業を信じるとは

〜ヨハネ福音書講解説教(40)〜
イザヤ書35章1〜7節
ヨハネ福音書10章22〜42節
2004年10月3日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)世界聖餐日

 本日は10月第一日曜日、世界聖餐日であります。世界聖餐日は、エキュメニカル運動の中で1950年代にWCC(世界教会協議会)で定められたものです。この日、世界中のキリスト教会が教派を超えて、聖餐式を祝います。いち早くこれを実施し始めたのはアメリカ合衆国の教会でありますが、その後世界中の教会に広まりました。日本基督教団でも1958年の教団総会で「世界聖餐日」をまもることを決議いたしました。
 世界聖餐日は、世界中の異なった教派、文化、政治・経済体制の中にある個々の教会が主イエス・キリストの体であるパンと、血であるぶどう酒(汁)を分かちあうことを通して、キリストの一つの体であることを確かめ合い、さらにそれぞれの教会が直面している課題を担いあい、支えあうことを目指しています。私たちもこの礼拝で、一人の主のもとで一つの家族であるということを覚えたいと思います。
 今日はその世界聖餐日にふさわしい御言葉が与えられたと思っています。今日のテキストの中に「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」(38節)という言葉がありますが、さまざまな違いはあっても、この「業を信じる」というところで一致できるのではないかと思うからです。

(2)神殿奉献記念祭

 今日は、ヨハネ福音書の第10章22節から読んでいただきました。新共同訳聖書では「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という題が付けられています。厳しい言葉です。5章以来、ユダヤ人の宗教的指導者たち、特にファリサイ派の人々とイエス・キリストの論争が何度も起こり、その都度、対立が深まってきました。この10章の終わりは、その対立が決定的になったことを記しております。
 「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われていた。冬であった」(22節)。この神殿奉献記念祭というのは、ユダヤ人の祭りの中では比較的新しい出来事に由来しています。紀元前170年にエルサレム神殿が、シリアの王ピネファスによって侵略され、シリアの軍隊がこの神殿を占拠しました。そして、このエルサレム神殿の中でギリシャの神々を礼拝し始めたのです。イスラエルの人たちは、これに強く反発し、とうとうマカベウスのユダという人物が紀元前164年に、エルサレム神殿を奪回いたしました。そこで改めて聖書の神ヤハウェをその祭壇で礼拝したのが、この神殿奉献記念祭の由来です(『旧約聖書続編』の中のマカバイ記一4章参照)。その時に神殿を建てて奉献したのではなく、奪回していわば再奉献したことになります。以前の口語訳聖書では「宮きよめの祭り」と訳されていました。
 ヨハネ福音書記者が、「神殿奉献記念祭」(宮きよめの祭り)に言及しているのは、ここでイエス・キリストがなされることは、いわば、一種の「宮きよめ」であったという含みがあるような気がいたします。当時の宗教家たちによって堕落し汚れてしまったものを、もう一度、元へ戻すということです。「冬であった」というのも、彼らとの議論が非常に厳しいものであったことを象徴しているのかも知れません。いずれにしろ、この後ユダヤ人たちは、イエス・キリストを殺さなければならないと決意するのです。

(3)「わたしと父は一体である」

 彼らは、イエス・キリストに向かって、このように問いかけました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)。彼らはイエス・キリストのことでやきもきし、いらだっていました。もっともイエス・キリストが「そうだ。わたしはメシアだ」と言われたとしても、果たして信じたかと言えば、そうではなかったでしょう。イエス・キリストご自身が、その問いかけに対して「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」(25節)と答えられました。
さらに主イエスは彼らの問い以上に、もうひとつ踏み込んだことを述べられました。「わたしと父とは一つである」(30節)。メシアということであれば、まだ人間であります。神様の御用のために働きますが、それはあくまで人間としてです。しかし主イエスは、その一線を踏み越えた答えをされたのです。ここで彼らの怒りは頂点に達しました。
 再び石を取って投げつけようとしました。「再び」というのは、8章の終わりにも一度そういうことがあったからです。一触即発の状態です。あの時は主イエスが、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(8:58)と言われ、ご自分をアブラハム超える存在と位置づけられたので、彼らはそのことにがまんがならなかったのです。さらにその前の5章では、モーセを引き合いに出して、「モーセは、わたしについて書いている」(5:46)とも言われました。つまりモーセよりもアブラハムをも超えた存在として語っておられる。彼らにしてみれば、もうこれ以上、聞くに耐えない。傲慢の極地。神を冒涜した言葉だと思い、石を投げつけようとしたわけです。「あなたは、人間なのに、自分を神としている」(33節)。

(4)詩編82編の引用

 もしもイエス・キリストがただの人間であれば、彼らの言うことは当っていたでしょう。それをどこで見極めればいいのでしょうか。彼らの問いかけに対して、イエス・キリストは直接的には、旧約聖書の引用で答えておられます。

「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受け入れた人たちが『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」(34〜36節)。

 これは、詩編82編1節の言葉を下敷きにしています。
「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる」という言葉です。一神教のユダヤ教・キリスト教なのに、どうして「神々」などと言われるのだろうか、と思われる方もあるでしょう。確かにこの「神々」という表現に、私たちは抵抗がありますが、これはあくまで人間のことであり、指導的な責任をもっている人たちのことだと言えます。神々にたとえられるほど尊い(はずの)存在という意味で、こういう表現をしているのです。詩編はこう続きます。

