涙を流すイエス

〜ヨハネ福音書講解説教(43)〜
創世記23章1〜4節
ヨハネ福音書11章28〜37節
2004年10月31日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)宗教改革記念日

 本日、10月31日は宗教改革記念日であります。マルティン・ルターという人物が1517年の10月31日にウィッテンベルク城教会の扉に95か条の提題(質問書)を貼り、当時のカトリック教会に抗議(プロテスト)しました。このことから、10月31日はプロテスタント教会の誕生日とまで言われるようになりました。当時のカトリック教会が、「免罪符」を発行してお金を集めるなど、ある意味で腐敗しておりましたので、ルターが抗議したような形になりましたが、カトリック教会でもその後反宗教改革と呼ばれる教会の刷新運動が起こることになります。
 今日、特に20世紀の半ば以降は、エキュメニカルな時代、カトリック教会とプロテスタント教会が共に歩むべき時代となりました。その20世紀の総決算のような形で、1999年10月31日に、世界ルーテル連盟とローマ・カトリック教会は、「救いは信仰による」と確認する共同宣言に署名をし、教義上の根本問題において歴史的な和解をしました。この出来事は、世界のエキュメニカル運動の大きな一歩でした。この宣言を日本のカトリック教会とルーテル教会が共同して、日本語に翻訳したものが、つい先日出版されました(『義認の教理に関する共同宣言』教文館、10月13日)。
 21世紀は、さらにその交わりが深められ、対話がなされていくことでありましょう。そうあるべきであると思います。

(2)三つの「のみ」

 ちなみに宗教改革の精神というものは、三つの「のみ」ということで表現できようかと思います。それは、「信仰のみ」「聖書のみ」「キリストのみ」ということです。
 「信仰のみ」というのは、「救い」に関してです。当時のカトリック教会では、救いは「信仰と行い」による、と言われていました。その「行い」には、免罪符の購入なども含まれていたのです。私たちは「行い」、つまり何かいいことをすることによって救われるのではなく、「信仰によってのみ」救われる、というのが、宗教改革の根本精神です。これは、突き詰めれば、「恵みによってのみ」ということにもなります。
 「聖書のみ」というのは、「信仰の規範」についてです。それまでは、私たちの信仰は「聖書と伝統」に基づくと言われていました。「伝統」ということの中には、さまざまな聖人伝説など、聖書と関係のないものも含まれてきます。それに対し、宗教改革者たちは、いや信仰の規範は「聖書のみ」だと言いました。
 もうひとつの「キリストのみ」というのは、父なる神様と私たちの間に立つ仲保者は、イエス・キリストだけだということです。ですからイエス・キリスト以外に、母マリアや聖人などを特別扱いすることはありません。特別なのは、イエス・キリストだけ。それ以外は「万人祭司」です。
 これらを突き詰めていけば、カトリック教会にとっても大事な信仰の原点を指し示していると思います。そう変わらない。事実、最初の点は、「救いは信仰による」というところで一致点が示されました。私たちの信仰をどこに、どのようにしてもつかという大事なことを宗教改革者たちは教えてくれたと言えるでしょう。この宗教改革の精神に立ち返ることよって、私たちも信仰を新たにしていきたいと思います。

