見える、見えない

〜ヨハネ福音書講解説教(37)〜
イザヤ書42章18〜20節
ヨハネ福音書9章26〜41節
2004年7月4日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)「裁く」ために来た

 ヨハネ福音書の第9章は「生まれつき目の見えなかった人のいやし」に始まり、その後、いろんな問答が続きます。イエス・キリストは、ここで「わたしがこの世に来たのは、裁く為である」(39節)と語られましたが、この言葉は私たちをどきっとさせます。
 ただしこの「裁き」という言葉をあまり早合点でとらえない方がいいでしょう。ヨハネ福音書の別の箇所には、こう記されています。

「神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)。

 この言葉は先ほどの言葉と真っ向から矛盾するかのように見えます。これは、有名な

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)

 という言葉に続くものであり、更にその後には、

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(3:18)

 という言葉が続きます。
 何か謎かけのようですが、ある意味でおもしろいと思います。つまりイエス・キリストは、この世を裁くために来たのではないのだけれども、実際的には、イエス・キリストという存在は、人を裁く働き、人を分ける働きをしてしまうということではないでしょうか。
 「裁く」という言葉は、もともとは「取り分ける」ということでした。これはこっち、あれはあっち。日本語でもそうでしょう。「さばく」という言葉にはいろんな漢字があります。「紙を捌く」という時の「捌」。裁判の「裁」。審判の「審」。微妙に意味は違いますが、もとは同じで、「取り分ける」という意味であったのだろうと思います。「信じない者はすでに裁かれている」とは、「信じられない状態そのものがすでに裁きだ」ということなのでしょう。今の状態です。ということは、この「裁き」とは、何かしら「永遠の刑罰」、「地獄に落ちる」というようなことではなく、その「裁き」の状態から、また「救い」の状態へと導かれることもありうるでしょう。
 今日の箇所(ヨハネ福音書9章の後半)を読んでいきますと、イエス・キリストが人を分ける試金石のような存在であるということが、よくわかります。ファリサイ派の人々の意思が、だんだんはっきりしてくる。それと同時に、目が見えなかった人の意思もはっきりしてくるのです。
 その分かれ目は一体何なのでしょうか。一言で言えば、イエス・キリストを受け入れるかどうかということになるでしょうか。少し別の言葉で言えば、そこで聞く耳をもっているかどうか、自分が他者に対して開かれているかどうかと言ってもいいかも知れません。

(2)預言者

 もう少し丁寧に見ていきましょう。彼は、目を癒された後、喜んで町へ帰っていくのですが、次第に大変な騒ぎに発展していきます。その日が安息日であったのです。彼はファリサイ派の人々のもとへ連れて行かれます。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」(17節)と尋ねられ、「あの方は預言者です」(17節)と答えました。ヨハネ福音書4章におけるサマリアの女の言葉の中にも、この「預言者」という言葉が出てきました(4:19)。「預言者」とは、「神様から遣わされた人」ということです。「神様がかかわっておられなければ、こういうことができるはずがない」という確信はあるのですが、まだ「メシア」とか「救い主」ということではありません。"The Prophet"ではなく、"a prophet"です。しかしこのサマリアの女の場合も彼の場合も、この後少しずつ変化が起こり、信仰が深まっていきます。
 ファリサイ派の人々は、再び彼に尋ねます。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」(24節)。彼はこう答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)。興味深い答えです。彼は、いわば宗教の専門家に向かって堂々としています。自分を絶対化せず、相手を立てる謙虚さがあるのですが、同時に、核心部分の事実については一歩も譲らないという頑なさが表れています。

(3)自分に有利な言葉だけを聞く

 彼らはしつこく問い続けます。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」(26節)。何とかしてイエス・キリストを陥れる証言を得たいと思ったのでしょう。しかし彼はその脅迫に屈せず、ちょっと冷ややかに言います。「もうお話したのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか」(27節)。「何回も同じことを言っているじゃありませんか。」彼らの耳は、あることに向かってしか開いていません。もう結論は決まっているのです。自分は変わる気はない。それに有利な証言だけを聞こうとしている。そのためにはどんな些細な情報も聞き漏らすまいとするのですが、それに反する言葉、自分がやろうとしているのと反対の方向の言葉は、いくら聞いても、耳を素通りしてしまうのです。
 アメリカは、数年前「イラクが大量破壊兵器を持っている」という情報を得ました。それはアメリカがイラクに戦争をしかける大義になるものですから、それを立証するのに役立つ情報であれば、どんな小さな情報でもかき集めたいと思いました。それを知っていて、アメリカに取り入りたいと思う人は、ニセの情報でも疑わしい情報でも提供しました。アメリカはそれに飛びついたわけです。そういうあやしい情報を積み重ねて、何とかして自分がやろうとしていることを正当化しようとしました。自分がアンテナをはっている方向の言葉は極力拾い集めましたが、それに不利な言葉、本当に聞くべき言葉には、耳を傾けなかった。聞いていても聞こえていないかのごとく、素通りしていったのです。
 一方で、「アルカイダが大型テロを計画している。警戒すべきだ」という情報は、「あっそう。前から同じことを言っているね」と、聞き流してしまったと言われます。もはや情報を公平に吟味して、客観的な判断をくだすことができなくなってしまう。そこで、本当のことを言っている相手に対しては、キレてしまい、突然怒り出すのです。「逆ギレ」というそうですね。
 ここでのファリサイ派の人々もどうもそのようです。この目の見えなかった人は続けます。「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」(27節)。ここには少し皮肉がこもっていますが、暗に彼自身はイエス・キリストの弟子になりたいという気持ちが表れていると思います。「預言者です」という言葉から一歩前進しました。ファリサイ派の人々との問答が、彼の気持ちをよりはっきりさせていくのです。

