恐れながらも

詩編3編1〜9節
マタイ福音書28章1〜10節
2004年4月11日  イースター礼拝
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)愛する者の死

 イースター、おめでとうございます。
 イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られたのは、金曜日の午後でありました。ユダヤ教では、金曜日の日没から安息日が始まります。その前に埋葬を済ませ、それぞれ家路に着きました。しかしその時、いつまでも墓の前を立ち去らない人がありました。「マグダラのマリアともう一人のマリアはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(27:61)。この言葉には、彼女たちがいかにイエス・キリストを愛し、信頼し、それに従って生きてきたかということがあふれ出ております。
 墓の中にあるのはイエス・キリストの亡骸です。もうイエス・キリストは死んでしまったのです。そのことはよくわかっているのだけれども、墓の前から立ち去ることができない。これは愛する人を失った者の気持ちをよく表しているのではないでしょうか。
 安息日が終わり、日曜日の夜明けを待ちわびるようにして、真っ先にイエス・キリストのお墓へとんで行ったのも、他ならないこの二人のマリアでありました。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(28:1)。

(2)地震と墓の前の番兵

 「すると、大きな地震が起こった」と続きます。これはマタイ福音書だけが書き記していることです。マタイは、イエス・キリストが息を引き取られた時にも、地震が起こったと記しました。(27:51)。
 現代の日本に生きる私たちは、地震というのがひとつの自然現象であることを承知しています。小さな地震であれば、日常茶飯事です。少々のことではあまり驚きません。ブラジルのように、まず地震が起こらないような国では、地震というのは想像がつかなくて、本当に恐ろしいものとして、世の終わりの出来事のように感じている人もたくさんいました。日本で地震が起こったというニュースの度に、「トシは地震が恐ろしくて、日本からブラジルへ逃げてきたのだろう」と、よく言われました。
 イエス・キリストが息を引き取られた時と復活なさった時に、地震があったというのは、それがまさに私たちの生きているこの世界をその土台から揺さぶるような出来事、天地がひっくり返るような出来事であったことを示しているのだと思います。
 私たちの人生においても、全く予想しなかったこと、考えもしなかったことが、突然起こります。それは自然現象としての地震ではなくても、私たちの人生を大地震のように揺さぶるのです。私たちの世界、あるいは私たちの人生の土台というのは、私たちが考えている程、不動のものではないのです。
 お墓の前の地震に続いて、こう記されます。「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(2節)。天使は軽々と、それをやってのけました。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」(3節)。ここで、その地震が偶然起こったのではなく、神様の力がそこに介入したのだということが、示されます。それを目の当たりにした「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のように」(4節)なりました。
 弱い者を武力で威圧する人間は、自分よりもはるかに大きな力を目の当たりにする時、自分の頼みとしていた力がおもちゃのようなものでしかないということを思い知らされます。力で人を脅かしている人間ほど、立場が逆になった時に恐ろしくなるのではないでしょうか。この番兵たちは、恐ろしさのあまり真っ青になり、固まって動けなくなってしまいました。まさに死人のようになってしまったのです。
 一方、天使は、この番兵を全く無視して、その傍らで同じように脅えて震えている二人のマリアに語りかけるのです。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(5〜6節)。

(3)恐れと喜び

 彼女たちは、イエス・キリストを見るためにここにやってきました。しかしそれは死んだイエス・キリストです。もう自分たちには何もできないと知っていながら、それでも何か心を込めたことをして差し上げたい。また彼女たち自身が、そうすることによって、言いようのないような寂しさ、悲しさ、言いようのない、ぽっかりと空いてしまった心の穴を少しでもふさぐことができれば、と思ってやってきたのでありましょう。あるいはもう一度、イエス・キリストの亡骸の前で思いっきり泣きたいと思っていたかも知れません。しかし、彼女たちはしたいと思っていたことをすることができません。そこにあるはずのイエス・キリストの遺体がないからです。ところが、それは全く喜ばしい期待はずれ、喜ばしい裏切られ方ではなかったでしょうか。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ遺体の置いてあった場所を見なさい」(6節)。
 「そこにあるはずのものがない」ということは、普通、私たちを失望させ、悲しませるものですが、この場合は違っていました。イエス・キリストは、死者の中にはおられない。イエス・キリストはお墓の中にはおられない。「喜ばしき不在」。これがイースターのメッセージです。
 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去った」(8節)。この「恐れながらも大いに喜び」という言葉が、彼女たちの気持ちをよく表しています。私たちは、自分の生きている世界という土台が、あたかも不動のものであるかのように思っているならば、それを覆すような出来事に遭遇する時に、ただ不安になり、恐ろしさのあまり震え上がることしかできません。たとえそれが、神様が介入されたゆえに起きたことであったにしても、それを受け止めるアンテナがないのです。
 しかし私たちの世界、私たちの人生に神様が介入して来られることがあるということを知っている人間、しかもその神により頼む者にとっては、あるいはよいことをしてくださる神様がいるということを知っている人間にとっては、そうではない。確かに同じように恐れはもちます。しかしその恐れは、あの番兵の恐れとは質的に違ったものではないでしょうか。「畏敬の念」と言ってもいいでしょう。だから「恐れながらも大いに喜ぶ」ことができるのです。

