神の栄光のため

〜ヨハネ福音書講解説教(41)〜
詩編139編11〜18節
ヨハネ福音書11章1〜16節
2004年10月10日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)マルタ、マリア、ラザロ

 ヨハネ福音書の第11章は、ラザロの復活の物語として知られています。ヨハネ福音書の中でもひときわ異彩を放つ物語であり、ヨハネ福音書前半のクライマックスでもあります。
 「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」(1節)。マルタとマリアと言えば、ルカ福音書10章に記されている別の物語でご存知の方も多いでしょう。「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」(2節)と記されていますが、これはこの後の(ヨハネ福音書)12章に出てくる話です。このマルタとマリアの姉妹に、ラザロという兄弟がいました。兄であったのか弟であったのかはわかりません。愛し合っていた兄弟姉妹のようです。そしてイエス・キリストもこの兄弟姉妹を愛しておられました。ベタニアという町は18節によれば、エルサレムに近く(15スタディオン、約2.7キロ)、エルサレムへ行かれる時は、いつもこのベタニアのマルタとマリアの家から通われたと言われます。
 そのように主イエスに親しいラザロが病気になりました。しかもかなり重い病気、命にかかわる病気です。マルタとマリアは、主イエスのもとへ使いを送りました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)。しかしイエス・キリストはすぐには動きませんでした。弟子たちはほっとしたことでありましょう。なぜなら、エルサレムにおいて、主イエスは命をねらわれていたからです。10章の終わりに、次のように記されていました。

「そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」(10:39〜40)。

 「そこ」(ヨルダンの向こう岸)は安全だったのです。
 ところが二日経ってから、主イエスは突然、「もう一度、ユダヤへ行こう」(7節)と言い出されました。ユダヤ地方というのは、エルサレムやベタニアがあるところです。弟子たちはびっくりして、「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(8節)と言いました。

(2)なぜ二日待たれたのか

 弟子たちは、イエス・キリストがすぐに出かけられなかったのは、ユダヤ人を警戒して避けるためだと思ったでしょうが、それは違いました。イエス・キリストが二日間待機しておられる間に、ラザロは死んでしまいます。
 イエス・キリストは、「この病気は死で終るものではない」(4節)と言われました。前の口語訳聖書では、「この病気は死ぬほどのものではない」と訳されていましたが、それだと、「大した病気じゃない」という風に誤解されかねませんので、新共同訳でよくなったと思います。軽い病気ではないのです。事実、彼は死んでしまいます。主イエスは、その病気を甘く見ておられたというのではありません。死ぬほどの病気であることは認識しておられたのです。死んでも、それで終わりではない、ということなのです。
 二日間待ったというのは、ラザロが死んだということがはっきりするまで待たれたのだと思います。瀕死の状態であっても、生きているうちならば、まだ治る可能性もあるでしょう。しかしはっきりと、主イエスのおかげで生き返ったのだということが分かるために、時を引き延ばされたのです。「この病気は死で終るものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」(4節)というのは、そういうことであります。
 すべての人間の可能性が閉じるところで、神の可能性が始まるのです。創世記にアブラハムとサラの物語があります。二人には星の数のような子孫が与えられると約束されているのに、子どもが与えられません。サラは子どもを産むには、年を取りすぎました。もう人間的可能性は尽きています。しかしそこで神の可能性は始まるのです。アブラハムは99歳、サラは89歳。「来年の今ごろ、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(創世記18:10)という約束を聞いた時、サラはひそかに笑いました。「そんなことあるもんか」と思ったのです。しかしそのサラに、主は言われました。「なぜ笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」(創世記18:13〜14)。そして一年後、約束どおり、アブラハムとサラの間に、イサクが与えられました。「主に不可能なことがあろうか」。この言葉が、聖書を貫いているのです。

(3)最もふさわしい時と形

 私はこの教会に赴任した最初の説教で、カナの婚礼の話をしました(ヨハネ2章)。イエスの母マリアは、息子イエスに向かって、「ぶどう酒がなくなりました」と訴えるのですが、イエス・キリストは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と、その訴えを退けられたかのように見えました。しかし退けられたのではなく、より良い時とより良い形を準備しておられたのです。祈りは聞かれるのです。いやすでに聞かれている。しかし神様は時を延ばされることがある。神さまはそれに最もふさわしい時と最もふさわしい形を選ばれるのです。
 この時の「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)という言葉もしっかり聞かれていた。イエス・キリストに届いたのです。しかしどのようにして聞かれるかは、わからない。必ずしも彼女たちが期待していた形ではなかった。彼女たちが期待していたのは、何とかラザロが息を引き取る前に、イエス様に来て欲しいということでした。しかしイエス・キリストはさらに二日間待たれたのです。主イエスがベタニアの彼らの家に到着した時、ラザロはすでに死んでいました。最初に飛び出してきたのはマルタでありました。彼女は言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(22節)。マルタらしい素早さであると思います。
 しかしながら、人間的可能性が完全に閉じてしまうところでこそ、神の可能性が開けるのです。神の栄光が現れるためであります。もはや神様の働き、イエス・キリストの働き以外の何物でもないことを知ることによって、神の栄光をほめたたえるためです。「神の栄光が現れるために」というのは、私たちが今年度の教会標語「開かれた教会」の副題として掲げているものであります。

