神の息が人を生かす

エゼキエル書37章1〜14節
ヨハネ福音書20章19〜23節
2004年5月30日  ペンテコステ礼拝
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)教会のルーツ

 本日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)であります。私たちは、このペンテコステを教会の誕生日とも呼んでいますが、教会はいつ、どのようにして始まったのでしょうか。使徒言行録には、次のように記されています。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:1〜4)。

 もう一つさかのぼるならば、イエス・キリストとペトロの対話を思い起こします。ペトロはイエス・キリストを指して、「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白しましたが、イエス・キリストはその信仰告白を認め、「あなたはペトロ(「岩」という意味)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(同18節)と言われました。これは先ほどの使徒言行録の言葉に先立つ教会のルーツ、あるいは教会の根拠を示す言葉でありましょう。
 ちなみにこの会話には、聖霊という言葉は出てきませんが、私はこのところにも隠れた形ですでに聖霊が現れていると思うのです。イエス・キリストはペトロに向かって、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(同17節)と言われました。この「天の父」こそ、「聖霊」と呼び変えてもいいものであり、その方がペトロを信仰告白に導いたのです。

(2)聖霊が分かる、分からない

 「聖霊」について説明することはなかなか難しいことです。それは分かる人には分かる。分からない人には幾ら言葉を尽くして説明しても分からない。そういう性格のものなのです。
 私たちの中に、同じ話を聞いても、あるいは同じ経験をしても、それで信仰に導かれる人と、そうでない人があります。その違いは、私たちの理解力の差でありましょうか。こちらが意識的に聞こうとしているかどうか、受け入れようとしているかどうかという姿勢は、関係があるかも知れません。しかしいわゆる頭の良し悪しではない。頭の良し悪しが、もしも関係があるとすれば、かえってあまり頭がよくない方が(?)いいのかも知れません。
 私がそう判断するのではなくて、使徒パウロがこう言っています。

「あなたがたが召された時のことを思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」(Tコリント1:26〜28)。

 皆さんの中に、「自分は決してこの世的な意味で、頭が悪い方ではない。どちらかと言えば、いい方だと思う。エリートコースを歩んできた。でも信仰も持っているよ。おかしいなあ」とお考えになる方があるかも知れません。(まああまりないと思いますが。)もしもそうお考えならば、神様は、あなたを頭がいいから選ばれたのではなくて、頭がいいにもかかわらず、特別にあわれまれて選ばれたのだと、お考えくださるといいでしょう。実はこう語っているパウロ自身、ものすごく頭がよく、大変なエリートだったのです。しかしパウロはそうしたこと、この世的視点で見れば、益に見える事柄を、損失と考えていました(フィリピ3:7参照)。賢い、というハンディがあるにもかかわらず、神様の不思議なわざ、それこそ聖霊が働いて、信仰が与えられたのでしょう。

(3)聖霊はすでに働いている

 クリスチャンであっても「聖霊についてはよくわからない」という方もあるかも知れません。「自分には熱烈な聖霊体験もない。それがないと生ぬるい信仰なんだろうか。」でもご安心ください。イエス・キリストを信じられる。そのこと自体が聖霊が働いている何よりの証拠なのです。聖霊が働かなければ、信仰にいたることはありません。それは自分でも意識しないものでありましょう。ちょうど空気のようなものです。私たちはそれと意識しないうちに呼吸をし、その呼吸が私たちの肉体を生かしています。同じように、私たちは聖霊を意識していないかも知れませんが、聖霊は私たちに働き、私たちの内に入ってきて、私たちを霊的に生かし続けているのです。
 皆さんの中にはまだ信仰をもっておられない方もあるでしょう。「信仰をもてるということはすでに聖霊が働いている証拠だ」などと言いますと、「それじゃ、私には聖霊は働いていないのか」と思われるかも知れません。しかし決してそうではありません。空気がすべての人に与えられているように、聖霊はあなたにも働いております。それに気づかないだけなのです。信仰をもつ時にはじめて聖霊が働くのではなく、信仰をもつということは聖霊が働いていることがわかるということです。あるいはそれを受け入れるということです。
 皆さんの中には、ご家族の召天者の記念のために、この礼拝に来られた方もあるでしょう。あるいは先週のご葬儀のご挨拶のために来られた方もあると思います。しかしながら、それはそれで、やはり自分の意思を超えたところで、あるいは自分の意思に先立って、聖霊が特別な形であなたがたを導かれたのだと、私は思います。
 聖霊とは、今ここで私たちに対して直接働いている神様のことであり、今ここで2000年という時を超えて働いているイエス・キリストのことです。ですからもしも今ここにイエス・キリストが共にいてくださることを信じるならば、それが聖霊なのです。そして私たちの信仰もそこで始まっているのです。