(4)もう何も恐れない

 一方で、ファリサイ派の人々は怒り出します。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」(28節)。プライドを傷つけられたと思ったのです。
 彼の方も黙ってはいません。

「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(30〜31節)。

 彼は、プロの宗教家であるファリサイ派の人々に向かって、すごいことを言いました。「もう、どんなことも恐れない」という強い意志が秘められた言葉であると思います。ファリサイ派の人々は、彼を論理的に説得することはできず、正面から反論することもできず、ただ彼を会堂追放してしまうのです。

(5)「知っている」「知らない」

 この両者のやり取りの中に一つのキーワードがあります。それは「知る」「わかる」という言葉です。「あの者が罪ある人間だと知っているのだ」(24節)。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」(25節)。「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」(29節)。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です」(30節)。
 ここでファリサイ派の人々は、自分たちが、神について、聖書について知っているということを前提に話をしています。「知っている」という意識、それがかえって、他のことに対して閉ざすことになる。その判断基準に当てはまらないイエス・キリストについては「知らない」ということになってしまうのです。逆に「自分は知らない」ということから出発する人間(生まれつき目の見えなかった人)は、かえって自由にイエス・キリストを本物だと見抜くことができたのです。イエス・キリストの、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになるためである」(39節)という言葉は、その事実を指し示しているのでしょう。英語でも"see"という言葉は、「見る」「見える」という意味と「分かる」という両方の意味を持っています。

(6)信仰の前提

 信仰には、「自分は欠けている」「自分だけでは不十分である」「自分だけでは完結していない」ことを知っているという側面があります。主イエスは「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人だ」(マタイ9:12参照)と言われました。言い換えると、「自分は健康だ。丈夫だ。知っている。分かっている」と思っている時には、神様の言葉は入ってこないのです。「心の貧しさ」(マタイ5:3)というのもそういうことを言っているのではないでしょうか。「心の中が空洞である」ということです。そうしたところに神様の言葉がすうっと入ってくるのです。そこが満たされていると、神の言葉は入ってこないのです(ルカ6:24〜25参照)。これは信仰の本質にかかわることです。信仰のパラドックス(逆説)と言ってもいいかも知れません。
 別の言葉で言えば、パウロは「わたしは弱い時にこそ強い」(Uコリント12:10)と言いました。弱さを知っていることが神様に近いことであり、反対に、「自分は強い」と思っていること、あるいは「何かを持っている。何かを知っている」と思うことは、逆に神様から遠いことなのです。
 ファリサイ派の人々が「我々も見えないということか」と憤慨した時、主イエスは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(41節)と、言われました。
 ソクラテスという哲学者は、「無知の知」という有名な言葉を残しました。「私は一体何を知っているだろうか。突き詰めて考えれば、ただ一つだけ確実なことがある。それは『私は知らない』ということを知っているということだ。」信仰というのもそれと似たところがあります。私は知らない。私は見えていない。それを自覚していることが、信仰の入口であります。
 ただそのことだけでは、まだ信仰とは言えません。「自分は弱い者だ。自分は欠けている。」それだけだと、自己卑下して終わってしまうかも知れません。それを満たすお方がおられる。イエス・キリストは、その私を救ってくださる。私を導いてくださる。そこへと続く時に初めて、信仰になるのです。

(7)ひざまずく

 この目の見えなかった人は、会堂を追い出された後、イエス・キリストに再び出会います。主イエスの「あなたは人の子を信じるか」(35節)という言葉に、彼は、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」(36節)と答えました。主イエスは続けられます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(37節)。彼は、「主よ、信じます」(38節)と言って、イエス・キリストの前にひざまずきました。この時、彼の中で、何となく予感していたものがぴたっとつながりました。決定的な信仰へと導かれ、この方こそが、「救い主」(人の子)であることがわかったのでした。
 「ひざまずく」というのは、信仰の姿勢を表しています。私たちは洗礼を受ける時、ひざまずきます。また私たちの教会では、聖餐を受ける時にも、原則としてひざまずいて、これを受けます。もちろんこれは一つの形式であり、体の面でひざまずくことができなくても、心はひざまずくのです。立って祈る時にも、座って祈る時にも、心がひざまずいていることが重要であります。
 今日もこの後、聖餐式を行います。私たちも、この目の見えなかった人と同じように、「主よ、信じます」と言って、その前にひざまずいて、これに与りたいと思います。


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