(3)私を呼んでおられる

 さて私たちは、ヨハネ福音書の11章を読んでいます。前回は、マルタとイエス・キリストの会話でしたが、今日はそれに続いてマルタの姉妹マリアが登場いたします。マルタは自分が主イエスと話した後、家へ帰ってマリアを呼びに行きました。そしてそっと耳打ちしました。「先生がいらして、あなたをお呼びです」(28節)。マリアはそれまでずっと泣いていたのではないでしょうか。マルタが先に出て行ったことも気づかなかったかも知れません。あるいはわかっていたけれども、体が動かなかったのかも知れません。マルタとマリアの反応が対比的に描かれています。しかしマルタの言葉を聞くと、マリアはすぐに立ち上がり、主イエスのもとへ参りました。「イエス・キリストが来られた」という言葉だけでは動けなかったものが、「イエス・キリストが他ならぬ自分を呼んでおられる」という言葉が彼女を突き動かしたのです。これは、私たち一人一人にとっても、同じではないでしょうか。「イエス・キリストが来られた」というのはクリスマスのメッセージと言うこともできますが、まだこれだけでは一般的な言葉です。しかし「イエス様が私を呼んでおられる。」「私のために来られた。」この言葉に、私たちは動かされていくのです。
 イエス・キリストは村には入らずに、村の外で待っておられました。そのままラザロのお墓を訪ねるために、村の外で待っておられたのではないかと思います。当時、お墓は汚れたところと考えられていましたので、村の外にあったのです。
 イエス・キリストは、このベタニアへ何をしに来られたのか。ただ単にマルタとマリアを言葉の上で慰めに来られたのではありません。その点で、他の弔問客と同じではありませんでした。まさしくそこで「神の子が栄光を受けるため」(4節)、そこで神の栄光が現れるためでありました。
 マリアが立ち上がって家を出て行くと、弔問客たちも着いて来ました。彼女はお墓へ行くのだろう。お墓で泣きたいのだろうと思ったのです。

(4)「心に憤りを覚え、興奮して」

 マリアは、イエス・キリストを見るなり、足もとにひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)と言いました。これは、マルタがイエス・キリストに語ったのと全く同じ言葉です(21節)。ただし、マルタの言葉はこれに続きがありました。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(22節)という言葉です。今日のマリアの言葉には、これがありません。
 これにもいろんな理由が考えられます。マルタに比べて、マリアはそれほどの信仰はなかった。あるいはイエス・キリストへの配慮が足りなかった。しかし私はむしろ、マリアの場合、この32節の言葉を言うのがせいいっぱいで、泣き崩れてしまい、その後は言葉にならなかったのではないかと思うのです。
 イエス・キリストは彼女が泣いているのをご覧になりました。他のユダヤ人たちもマリアと一緒に泣いておりました。それらをご覧になったイエス・キリストは、「心に憤りを覚え、興奮して」(33節)、「どこに葬ったのか」と言われました。この「心に憤りを覚え、興奮して」というのは、私たちを困惑させる言葉です。イエス・キリストが何に対して、心に憤りを覚えられたのか。普通に読みますと、マリアや他のユダヤ人たちがめそめそ泣いているのに憤られたと読めそうですが、私は必ずしもそうではないだろうと思います。その後で、イエス様自身も泣かれるからです。みんなが泣いているのに憤りを覚えられたのであれば、イエス様ご自身が泣かれたことは、自己矛盾になってしまうでしょう。
 以前の口語訳聖書では、これを「激しく感動し、また心を騒がせ」と訳していました。これは、彼女たちがそれほどラザロを愛していたのか、ということに感動したという風に読めそうです。しかし、そういう意味で、感動されたのでしょうか。「心に憤りを覚え」と「激しく感動し」では、反対の意味にもなりかねない程違いますが、いずれにしろ、イエス様の心がぐっと動かされた。非常に揺さぶられた。それは確かなことでしょう。
 イエス様はこの時、単に感動したということではなく、何かに憤りを覚えた。それは彼女たちの不信仰に対してではなく、人間をそのような悲しい目、苦しい目にあわせている力に対して、憤りを覚えられたのではないでしょうか。それは私たち人間にはどうしようもなく、目の前に厳然と立ちはだかっています。そのような力に対して、激しく興奮して、憤りのような気持ちをもたれたのではないかと思います。
 そして「どこに葬ったのか」と問われた後、イエス・キリストご自身も涙されるのです。イエス・キリストは何でもできるお方、人を甦らせることもできるお方であれば、すべての感情も超越した方であるかのように思いかねません。しかし決してそうではなく、悲しむ者、苦しむ者と共におられるお方です。パウロは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と言いましたが、パウロ以前に、イエス・キリストご自身がそのようなお方であったことを思わされます。

