たちとアブラハムの関係

 今日の箇所に戻りましょう。ユダヤ人たちが「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエス・キリストはこう答えられました。

「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった」(39〜40節)。

 イエス・キリストは、さらにこう言われました。「あなたたちは自分の父と同じ業をしている」(41節)。これはちょっとひねりがあります。「あなた方の行動からすれば、アブラハム以外に、別の父がいるのだろう」という含みがあるのです。彼らはそこで、かちんときたことでしょう。「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(41節)。この言葉は自分たちに対する侮辱への否定であると同時に、イエス・キリストへの攻撃にもなっていたと思われます。というのは、この当時からすでに、イエス・キリストは、マリアがヨセフと結婚する前、婚約中に生まれた、いわば私生児である、姦淫によって生まれた子どもであるという評判があったからです。「お前こそ、姦淫の子だろう」と、彼らにしてみれば、売り言葉に買い言葉のような形で、言い返したのです。

(4)「サマリア人」と呼ぶ差別

 そうしたやり取りが続くうちに、彼らはついにこういうのです。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」(48節)。突然、サマリア人という言葉が出てまいりますが、イエス・キリストはサマリア人ではありません。この言葉の背景には、ユダヤ人たちのサマリア人に対する偏見と差別があります。ユダヤ人たちは、「自分たちは純血だ。サマリア人の血は異教徒の血と混ざって、汚れている」と考えていました。人を悪く言うのに、言葉が思いつかないで、「このサマリア人め」と言ったのです。
 さらに、

「わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」(53節)

 と責め立てます。「アブラハムよりも偉大な人がいるわけはないではないか。それこそ、お前が神を冒涜している決定的な証拠だ」。

(5)「わたしの日を見た」

 ところがそうした言葉を受け止めながら、イエス・キリストはこう言われる。

「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て、喜んだのである」(56節)。

 これは少しわかりにくい言葉であるかも知れません。特に「それを見て喜んだ」というのは、解釈が分かれるところです。一つの解釈は、「アブラハムは、まだこの地上で生きていた時に、信仰のヴィジョンとして来るべきメシアを見ることが許された。そういう形で、それを見て喜んだ」、というものです。もう一つは、「アブラハムはこの地上ではすでに死んでいるけれども、今も天にあって生きている。そして天から、イエス・キリストが、この時地上で行っていることを見て、喜んでいるのだ」、という解釈です。これはどちらもそれなりに意味のある解釈です。どちらかに決める必要もないでしょう。
 イエス・キリストは、昨日も、今日も、そして明日も、とこしえにいますお方、あの時もおられたし、今もおられる。アブラハムはイエス・キリストの時代から1800年位前に生きた人でありますが、イエス・キリストはアブラハムの時代もすでに存在しておられた。いや天地創造の時から存在しておられて、父なる神様の傍らにあって、この天地創造のわざに加わられた、というのが聖書の信仰です。そして天と地を結んでくださっているのです。私たちはその方のゆえに天を仰いで生きることが許されています。

(6)天国での再会

 今日私たちは、この後、召天者記念の祈りの時を持とうとしています。私たちは、やがて天の国において、先に天に召された、愛する人たちとあいまみえるという約束を心に持っております。召天者を記念するということは、いわばそれを前倒しのようにして、約束を喜ぶ瞬間が与えられているということではないでしょうか。
 天国の小話にこういうのがあります。カール・バルトが語ったとされています。「ある熱心なクリスチャンである婦人がカール・バルトに尋ねました。『バルト先生、私たちがやがて天の国で愛する人たちと再会することができるという約束は本当でしょうか。』そうすると、バルトは真剣な顔つきで、こう答えました。『本当です。間違いない。確かに愛する人たちと再会することができます。しかしそうでない人(会いたくない人)とも再会します』」。

(7)神の名を語る

 彼らは、「あなたはまだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たというのか」(57節)と言いました。50歳というのは、この当時、ユダヤ教の指導者ラビが引退する年齢であったようです。
 その批判に対して、イエス・キリストは先ほどの「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(58節)という言葉を語られたのです。
 この「わたしはある」というのは、前回詳しく申し上げました。エゴー・エイミというヨハネ福音書独特の表現です。さかのぼれば、神様ご自身がモーセに告げられた神様の名前でもあります。ヤハウェという神様の名前は「わたしはある」という意味です。この時、彼らの中には、イエス・キリストが「わたしはある」と言われたのを聞いて、神様の名前を語ったと思った人もいたでしょう。あるいは、「わたしはヤハウェである。私は神である」と言ったと聞き違えた人もあるかも知れません。そのような中で、彼らはイエス・キリストを殺す決心をします。石を取り上げて、イエス・キリストに投げつけようとしました。「神を冒涜する者は石で打ち殺されなければならない」ということでしょう。この8章の最初では、姦通の女に向かって石が投げつけられようとしていましたが、今、その石がイエス・キリストに向けられて8章が終わります。そしてやがて受難へと、必然的に進んでいくことになります。

(8)最愛の独り子の犠牲

 さて、今日の物語を読みながら、私は改めて次のことを思いました。神様がアブラハムに対してなさろうとしたこと、それは最愛の息子イサクを、独り子をささげるということでありました。あの時は、神様は最後の瞬間にそれを止められました。「待て。殺してはならない。もう十分だ。」ところが今は、神様ご自身が、最愛の息子、独り子であるイエス・キリストを犠牲としてお与えになられる。この時は、誰も「待て。もう十分だ」と止めることはありませんでした。イエス・キリストは、ゲツセマネの園で、「これがあなたの御心でしょうか。できることなら、この杯を私から取りのけてください」と祈られました。しかし、その杯は取りのけられませんでした。そのようにして、イエス・キリストの十字架が実現していくのです。

「神はその独り子をお与えくださった程に世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

 この言葉の実現のために、神様がどれほどのことをご決意なさっていたかということを思わざるを得ません。
 イエス・キリストは、この時「あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている」、「わたしはその方を知っており、その言葉を守っている」(8:55節)とおっしゃいました。それは決して傲慢ではありません。神様ご自身が決意されていることを、ご自分の身に引き受けられる用意があったということです。
 かつて洗礼者ヨハネは、「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ3:9)と言いました。それはユダヤ人たちに、「おごり高ぶるな」という意味でしたけれども、今、私たちはそれを恵みの言葉として聞きたいと思います。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。私たちは何の取り得もない、イエス・キリストの恵みにあずかる資格もないような存在ですが、神様はその石ころのような私たちをアブラハムの子とするだけではなくて、イエス・キリストの兄弟姉妹として、神様の子どもとしてくださったことを感謝いたしましょう。