一つの群れになる

〜ヨハネ福音書講解説教(39)〜
エゼキエル書34章23〜31節
ヨハネ福音書10章14〜30節
2004年9月12日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)「囲いの外の羊」とは

 本日は、ヨハネ福音書の第10章の14節から読んでいただきました。「わたしは良い羊飼いである」という言葉から始まっていますが、この言葉は11節にも出てきています。前回は、この言葉をめぐって、「良い羊飼い」とはどういう羊飼いであるかということを、二つの対比、つまり、盗人との対比と、雇い人との対比においてお話をいたしました。
 さてこの羊と羊飼いについて、イエス・キリストは、ここで更に新しいことを語られました。

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。

 「この囲い」とは、一体何でしょうか。この言葉には一体どういう意味があるのでしょうか。考えれば考える程、深い意味と味わいのある言葉であるように思います。

(2)「イスラエルの民」という囲い

 本来、この言葉がユダヤ人のファリサイ派の人々に向かって語られたことを考えますと、第一義的には、この囲いの内と外というのは、イスラエルの民と異邦人という風に読むことができるでありましょう。イエス・キリストは、イスラエルの歴史において、ダビデの子として待望されたメシア(救い主)でありました。そのことは、このヨハネ福音書よりもマタイ福音書において強調されています。最初から、「救い主イエス・キリストの系図」という長い系図があって、イエス・キリストがどういう系譜の中でお生まれになったのかが示されます。旧約聖書の引用もたくさんあります。
 またマタイ福音書には、次のようなエピソードが記されています。ある異邦人の女性(カナンの女)が主イエスの前に現れて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(マタイ15:22)と懇願いたしました。その時に、主イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、この女性の願いを退けられます。この言葉からすれば、イエス・キリストは、第一義的には、「イスラエルの家の失われた羊」のために来られたということになります。旧約聖書時代より待ち望まれてきたメシアが、ついにやって来られたということです。
 しかしそのことは、不思議にそれを超えていくのです。このカナンの女の場合にもそうでした。イエス・キリストは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(同26節)と更に追い討ちをかけるような言葉を語られるのですが、それにもかかわらず、彼女は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(同27節)と食い下がりました。それに対して、主イエスはとうとう、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(同28節)と語られ、そのとき、彼女の娘の病気は癒されました。
 イエス・キリストご自身が、自分を限定しようとしているにもかかわらず(この時はまだその時ではなかったのでしょう)、同時にその囲いを越えていく力が働いているのです。イエス・キリストの愛は、限定することができない。限定しようと思っても、それを突き破っていく。その様子が、よく表れていると思います。イスラエルの民が囲いの中、異邦人が囲いの外。それが第一義的な意味です。

(3)「ユダヤ人クリスチャン」という囲い

 二つ目に、この福音書が書かれた当時の時代状況を考えてみましょう。ヨハネ福音書記者がこの福音書を記した時には、すでにキリスト教会が生まれていました。しかし同じキリスト教会の中でも、ユダヤ人教会と異邦人教会がありました。最初のクリスチャンたちは、ユダヤ人でありました。ユダヤ教からキリスト教になった人たちです。ペトロを初め、イエス・キリストの直弟子たちはみんなユダヤ人たちです。彼らは選民意識ももっています。そこに異邦人クリスチャンが加わっていく。使徒言行録はそのあたりの事情を詳しく書いています。対立も書いています。結局、ペトロたちはエルサレム教会の中心になっていき、パウロは異邦人伝道に携わるようになります。パウロのガラテヤの信徒への手紙などを読んでおりますと、「異邦人クリスチャンは割礼を受けなくてもいいのか」というようなことが細かく記されています。ユダヤ人クリスチャンたちは自分たちこそ囲いの中にいる羊と思っていたでしょうけれども、その囲いの外にも異邦人クリスチャンがいたのです。そういう視点で、この言葉を読むことができるでありましょう。

(4)「ローマ・カトリック」という囲い

 さらにこの言葉は、聖書の時代を超えて、現代にまでつながるメッセージをもっていると思います。
 例えば、ローマ・カトリック教会は、自分たちこそ、正統な、まことのキリスト教会だという自己理解をもっております。1964年の第二バチカン公会議までは、「カトリック教会の外に救いなし」と言っていた程です。
 イエス・キリストがシモン・ペトロに「お前はペトロ(岩)だ。お前に天の国の鍵を授ける」(マタイ16:18〜19参照)とおっしゃったけれども、その「天の国の鍵」をずっと、リレーのバトンのように受け継いできたのが、ローマ法王だという風に考えます。ですから他の教会も、なるほどに正しいことを言っているかも知れないけれども、確かな保証をもっているのはウチだということになります。しかし、第二バチカン公会議以降、カトリック教会は随分変わっていきました。「他の教会も正しいイエス・キリストの教会だ」ということを認めて、むしろエキュメニカル運動は、カトリックの第二バチカン公会議に促されて、急速に進展していきました。
 私は、その背景にはこのイエス・キリストの言葉、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」という言葉が、あり、この言葉が閉鎖性を突破させる役割を果たしたのだと思います。
 私たちプロテスタントからすれば、「そうか私たちは囲いの外の羊だったのか」という感じもしますが、これはカトリック教会にとっては非常に大きな決断であったと思います。今でもカトリック教会の聖餐(聖体拝領)に、教会規則上は、プロテスタントの人は与ることはできません。(もっとも現場の教会、草の根レベルでは、大分ゆるやかで、私はブラジルでカトリック教会の司祭たちといろんな交わりがありましたので、聖体拝領に招かれて与りました。)

