〜ヨハネ福音書講解説教(35)〜
エゼキエル書18章1〜4、14〜20節
ヨハネ福音書9章1〜12節
2004年5月2日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
水曜日の朝の祈祷会では、4月21日よりヨブ記を読み始めました。ヨブは正しい人で、誰が見ても立派で、模範的な信仰者でありました。ある日、サタンが神様の前に現れます。神様が「お前はどこから来た」と尋ねると、サタンは、「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」(ヨブ1:7)と答えました。サタンというのは、この地上のあちこちを歩き回って、人を誘惑してやろう、試してやろうとねらっているような存在であります。人と人との間、あるいは人と神様の間に割って入って、不信感を募らせて敵対させようとするのです。何でもないことを興味本位に誇張して、人の不信感を募らせるような人は、私たちのまわりにも結構いるのではないでしょうか。「ちょっと聞いた。あの人ったら、陰でこんなことを言っているのよ。人は見かけによらないわねえ。恐ろしいわねえ」。まあ、本当はそう言っている人の方が、恐ろしいのかも知れません。
神様はサタンに対して、「お前はわたし僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい」(ヨブ1:8)というのですが、サタンは、「ヨブが、神様を敬うのは、彼が恵まれているからです。ヨブに不幸な出来事が重なるならば、神様を呪い始めるでしょう」と言って、彼にさまざまな災いを降りかからせるのです。家畜が襲われ、使用人が襲われ、火事が起こり、嵐が起こり、家族が死んでいきます。それでもヨブは信仰を失いませんでした。サタンが再び神の前に現れます。今度は、彼の体に手を伸ばします。重い皮膚病になるのです。しかし彼は神を呪うことはいたしませんでした。
さてヨブの不幸を聞きつけた3人の友人たちが、次々とヨブを見舞いに来ます。彼らはそれぞれの仕方で、「お前がきっと何か悪いことをしたから、こんな目にあったのだ。何か思い当たることがあるだろう。悔い改めなさい」と忠告をするのです。
この忠告の背景には、因果応報という考えがあります。「その人に災難がふりかかるのは、何かしらその人に原因がある。そうでなければ、その親か先祖の誰かに原因がある。そうでなければ、そうしたことが起こるはずがない」という考えです。
しかしヨブはそのような友人の忠告に対して、ことごとくそれらを否定していくのです。自分にはそのような非は、全くない。そしてそのような友人の答えではなく、神様ご自身に「こたえてください」と迫るのです。やがてそれに対して、神様が登場して、ヨブに答えられます(38章)。
日本でも悪いことが続くと、「何でこんなことが起こるのか」と、誰しも考えるものです。占い師か祈祷師か、そういうところへ行って相談し、アドバイスを受けることもあるかも知れません。
宗教とか占いとかいうものは、何かしら人の弱みを利用するような形で入ってくることが多いものです。あるいはそこから何かしらを、多くの場合にはお金を得ようとする。障碍をもったお子さんが生まれた家庭に、それまで何にもなかったのに、その日からありとあらゆる(新興)宗教の勧誘が来るようになったというのは、よく聞く話であります。「来なかったのはキリスト教だけです」という話も聞くことがあります。それだけ他の宗教は熱心なのに、キリスト教は人が困っている時に声をかけてくれないということもあるかも知れませんが、キリスト教はそんなせこいことはしない、ということも言えるでしょう。
「他の宗教はともかく、キリスト教は、因果応報のような考え方はしない」というのは大きなメッセージであると思います。そのことを高らかに告げているのが、本日のヨハネ福音書の9章の物語であります。この物語は、古来、苦しみの中にあって悩んでいる多くの人々に希望の光を与えてきました。
旧約聖書の中にも、親の罪を子が負うというような古い考えがないわけではありませんが(哀歌5:7等)、そうした時代の制約の中からも新約聖書に通じる福音の響きが聞こえてきます。それは先ほど読んでいただいたエゼキエル書18章の言葉の中にも現れています。新共同訳聖書では、「各人の責任」という題が付けられています。
「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどう酒を食べれば、子孫の歯が浮く』と。わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。すべての命はわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」(エゼキエル18:3〜4)。
「ところで、その人にまた息子が生まれ、彼が父の行ったすべての過ちを見て省み、このような事を行わないなら、……彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる。……子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」(同14〜20節)。
これは、この時代の社会通念からいたしますと、画期的な言葉であると思います。新約聖書の福音を先取りし、特に今日のヨハネ福音書第9章の話をほうふつとさせる言葉ではないでしょうか。
イエス・キリストと弟子たちの一行は、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。弟子たちは、主イエスにこう質問しました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(2節)。
ここで弟子たちも因果応報という考えを当然のこととして前提にしています。誰も罪を犯していなければ、この人がこんな目にあうはずがない、と思ったのです。これはある意味でわかることです。神様が正しいお方であるとすれば、誰も悪いことをしていないのに、そんなことをなさるはずがないということでしょう。
イエス・キリストは彼らの質問に、こう答えられます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない、神の業がこの人に現れるためである」(3節)。