(4)愛に突き動かされて

 主イエスは、マルタとマリアとラザロ、この兄弟姉妹を心から愛しておられたとあります(5節)。この愛が主イエスを突き動かしたのです。そうでなければ、このヨルダンの向こう側を出られなかったでしょう。ここにじっとしていた方がいいのです。愛は、そのように留まっていることができないのです。弟子たちは、主イエスに向かって言います。「今出かけることは非常に危険です。死にに行くようなものです」。一緒に行くとすれば、自分たちの命も危ないと思ったのかも知れません。何とかしてやめさせたいのです。
 しかし主は「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし夜歩けばつまずく。その人の内に光がないからである」(9節)。もちろんこの言葉には象徴的な意味がありますが、表面的な意味としては、「いかに彼らが私をねらっても昼間は手を出せないよ。いっぱい見ている人たちがいるからね」ということでありましょう。彼らは、夜、誰も見ていない時をねらってこそこそと動き、イエス・キリストを捕らえようとするのです。実際、イエス・キリストが捕らえられたのは、誰もが寝静まっている夜明け間近、オリーブの園において、でありました。
 イエス・キリストは、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(12節)と言われました。弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と答えます。これは的外れな答えですが、その答えの陰には、やはり「何とかして主イエスを行かせたくない」という思いがあったのでしょう。

(5)「一緒に死のうではないか」

 その時、弟子の一人、トマスは仲間たちにこう言います。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)。興味深い言葉です。主イエスと他の弟子たちとのやり取りを見ていたトマスが、とうとういても立ってもいられなくなったのでしょう。「先生が行こうとおっしゃっているのに、何をぐずぐずしているんだ。死ぬのがこわいのか。先生も死を覚悟しておられるならば、私たちもそうしようではないか」。このトマスという人はおもしろいですね。ちょっと短絡的ですが、ストレートで、わからないことはわからないと言う。憎めない性格です。イエス・キリストが復活された時、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)と言った人です。
 もちろん主イエスも、危険は承知の上です。そして実際、ラザロを復活させたことが、決定的にユダヤ人たちに「イエスを殺さなければならない」という決意をさせる事件となります。しかしながら、この時は主イエスはまだ死ぬつもりではありませんでした。死ぬために出かけられたわけではなく、あくまで愛に突き動かされて、ラザロを復活させるために出かけられたのでした。

(6)神学校日を覚えて

 今日は神学校日であります。神学校を覚えて祈り、同時に神学生を覚えて祈る日であります。さらにこれから伝道者になるという志を立てる人もいるでありましょう。そのすべての人が牧師になるわけではないかも知れませんが、その志を祈りのうちに育んで差し上げたいと思います。どういう形で、その祈りが聞かれるか、またいつ聞かれるかわかりませんが、その祈りは必ず何らかの形で聞かれる、いやすでに聞かれているということを信じていただきたいと思うのです。
 ただ献身して牧師になるということは、自分の願い、自分の夢を実現させるということではありません。それはあくまで主イエスの弟子になることです。自分が出世するためではありません。それによって自分を輝かせるのではなく、「神の栄光のために」なされるべきことであります。そこで神様がほめたたえられるようになること。それが究極の目的です。その「神の栄光のために」ということの前で、他のすべてのことは後退していくのです。
 伝道者として歩むということは、決して「わが道を行く」ということではない。愛によって突き動かされたイエス・キリストの熱意を受けて、私たちもそれに突き動かされて従っていくのです。主イエスは、弟子たちに向かって、「わたしたちの友ラザロが眠っている」と言われました。「わたしの友」と言わないで、わざわざ「わたしたちの友」と言われた。動こうとしない弟子たちを突き動かし、巻き込もうとしておられるのではないでしょうか。ここに温度差があります。主イエスは熱くなっておられるのに、弟子たちは冷めている。主イエスが、彼らを召そうとしているのに、彼らは煮え切らず、ぐずぐずしているのです。

(7)内側からの光を携えて

 ところがおもしろいことにその反対もあるのです。トマスの場合がそうではないでしょうか。主イエスはまだ死ぬつもりではないのに、トマスは「一緒に死のうではないか」と口走っている。これは、かーっとなって主イエスを追い越してしまい、ヒートアップしてしまったケースのように思います。伝道というのは、あくまでイエス・キリストが先立ち、それに従うことです。召しがあるのに、それに応えなければ伝道になりませんし、思いが先立って熱くなるだけでも伝道にはなりません。
 しかしこのトマスも決して退けられた訳ではありませんでした。このトマスの熱意が受け入れられていく。伝説によりますと、彼は後にインドまで伝道に行ったと伝えられています。それが事実であるとすれば、「イエス・キリストに従いたい」という情熱が、しっかりと受けとめられて、彼の願いをはるかに超えて、それが実を結んでいったと言えるのではないでしょうか。
 私たちもいろんな状況の中で、イエス・キリストという内なる光を携えて(10節参照)、何が御心であるかを祈り求めながら進んで行きたいと思います。その光が私たちに進むべき道を照らし、示してくれるのではないでしょうか。
詩編139編を、読んでいただきました。

「わたしは言う。
『闇の中でも主はわたしを見ておられる。
夜も光がわたしを照らし出す。
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放ち、
闇も、光も、変わることがない」
(詩編139:11〜12)

 私たちもこの光によって、牧師も信徒も神学生も、イエス・キリストの弟子として、伝道の業に励みたいと思います。


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