(4)ヨハネ版、聖霊降臨

 ちなみに使徒言行録は、ルカ福音書を書いたいわゆるルカによって記されたものです。ルカ福音書の続編とも言えるものですが、私たちは今日、この使徒言行録ではなく、ヨハネ福音書の復活の記事を読んでいただきました。
 ヨハネはルカとは少し違う書き方をします。ルカによれば、イエス・キリストの復活から聖霊降臨まで、50日間という時間的幅がありました。しかしヨハネは違います。ヨハネ福音書には続編はありません。そのせいか、復活の顕現の中にすでに聖霊降臨が語られています。復活と聖霊降臨が、同時的なのです。
 イエス・キリストが十字架の上で殺された後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちの家に閉じこもって、鍵をかけて、中でじっとしていました。突然、そこへイエス・キリストがすっと入ってこられる。弟子たちはびっくりしたことでしょう。
 彼らはユダヤ人たちを恐れると同時に、自分たちのとった行動に対してうしろめたさを感じていたに違いありません。弟子たちは、一人残らず、イエス・キリストを見捨てて、いや見殺しにして、逃げ去ったのです。そして死んだはずのイエス・キリストが現れた。しかも鍵がかかっているドアを通り抜けて現れた。弟子たちはユダヤ人たちよりももっと恐ろしいものを見たように思ったのではないでしょうか。「出たあ」という感じです。彼らはイエス・キリストに対して、あわせる顔がありません。「イエス様、どうか成仏してください」と思ったかも知れませんね。イエス・キリストは彼らの真ん中に立ち、言葉を発せられました。何と語られたでしょうか。「なぜ私を見捨てて逃げたのだ。うらめしや〜」と言われたか。そうではありませんでした。
 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(19、21節)。そうおっしゃってから、彼らにふうっと息を吹きかけられたのです。息を吹きかけながら、こう言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがた赦さなければ、赦されないまま残る」(22〜23節)。ですからヨハネ福音書では、この瞬間、イエス・キリストの復活の瞬間、同時に聖霊降臨が起こったということになります。使徒言行録よりも更に直接です。復活のイエス・キリストの口から出た息を、弟子たちはそのまま受けたのです。そして教会が始まっていきました。
 教会は、社会学的に言えば、イエス・キリストを信じる人の共同体でしょう。しかし神学的に言えば、それに先立つものがある。聖霊を受けてイエス・キリストに召された人の群れです。たとえ自分の意志でここへ来たと思っていたとしても、実は神様が導かれ、ここに一つの群れを作ってくださった。それが教会であります。そしてまたこの群れそのもの、神の息を受けて生かされているのです。

(5)霊よ、吹き来たれ

 今日はまたエゼキエル書の37章に記されている「枯れた骨の復活」の話を読んでいただきました。これは預言者エゼキエルが見た幻でありました。この頃イスラエルは民族・国家とも壊滅状態であり、みんなが絶望していました。神様の選びは一体何であったのかと問わざるを得ないほど、精神的にも、生活面でも、ぼろぼろの状態でした。枯れた骨がいっぱいうずくまっているような情景というのは、そういうイスラエルの人々を表しております。しかしそこに何かが起こるのです。枯れた骨がカタカタと音がしながら動き出す。その枯れた骨が一つに集まってきて、肉が生じ、筋が生じて、体ができた。まだ動かない。まだ動かない。そこに霊が吹いてくるのです。主なる神様は預言者エゼキエルに言われました。「霊よ、四方より吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」(エゼキエル37:9)。エゼキエルがそれを語ると、「霊が彼らの中に入り」、彼らを生かしたというのです。一人一人の体の中に入ったということと同時に、彼らの間に入り、共同体として、群れとして生かしたということです。

(6)「神の慈しみに包まれて」

 先日届きました『キリスト新聞』ペンテコステ号(5月29日付)の巻頭に、阿部仲麻呂という神父が「神の慈しみに包まれて」と題して、書いておられることを興味深く読みました。阿部神父は、詩のように美しい文章で、こう語りかけます。

「風が吹く。
ときに激しく、嵐のように。
ときに穏やかに、そよ風のように。
すべてのものは、
風となって吹き寄せる空気を呼吸する。
 息はいのち。
息は愛情。
太古の昔から今日にいたるまで、
空気は風の流れとなって
世界中のすべての地域に広がっている。
その空気を私たちも呼吸している。
 空気をもらい、空気を返す……。
まさに、いのちは
一息の間において包まれている。
呼吸の不思議さ。つながり。
同じ空気を肌で感じながら呼吸することによって人も動物も植物も無機物でさえも時代と場所の違いを超えて互いに関わり合いながら一つに結びついている。
 聖霊降臨のときに弟子たちが圧倒的に実感した神の慈しみの力は、神の命の息吹を吸い込んだ弟子たちの呼吸を通して世界中至る所に広がっており、将来も廃れることなく続いていく。
 まさに弟子たちが聖霊降臨の日に呼吸した空気を、あらゆる時代の、あらゆる場所のキリスト者たちも、2000年かけて呼吸し続けてきたのであり、その同じ空気を私たちも呼吸している。もはや、神の慈しみの息吹と無関係な場所も時代もありえないのだ」。

(7)同じ空気を吸っている

 私はこの言葉を読んで、はっといたしました。イエス・キリストが呼吸されたその空気は、今日まで連なっている。イエス・キリストが弟子たちに向かって吹きかけられたその息は弟子たちの中に入り、弟子たちの息となり、この私たちの空気も、その息を共有している。空気は時代を越え、場所を越えて、世界中へ広がっている。2000年前と今日の私たちとの不思議な一体感を感じました。
 私たちは、この後、5月召天者の記念の祈りをいたします。これに際しても私はそのことを思うのです。今、ここで私たちが呼吸しているこの空気は、その方々がここで呼吸しておられた空気と連なっているのです。先週は野原恵子さんと酒井澄子さんのお二人が亡くなられました。その方々が呼吸しておられたその空気を、私たちは今もなお呼吸しているのです。
 その方々にいのちを吹き込まれた方の息を、私たちはまた吸っている。その方々を生かした霊が、私たちにも働いて、私たちを生かしている。イエス・キリストの息とつながり、弟子たちの息とつながっている。私たちの先達、木原先生が呼吸されたその空気、高橋先生が呼吸されたその空気、その同じ空気を、私たちも同じように呼吸しながら、この教会が生かされているということを、感慨深く思います。
 神様は、終わりの日に、もう一度、私たちを立ち上がらされる、と約束してくださっています。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」(使徒言行録2:17)。教会は、その聖書のメッセージを、代々語り伝えてまいりました。私たちも神の息にいかされながら、その福音をのべ伝えてまいりましょう。


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