神の栄光が現れるために

イザヤ書63章7〜9節
エフェソの信徒への手紙1章3〜14節
2004年4月25日(創立74周年記念礼拝)
経堂緑岡教会   牧 師 松本 敏之


(1)今年度の標語

 今年度、私たちは2003年度の「開かれた教会」という標語を引き継ぎつつ、「神の栄光が現れるために」という副題を掲げて歩むことになりました。今年度は来年の75周年に向けて、「75周年記念誌」(「75年史」と「信仰の記録」)を仕上げなければならない年であるので、それを視野に入れた標語にしたいと思いました。「75年史」は、やがてゆるされて創立100年を迎えることができるならば、その「100年史」への貴重な資料になるであろうと思います。ただしそのような公的な歴史だけでは、この教会にどんな人々がいたのか、ということはわからないものです。
 私が今から二年前にこの教会に赴任して思ったことは、教会員一人一人のことがわかるような資料がほとんどない、ということでした。もしかすると、そうした個人の記録はあまり残すべきではないという考えがあったのかも知れません。個人個人の記録はともすれば、自慢めいたものになるか、単にきれいごとになるか、あるいは他の人が書けば、やたら褒めちぎったものになる傾向があるのは確かでありましょう。しかし私は、それでもいいと思うのです。たとえそうであっても、その人と神様との関係は、それなりにわかります。「すごい人がいるなあ」と思ったり、自分と似たような人がいて、ちょっとほっとしたりいたします。あるいは「こんな信仰でいいのか」と疑問に感じる人もあるかも知れません。でもそのとおり、その全体が経堂緑岡教会の実際の姿、生の姿なのです。背伸びする必要もありません。そしてその一人一人は、やはり間違いなく、イエス・キリストによってこの経堂緑岡教会に召し集められた人々なのです。それは、何か人間的な目的によって、自主的に集まった集団ではありません。主が先立って、私たちを呼び集められた。それが教会であります。それは、さまざまな種類の花による花束のようなものではないでしょうか。ただ私は、その書物が全体として、神の栄光を現す書物であって欲しいと願うのです。

(2)「開かれた教会」の目的

 宗教改革者のカルヴァンは、「神の栄光のために」という言葉を生涯のモットーにしていました。ですから「神の栄光が現れるために」という言葉も、副題などにするのはおこがましく、私たちの人生の主題にすべき大きな言葉でありましょうが、とにかくこの一年、この言葉を心に留めて過ごすことは意義深いことであると思います。
 「開かれた教会」ということも、「神の栄光が現れるために」という言葉を通して見るならば、その目的がはっきりしてきます。「開かれた教会」とは、必ずしも教会がこの世の、あるいは時代の要求にあわせて行くということではありません。もちろん、それを敏感に受け止めていくことは大事なことです。それなしに、教会は正しく神の言葉を宣教することはできないでしょう。しかしそのことは決してこの世に迎合するということではありません。教会が「開かれた教会」でなければならないのは、まさにそこに神の栄光が現れるためなのです。神様は確かに生きて働いておられる。この世界を支配しておられる。この歴史を導いておられる。そのことがすべての人にわかるようになるために、教会は開かれていなければならないのです。

(3)主の慈しみを心に留める

 これらのことから、今年も二つの聖句を選びました。旧約聖書からは、「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を、主がわたしたちに賜ったすべてのことを」(イザヤ書63章7節)という言葉です。この7節には、さらに後半があり、「主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを」と続きます。
 この言葉が語られた時、イスラエルの人々はバビロン捕囚から解放されて、エルサレムの再建に携わっていましたが、必ずしも順風な、幸せな生活をしていたわけではありません。むしろこんなはずではなかった、という大きな失望に支配され、困難が前に立ちはだかっていました。
 しかし彼らはそこで、先祖が経験した出エジプトの出来事を思い起こそうとしました(63章11節以下)。それは、彼らの民族としての信仰の原点でした。
 状況が苦しい時にこそ、恵みの原点に立ち返る。つらい状況の中で、何か神様に感謝できることを思い出そうとしている。私は、そのことを印象深く思いました。私たちの信仰も、「かつては燃えていたのに、今は冷めてしまった」、そういう風に思う時があるのではないでしょうか。浮き沈み、波があるのです。そのような時に、私たちがかつて受けた恵みを思い起こすことは大事なことであろうと思います。

(4)恵みをたたえるため

 新約聖書からは、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1章6節)という言葉を選びました。この前に「私たちがクリスチャンとして召されたのは」と補って読むといいでしょう。私たちは、それぞれ信仰の決意をして、クリスチャンになりましたが、もとを正せば、そこには神様の備えと導きと選びがあった。それで初めて今の自分の信仰がある。そのことをさきのイザヤ書の言葉に重ねて、恵みとして覚えたいと思います。
 このエフェソ書の言葉は、イザヤ書よりもう一つ踏み込んでいます。私たちがクリスチャンになったのは、御子イエス・キリストによって与えられた恵みをたたえるためだというのです。それはこの後の部分でさらに展開されています。「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(12節)。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(14節)。すべての歴史、すべての人の人生、そこには明確な目的がある。それは神様の栄光をたたえるということ。パウロはそれを強く語るのです。

(5)恥は我らに、誉れは神に

 私たちは、これから「75周年記念誌」を形にしていかなければなりません。皆さんも、ぜひこのことを祈りの中心に据えてください。そしてご協力ください。「どこまで行ったか。」「どんな本になりそうか。」そのように声を掛け合って、励ましあっていきたいと思うのです。「信仰の記録」も、できるだけ多くの方々のプロフィールが収められ、誰一人これを傍観者的に見ることなく、「これこそ私たちの教会の本だ」と、すべての人が喜んでそれを手に取ることができるようにと願っています。
 ある教会が100周年記念誌に、「恥は我らに、誉れは神に」という題をつけました。教会も人間の集団でありますので、確かにそこには、罪の歴史としか言いようのない部分があります。一人一人の信仰の記録についても、私たちの恥、汚点を残すことを恐れる方があるかも知れません。しかし私はそれでも意味があると思うのです。その人の意思を超えたところで、神様はそれをお用いになられるのです。そこに神様の恵みが立ち現れてくるものであろうと思います。不思議なことですが、そういうことは確かに起きるのです。私はそうした神様の不思議な働きを信じるのです。そして私たちは、神様がそのように私たちの証しを用いられることを拒んではならないと思います。「恥は自分たちに返ってくればいい。誉れは神様にあるように」。そのような思いをもって、共に進んで行きましょう。
 まだ「信仰の記録」の原稿について、何らかの躊躇をもっておられる方もあるかも知れません。自分の信仰をありのままに書くということはもとより不可能なことですから、ある意味で気楽に、神様から受けた恵みを思い起こし、それを一つでも二つでも数えるようなつもりでお書きくださればいいのではないでしょうか。神様はきっとそれを用いてくださいます。
 主が私たちに賜ったすべてのこと、主の慈しみ、主の栄誉を思い起こしながら、感謝しつつ、それを証しする者となりたいと思います。


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