「いつまであなたたちは不正に裁き、
神に逆らう者の味方をするのか。
弱者や孤児のために裁きを行い、
苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い、
神に逆らう者の手から助け出せ」
(詩編82:2〜4)

 神々にたとえられる程の存在がそれにふさわしい裁きをしていないではないか、ということです。一種の皮肉とも取れます。
 さて、ヨハネ福音書の方にかえりますと、主イエスの答えは、「聖書の中でも、神の働きをなすべき人を『神々』と呼んでいる。きちんとその使命を全うしていないような人も『神々』と呼ばれているとすれば、父の御心を行っている私が『わたしは神の子である』と言っても神を冒涜したことにはならないはずだ」という論理です。
 これは彼らの訴えを表面的に退けるための応答でしょう。言葉での反論です。しかしそのように彼らの訴えを退けたとしても、まだ腑に落ちないという気がします。本当に聞きたいのはその先のことでしょう。イエス・キリストは、特別な存在なのか。救い主なのか。神に等しい方という意味で、神の子なのか。それが知りたいのです。

(5)洗礼者ヨハネの問い

 彼らは悪い思いで、この問いを主イエスにぶつけましたが、信仰者であっても同じ問いを持つものです。「もしもあなたが本当に救い主であれば、そう言ってください」。事実、興味深いことに、イエス・キリストの道備えをしたと言われる洗礼者ヨハネも同じような質問をしました。
 彼は当時の為政者であった領主ヘロデの罪を指摘して、逆に怒りを買い、牢屋に入れられていました。やがて首をはねられて殺されることになるのですが(マタイ14章参照)、彼は牢屋の中から、イエス・キリストのもとに弟子を派遣いたします。そして弟子にこう尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3)。「もしあなたがメシアなら、はっきりそう言いなさい」という問いと共通するものがあるのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは不安になった弟子たちに確信をもたせるために、このようなことをさせたのだという理解もありますが、私はやはり洗礼者ヨハネ自身が最期の時に、「本当にこの人が、私たちの待ち続けた救い主であったのであろうか」、「自分はこの人に自分の人生をかけてきたのだけれども、それでよかったのだろうか」ということを、確かめたくなったのだと思います。
 イエス・キリストはヨハネの弟子たちに何と答えられたでしょうか。「そうだ。私が救い主だ。間違いない。安心しなさい」。彼らはそういう答えを期待していたでしょうが、そうは言われませんでした。言葉で、そう言うのは簡単なことでしょう。しかしそう言われたからとて、不安が消え去るわけではありません。ペテン師だって、きっと同じことを言うに違いないからです。
 イエス・キリストは、ヨハネの弟子たちに向かって、こう言うのです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11:4〜5)。
 つまり「私が来たことによって何が起こっているかをよく見て、それをヨハネに伝えなさい」と言ったのです。「目の見えない人は見え」以下の言葉は、今日お読みいただいたイザヤ書35章に記されていることです。「イザヤの預言したことが今ここに実現している。その事実をよく見なさい。その業をよく見なさい。そうすれば、私があなたがたの待っていたメシアかどうかがわかる。」
 もちろんそれでもみんながみんなわかるわけではありません。ですから「わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイ11:6)と付け加えられたのです。そこから先はこちら側に委ねられるのです。「信じる」というのは、そういうことではないでしょうか。「疑う」ということと裏表なのです。「疑う」ということがあるから「信じる」というのです。単なる論理的説明ではない。その間には、それを見分けるさまざまなしるしがあって、それによって、私たちが、「そうだ。この人に自分を賭けてみよう」という決断を伴ってくるものです。そこに自分の実存、あるいは人生を賭けていって始めて、それまでは見えなかったものが見え、わからなかったことを悟るのです。そういう世界です。

(6)知り、悟る

 主イエスは彼らに向かって、「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」(25節)と言われました。またこの問答の終わりに「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい」(37〜38節)と言われました。これはイエス・キリストの一種の譲歩でありましょう。
 「私を信じられないというならば、それでもいい。しかし私の業を見て欲しい。何がここで起こっているか。そうすれば、わたしが父なる神の御業を行っているということがわかるはずだ。私がどうだというよりも、ここに神の国が始まっている。そのしるしを見て取って欲しい。そこから、私と父なる神の関係が見えてくるのではないか」というのです。「わたしは父の中にあり、父はわたしの中にある」(38節)。それを「あなたたちは知り、また悟るだろう」(38節)と言う。「知る」だけでは不十分です。そこから悟らなければなりません。「確かにこの方は、神から遣わされた救い主だ」ということは、聞くだけではなく、自分で悟るべきことなのです。

(7)主イエスの業が指し示すところ

 ここで主イエスがおっしゃっている業とは何でしょうか。直接的には、盲人の目を開けられたことかも知れません(9:7)。それも不思議な超能力というよりは、愛のあらわれだと思います。さらに、イエス・キリストの業というのは、それを超えて、イエス・キリストの生涯全体で示された業、特に十字架にかかるという業を示しているのではないでしょうか。それは愛の結実でありました。神様の愛がそこに集約されているのです。
 私は、全く違った背景の教会が、共に世界聖餐日を祝うという時にも、そこに立つならば、つまりイエス・キリストの業に集中するならば、一致点が見えてくるのではないかと思うのです。さらにそれはまた、イエス・キリストを信じない人、別の宗教を信じる人も、「そのなさった業(は本物であったこと)を信じる」というところで、キリスト教という枠を超えて、その業が指し示すところに従って、共に歩む輪が広がっていくのではないでしょうか。


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