(5)「キリスト教会」という囲い

 さて、私たち自身はいかがでしょうか。私たちは私たちで囲いを主張し、閉鎖的になってはいないでしょうか。
 イエス・キリストは、「私は門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(ヨハネ10:9)と言われます。あるいは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と語られました。言い換えれば「イエス・キリストによらないでは誰も救いに入ることはできない」ということでしょう。この言葉は、一見、非常に閉鎖的な言葉であるように見えます。
 そのことから、カトリックに限らず、私たちプロテスタント教会も「教会の外に救いなし」ということを語ってきました。しかし私は果たして教会がそこまで言っていいものだろうかと思うのです。教会が語るべきことは、「ここにこそ救いがある」ということです。「イエス・キリストは、教会に天国への鍵が預けられた。ここに来たれ。」しかし神様は教会を超えたお方であります。神様の働きは、自由です。風のようにどこにでも働くことができる。神様が働こうとするならば、神様はどこでも働くことができる。その自由な、そして不思議な神様の働きを、教会があたかも自分たちの専売特許であるかのように独占することはできない。神様の働きをそのように狭めてしまうことは、言い過ぎではないかと思うのです。
 「誰もイエス・キリストによらないでは救いにいることはできない」。これは真理であろうと思います。しかしその言葉は、必ずしも「イエス・キリストを救い主と告白した人間だけが救われる」ということを言っているのではなく、もっと広いことを言っているのではないでしょうか。イエス・キリストは御心に適った人を誰でも救うことがおできになるでしょう。ですからこれは、誰かが救われるところでは、必ずイエス・キリストが働いておられるという恵みの事実を言い表した言葉であると思うのです。目に見えない形であるかも知れない。その人の意志を超えたところであるかも知れない。しかし、イエス・キリストがかかわって、私たちは救いに入れられるのだ。そういう深い真理を語っているのではないでしょうか。
 (逆に、イエス・キリストの名前を名乗っていたとしても、ただその名前を濫用して、実は神様の御心に背いたことをしているということもあるでしょう。)
 そういう深いところでの神様の御旨、教会を超えてさえ、神様は自由にお働きになるということを、私たちはわきまえておく必要があるのではないでしょうか。
 私たちは、神様の業、イエス・キリストの業というものを、とかく狭めて考えがちですが、神様の働きは私たちの想像をはるかに超えて進むものなのです。
 特に今日、民族間の対立、宗教間の対立、無理解、そういうことが世界中に渦巻いています。そうした中で、違った者がいかに共に生きていくか、いかに地球の将来を共に担っていくかということを考えるのは、緊急の課題です。「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる」というイエス・キリストの言葉を、私たちクリスチャンは、自分自身を吟味する言葉として受けとめたいと思うのです。
 ここに不思議な言葉が記されています。「その羊(囲いの外の羊)をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」(16節)。囲いの外の羊もイエス・キリストの声を聞き分けるというのです。
 これは、クリスチャンではない人も、イエス・キリストの声を聞いて、「確かに彼は正しいことを言っている」とわかるということではないでしょうか。私はそういうところに、この世界の将来を共に担っていく同志を見出すことができるのではないかと思っています。
 一つの例として、インドのマハトマ・ガンディーのことを思い起こすのです。彼は、イエス・キリストの山上の説教から多くのことを学んで、非暴力抵抗運動を実践していきました。彼はヒンドゥー教徒であったことからすれば、イエス・キリストの「囲いの外の羊」であったと言えるように思います。そしてこのヒンドゥー教徒のガンディーから、クリスチャンのマーティン・ルーサー・キング牧師が非暴力抵抗運動を学んでいくのです。これは本当に不思議な神様の働きであると思います。「囲いの外の羊も、私の声を聞き分ける。」
 イスラーム教を信じる人たち。他の信仰に生きる人たち。そこにも真理がありうる。ということを見る視点が必要であろう。イエス・キリストのこの囲いの「内」と「外」というのは、そこまで見据えているのではないでしょうか。

(6)「経堂緑岡教会」という囲い

 さらにまた自分たちの教会、「経堂緑岡教会」という小さな「囲い」についても、考えるべきでありましょう。それは囲いを取り外すということではありません。経堂緑岡教会という枠がある。囲いがある。それはその通りです。そしてその囲いの中の羊は、経堂緑岡教会の牧師である私の一番の責任範囲であります。誰かが経堂緑岡教会の教会員になるということは、その方が正式に「囲いの中の羊」として、私の牧会の責任対象になるということを意味しています。しかしそのことは、経堂緑岡教会の外にも多くの羊がいるということを排除するものではありません。イエス・キリストの働きにかかわっていくということは、どうしてもそういう範囲を超えていくものです。神様は、そのような囲いを越えたところで、一人一人の牧師なり、クリスチャンなりを、自由に、大きな計画の中でお用いになるのであろうと思います。「こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。私たちの小さな視野ではなかなか理解できない神様の計画の中で、大きなことが実現していくのではないでしょうか。

(7)「人間」という囲い

 さらに、この言葉はもしかすると、「神様が守られるのは、人間だけはない。他の動物たち、あるいは他の生物たちのことまで、御自分の羊として配慮しておられる」ということまで言っているのかも知れません。最近のエコロジー神学の視点から、この言葉をそのように読むことができるかもしれないと思います。私たちの想像をはるかに超えたところで、神様の業は進展していくのです。
 そして神様はそのためにイエス・キリストを遣わし、イエス・キリストはそのために命を捨ててまでかかわってくださった。まことの羊飼いであることを示された。私たちはそこにある恵み、だからこそ私にまで及んだのだという恵みを、独占しないで、深く感謝して受け取りたいと思います。


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