(5)聖書の中で最も短い聖句

 旧約聖書のホセア書に、神様の言葉として、「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(ホセア11:8)という言葉がありますが、イエス・キリストのこの時の思いは、まさにこの「憐れみに胸を焼かれる」という言葉がぴったり来るように思います。
 この「イエスは涙を流された」という言葉は、旧新約聖書の中で、最も短い聖句として有名です。原文ではたった二語、英語でも二語の"Jesus wept." (イエスは泣いた)という単純な表現です。しかしこの最も短い聖句は、その短さにもかかわらず、どの聖句よりも深い意味を持っているといわれます。聖書に章節が振られたのは、ずっと後の時代のことでありますが(近世)、聖書の章節を振っていた人自身が、これはこれだけで完結した節にしたい。これだけで非常に重い意味があると判断したのかも知れません。
 イエス・キリストが人間の悲しみに合わせて、その傍らに立ち、一緒に泣いてくださる。一見、神の子にふさわしくないような姿ですが、私は何と深い慰めに満ちていることかと思うのです。

(6)アブラハムも泣いた

 泣くというのは、あまり好ましくない行為と考えられることが多いのではないでしょうか。特に日本では、よく「男はそう泣くものではない」と言われます。しかし私は、泣きたい時には泣く方がいい、無理に押さえない方がいい。むしろそこで自分を出してしまうことが大事ではないかと思うのです。
 今日は、旧約聖書から、アブラハム物語の一部(創世記23章の冒頭)を読んでいただきましたが、これはアブラハムが愛する妻サラを失った時の話です。アブラハムはサラが死んだ時に、胸を打って泣きました。新共同訳では「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」、口語訳では「サラのために悲しみ泣いた」となっています(創世記23:2)。アブラハムはこの時、サラの遺体の上に突っ伏して、男泣きに泣いたのでしょう。その続きには、「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ」(創世記23:3)とあります。彼は泣いた後で、立ち上がって、次の仕事に取りかかりました。しなければならないことがあったのです。それはサラの埋葬のために、お墓の土地を入手するということでした。アブラハムは寄留者であったので、どこにも土地をもっていなかったのです。彼は思いっきり泣いたのであろうと思います。泣く必要があったのです。しかしいつまでも泣いているのではなくて、その後で、立ち上がっていきました。
 私たちが、自分のそういう感情を出すことを、聖書は肯定し、受けとめてくれていると思います。イエス様ご自身が共に泣きながら、私たちの気持ちを受け止めてくださっていることを感慨深く思うのです。

(7)「悲しみの涙、今ぬぐわれ」

 そしてイエス・キリストは、本当の意味での慰め、ただ単に言葉の上の「弔問」ということではなく、根本的な解決を用意してくださっている方であります。ラザロについては、このすぐ後で、復活させるという形でありましたが、私たちがこれと同じ経験をするわけではありません。しかし次のように約束されています。

「悲しみの涙 今ぬぐわれ、
 嘆きも死もなく 労苦もない。
 古いものすべて 過ぎ去りゆき、
 見よ、主はすべてを新たにする」
(『讃美歌21』580番3節)

 これは、ヨハネ黙示録21章の言葉に基づいた新しい讃美歌であります。この後、皆さんと一緒に歌います。イエス様は、私たちと共に、怒り、喜び、笑われた。聖書の中には、不思議なことに、「イエス様が笑った」という記述はありませんが、真の人間として生きてくださった方であれば、私たちと同じように大笑いをなさったこともあるに違いありません。「心に憤りを覚えた。」「激しく心を動かされた。」「憐れみに胸を焼かれた。」この感動、これが私たちを突き動かしていくのではないでしょうか。
 ルターが今から約500年前に何かに突き動かされていった。心に憤りを覚えた。それは単に彼の個人的なことではなくて、その背後に、神さまがおられて、イエス様がおられて、ルターを突き動かされたのであろうと思います。私たちもそのような感動を胸にしながら、それを大切にする人間でありたいと思います。信仰も伝道もその感動から始まり、進んでいくのではないでしょうか。


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