(4)復活のイエスの顕現

 9節以下は、マタイだけが記していることです。彼女たちが急いで走っていこうとすると、今度は突然、復活されたイエス・キリストご自身が彼女たちの前に、立ち現れました。「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏し」(9節)ました。これは、イエス・キリストが亡霊のようなものではなく、手で触れることのできるような肉体をもって復活されたということを示しているのでしょう。そしてイエス・キリストも天使と同じように、「恐れることはない」と言われました。イエス・キリストご自身が「恐れることはない」と言ってくださることによって、「本当に恐れなくていいんだ」ということを確認するのです。
 そして「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)と結ばれました。ここで主イエスは、わざわざ「わたしの兄弟たち」と言っておられます。弟子たちはすべて、イエス・キリストを見捨てて逃げ去ったのです。普通であれば、ここで「兄弟の縁は切れた」(やくざのような言葉ですが)ということになるでしょう。それにもかかわらず、主イエスの方から弟子たちのことを、「わたしの兄弟」と呼んでくださっている。そこには大きな招きがあると思います。

(5)空っぽのお墓

 さてこの二人のマリアは、イエス・キリストのお墓参りに行ったということができるでありましょう。お墓とは一体、何でしょうか。あるいはお墓参りは一体何のためにするのでしょうか。「クリスチャンはお墓を大事にしない」と批判されることがありますが、クリスチャンもお墓参りをします。私たちの教会でも、多磨霊園に教会の墓地をもっていまして、年に一度、合同の墓前礼拝を行います。ではクリスチャンにとってお墓参りというのは、一体どういう意味があるのでしょうか。
 普通の日本人の感覚で言いますと、先祖を大事にする。先祖の供養をするということがあろうかと思いますが、クリスチャンは、遺された者が供養をしないと、先祖が浮かばれないという考え方はしません。 もちろんお墓に行って、故人のことを思い起こし、なつかしむ。あるいはその故人から受けた大きな恵みを感謝する。それは共通のことでありましょう。お墓というのは、その人が生きたしるしが刻まれる場所です。
 お墓には、その人の名前と生年と没年だけが記されています。私たちの人生は、最も短く要約すれば、そうなるのかも知れません。何年何月何日にこの世へやってきて、何年何月何日にこの世から去って行った。
 お墓は、ある意味では人生の終着駅のようなものでありますが、クリスチャンにとっては、もっと大きな意味があるのです。
 二人のマリアがイエス・キリストのお墓参りをした時に、そこにはイエス・キリストの亡骸はありませんでした。お墓は空っぽだったのです。「空っぽのお墓」。実はそこに大きな意義があるのです。日本は火葬ですので、お墓にそのまま亡骸を収めるわけではありませんが、本質的には同じだと思います。お骨はそこにある。亡骸はそこにある。しかしその人は、もうそのお墓の中にはいないのです。その人はそこを通り越して、天へと行かれた。そのことを確認する場所がお墓なのではないでしょうか。そうした意味では、イエス・キリストのお墓同様、私たちのお墓も空っぽなのです。それを確認して、天を見上げる場所が、お墓なのであり、そこで天を見上げることこそが、クリスチャンにとってのお墓参りの最も大きな意義なのではないでしょうか。
 イエス・キリストは死者の中から復活された。それは私たちすべての者がそれに続くためでありました。

「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(第一コリント15:20)。

 私たちはお墓の前で礼拝する時にも、あの二人のマリアと同じように、天使のメッセージを聞くのです。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(6節)。そして恐れながらも、大いに喜ぶのです。

(6)お墓、天を見上げる場所

 愛する人が亡くなった後、遺された人はそこへ行って、その人をなつかしみ、感謝をいたします。しかし私たち人間には、それだけしかできません。どんなに立派に、どんなに忠実に、どんなに丁寧にそのことをしようとも、残念ながら、それ以上のことはできないのです。死は、生きている人と死んだ人を無残に引き裂きます。私たちはその死の力の前ではどうすることもできません。死を引き伸ばすことは、少しはできるようになりましたが、死をなくすことは人間にはできないわけです。どうしても超えることのできない一線がある。死は、ある日突然やってきて、愛する者同士が隔てられてしまう。その力は、あたかも墓の前に立ちはだかって、そこに来る人を威圧していた番兵のようです。
 しかしながら、イエス・キリストの復活の物語は、私たちにこう告げています。神の力はそれを超えている。私たちと死んだ者を隔てている力、私たちを威圧し、私たちを恐れさせている力自体が、神の力の前で無力にされる。私たちを脅えさせている力そのものが、神の力の前で震え上がり、死人のようになってしまう。神の力が働く時には、死の力そのものが、死にいたらされる。そして死んだはずの者が生きた者とされるのです。イエス・キリストを信じる者にとっては、お墓は終着駅ではありません。通過点に過ぎない。そこを通り越して、それは天へと通じているのです。

(7)「家には一人を減じたり」

 最後に、サラ・ストックというイギリス人女性が書いた詩の一部をご紹介いたします。彼女は愛する弟を亡くした時にこれを書いたと言われています。

家には一人を減じたり
楽しき団欒(まどひ)は破れたり
愛する顔いつもの席に見えぬぞ悲しき
さはれ 天に一人を増しぬ
清められ救われ 全うせられし者一人を

家には一人を減じたり
帰るを迎うる声一つ見えずなりぬ
行くを送る言葉ひとつ消えうせぬ
別れることの絶えてなき浜辺に
ひとつの魂は上陸せり
天に一人を増しぬ

家には一人を減じたり
門を入るにも死別の哀れに堪えず
内に入れば空しき席を見るも涙なり
さはれ はるか彼方に
我らの行くを待ちつつ
天に一人を増しぬ  (植村正久訳)

 家の中に一つ空席ができてしまった。食事のテーブルにもいつもの顔が見えない。しかしながら天では一人増えたのだ。

 One less in home, one more in Heaven!

 この世で生きている限り、皆さんそれぞれの形で、愛する方々の死を経験しておられるであろうと思います。しかし私たちはそこで天を見上げることが許されているのです。イエス・キリストが初穂として復活なさって、私たちに先立って天への道をつけてくださったことを共に喜び、お祝いいたしましょう。


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