この言葉は、先ほどのエゼキエル書の言葉よりも更に突っ込んだ、前向きの言葉です。エゼキエル書の方は、「罪を負うのはその本人だけだ。災いが他の人に及ぶことはない」と言っているのですが、主イエスの言葉は、そこに新しい意味を見出させるものであります。私たちの常識、あるいは固定観念を根底から覆す革命的な宣言であります。
私たちは、不幸(に思えること)が起こる時に、とかく後ろ向きに考えがちです。「自分のせいで、そうなってしまったのではないか。」「あの時に、こうしていれば、こういう風にならなかったのではないか。」そうしたことをいつまでも引きずっているものです。自分でそう思ってしまうだけではなくて、今日の物語にもあるように、人からもそう見られている。それ故に、なかなかそこから抜け出ることはできません。
しかしながらこのイエス・キリストの言葉は、弟子たちの質問そのものを否定しました。弟子たちは「一体どちらですか」と問うたのに、主イエスは、「どちらでもない」と答え、全く想像もしない新しいことを語られたのです。「神の業がこの人に現れるためである」。弟子たちはその苦難の原因と責任を問いましたが、イエス・キリストはその苦難の意味と目的を語られたのです。彼らの目を過去から未来へと向けさせたのでした。
「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして『シロアム−「遣わされた者」という意味−の池に行って洗いなさい』と言われた」(6節)。
その通りにすると、その人は見えるようになりました。唾というのはいやしの力があると信じられていました。「シロアム」というのは「遣わされた者」という意味であると、わざわざ説明されています。シロアムとは、他ならぬイエス・キリストご自身のことであったと言おうとしているように思えます。そこでその人は新しくされたのです。
弟子たちは「一体誰が罪を犯したから、こんなことになったのですか」と問いましたが、彼らは別にこの目の見えない人の苦しみを担っていこうとする気持ちはないようです。いわば興味本位の問いです。同じ問いを意地悪な形で出す人もあったかも知れません。その意味で、先ほど申し上げましたヨブの問いと全く重みが違います。ヨブの場合は自分の苦しみを背負いながら、呻きのように神様に問いを発しています。
弟子たちは、この目の見えない人を横目で見ながら、「あの人は」と問いかけたのです。もちろんその言葉そのものには、大事な意味が含まれていますが、それは自分と関係のない話、自分の責任がかかっていない問いかけ方であるような気がしました。この人は、いやされた後、人々の中に戻っていきます。近所の人々は、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」「その人だ」「いや違う。似ているだけだ」などと口々に言いました。彼らもまた、傍観者です。彼らの苦しみを担ったり、喜びを分かち合ったりということはないのです。
先月、イラクにおいて三人の日本人青年がイラクの武装勢力の人質となりました。このニュースに対して日本人の反応はどうであったでしょうか。最初のうち、まだ拘束されている間は、ショックと同情で黙っていましたが、そのうちに「自業自得」という冷めた風潮に変わり、解放された後にも、喜びを分かち合うことよりも「自己責任論」なるものが噴出いたしました。「それは本人の責任だ。救出費用も彼らに請求すべきだ」と問うたわけです。私は、一理あるのかなと思いつつ、どうもおかしいような気がしました。この言葉を語る人は、この事態について、少なくとも自分には責任がないと思っているのでしょう。むしろ「迷惑だった」とでも考えているのでしょう。しかし私たちは(私も含めて)、そのように彼らの責任を問う資格があるのだろうかと思います。このような事態を引き起こした日本の責任、あるいは日本国民としての私たち一人一人の責任というものは全く問題にされず、傍観者的、第三者的なのです。
人質となった3人のうちの一番若い18歳の青年(今井紀明さん)が、一昨日(4月30日)の会見において、「自己責任論について、いろんなことが語られているが、自分にとっての責任は、今回の経験を日本の人々に伝えることです」と語りました。すがすがしく印象的でありました。
この時、イエス・キリストに向かって質問をした弟子たちも、あのヨブと違い、他人事として尋ねているだけです。別に、この目の見えない人の立場に立ち、共にその苦しみを担おうとしているわけではありません。傍観者です。責任もありません。近所の人々の態度もそうです。好き勝手なことを興味本位で語っています。
そのような中にあって、この目の見えなかった人は、はっきりと「わたしがそうなのです」(9節)と答えました。彼は、自分の実存をかけて責任ある答えをしました。その答えは、次第に彼を困った立場に追いやっていくのですが、彼はそのような圧力の中でも、逃げないで、はっきりと答え、自分の言葉に責任をもとうとするのです(11節、17節、25節、37節参照)。
私たちは、イエス・キリストによって真に新しくされる時に、自分について責任をもち、イエス・キリストのあとに従っていく者とされるのではないでしょうか。
この時、もう一人、責任をもって発言をした人がいました。イエス・キリストであります。イエス・キリストが「神の業がこの人に現れるためだ」とおっしゃった時に、自分がかかわることを通して、それが現れると言っておられるのです。「まだ日のあるうちにそれを行わなければならない。だれも働くことのできない夜が来る」(5節)。そう語りながら、イエス・キリストははっきりと自分の行く道、十字架を見据えておられたのではなかったでしょうか。そのように責任を引き受けながら言葉を語ってくださるお方によって、私たちも責任を持って生きる人間へと作りかえられていくのでありましょう。
この目が見えなかった人が語った「わたしがそうなのです」という言葉は、実はヨハネ福音書において、イエス・キリストご自身が、自分のことを語るのに何度も使われたのと同じ言葉です(エゴー・エイミ、4:26、6:35、8:58等)。「わたしがそれだ。」この人も、そのようにして責任をもってイエス・キリストに続く者とされたのでありましょう。私たちも、これから聖餐を受けながら、そのようにして、新たに生きる者となりましょう。