ラザロ、出てきなさい

〜ヨハネ福音書講解説教(44)〜
ヨブ記17章1〜3、11〜16節
ヨハネ福音書11章38〜44節
2004年11月7日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)召天者記念日

 本日の礼拝は、召天者記念礼拝として守っております。日本基督教団では、11月第一日曜日を「聖徒の日」と定めています。これは、古来諸聖徒日(万聖節、ALL SAINT'S DAY)として守られて来た教会の祝日に由来しています。紀元8世紀にグレゴリウス三世が11月1日を諸聖徒日と定め、今日に至っているということです。
 さてこの「聖徒の日」は、「永眠者記念日」という言い方もなされますが、「永遠に眠る者」というのはキリスト教信仰に馴染まないので、「召天者記念日」という呼び方が多くなってきました。信仰の先達なしには、この経堂緑岡教会の今日はなかったということ、また私たち一人一人の人生もまたなかったということを、感謝をもって覚えたいと思います。この日、ご遺族の写真を礼拝堂のあちこちに掲示する教会もあるようです。ヘブライ人への手紙に「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように取り囲まれているのである」(12:1、口語訳)という言葉がありますが、それを見える形で示そうということでありましょう。
 私たちの教会では、この1年の間に、7人の方々を天にお送りいたしました。今年の2月13日に笠原菊尾さん、3月5日に美濱久春さん、4月15日に川島須美子さん、5月22日に野原恵子さん、5月26日に酒井澄子さん、7月1日に野村シズ子さん、7月19日に村上卓二さん、この7人であります。お名前を聞きながら、それぞれ皆さんの心のうちにはさまざまな思い出がよみがえってくるのではないでしょうか。またそれ以外にも皆さんの中には、この1年の間にご家族を天に送られた方があるでしょうし、近年に大事な方を亡くされた方もあろうかと思います。
 死というのは、すべての人に訪れるものです。そこにはひとつの例外もありません。毎日誰かが必ず死んでいます。その意味では、死は日常的な出来事です。しかし親しい人の死、父母、夫、妻、そして時には自分の子ども。この死は私たちに耐え難い悲しみと苦しみをもたらすものです。その意味で親しい人の死というのは、あってはならないこと、受け入れがたい現実です。死というのは、最も日常的な出来事でありながら、最も非日常的な出来事でもあると言えるのではないでしょうか。

(2)心に憤りを覚えるイエス

 私たちは10月よりヨハネ福音書11章に記された「ラザロの復活」の物語を読んでまいりましたが、今日はその締めくくりにあたる38節以下、ラザロが実際に息を吹き返す部分をお読みいただきました。召天者記念日にふさわしい御言葉であります。
 「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」と始まります。イエス・キリストは一体、何に憤りを覚えられたのでしょうか。33節にも「イエスは心に憤りを覚え、興奮して言われた」とありました。人の不信仰に対して、ということも考えられますが、それよりも、マリアを初めとして、そのように人を悲しませている力、死の力に対して、でありましょう。私たちの目の前では、それが圧倒的な力をもって、私たちを威圧しているのです。その力に対して、「憤り」をもたれた。マリアが涙しているのを見ながら、イエス・キリストも涙を流された。これは、「もらい泣き」というレベルをはるかに超えております。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」真実の人、真実の隣人としてイエス・キリストは私たちの傍らに立たれるのです。
 そして私たちの傍らで、私たちを威圧し、封じ込める死の力に対して怒りをあらわにされる。私たちは、よほど不条理な死に対しては怒りを覚えることがありますが、多くの場合、その気持ちも起こらない。あきらめ、どうしようもない無力感に襲われます。人間の力の限界を思わされます。しかしこの時もそうした中、一人、この死の力に対して、怒りをあらわにされた。それは無駄な抵抗としての怒りではありません。最後の抵抗としての怒りでもありません。
 私たちのそのようなやるせない思いとしての怒りを代表しつつ、あるいはそれさえも起こらない無力感を叱責しつつ、唯一その力に対抗しうるお方として、いやその死を超える力と権能を備えたお方として、心に憤りをもって、墓の前に立たれるのです。私たちの傍らで、死を敵として見据えておられるこのお方が、私たちの救い主、イエス・キリストであります。

(3)「石を取り除けなさい」

 イエス・キリストは、心に憤りを持ちながら、「その石を取り除けなさい」と言われました。マルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(40節)と言います。こちらまで臭ってきそうな、リアルな表現です。人間の体は死んだその時から腐敗が始まっていきます。四日も経つと、もう異様なにおいが立ち込めていたでしょう。当時は、ドライアイスもありません。当時の墓は、ほら穴のようなところであったようですが、そこに大きな石のふたをしました。死臭が外に洩れるのをふせぐためであったと思われます。
 マルタの言葉には、「一体何をなさろうと言うのですか」という思いが表れています。彼女は、この直前にイエス・キリストへの信仰を明らかにしたばかりであるにもかかわらず、これから彼がしようとしていることがわからないのです。愛するラザロの体がそのように死臭を放っている現実を受け入れられないということもあったでしょう。誰でも、愛する人の体が死臭を放つのには耐え難い気持ちをもつものです。
 しかしイエス・キリストは、そのような気持ちに逆らうように「石を取り除けなさい」と命じられる。これはイエス・キリストの命令です。イエス・キリストは、さらに「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)と続けられました。人々が半信半疑で石を取り除けますと、イエス・キリストは天を仰いで、こう祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(41節)
 祈りとは何であるかを教えられるように思います。イエス・キリストの祈りは感謝で始まりました。主イエスは別のところで、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ6:8)と言われました。「それならば、祈る必要などないのではないか」と思われるかも知れませんが、いやそのようなお方であるからこそ、私たちは安心して、どんなことでも率直に祈ることができるのではないでしょうか。

(4)信仰の目で見る

 主イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られる」(40節)と言われました。信じる時に初めて、神の栄光が見られると言うのです。同じことを経験していても、そこに信仰がなければ、神の栄光を見ることはできません。同じ出来事を目の当たりにしても、そこに神様のメッセージを読み取ることができるかどうか。それは私たちの信仰にかかっているのです。
 もちろん私たちの信仰があろうとなかろうと、神の業は始まっています。なされています。それは客観的事実です。私たちの信仰に左右されるものではありません。それはすばらしいことであり、だからこそ、私たちは力を得るのです。しかしそれだけでは、私たちの人生は変わらない。それが変わるとすれば、私たちが信仰をもってそれを受け入れる時です。その目で見始める時に、何か謎が解けるように、するするっと物事が見え始める。神様の思い、イエス・キリストの思いが伝わってくるのです。
 最近、テレビでは、いろんな形のクイズ番組があります。あるクイズ番組では、回答者が、答えがわかっても、みんなの前で答えるのではなく、電話ボックスのようなところで、一人ずつそっと伝える。正解だったら、別のところで待機する。そこで他の人がまだわからないでいるのを、もどかしそうに、あるいはおもしろそうに見ています。正解であった人だけ、ご馳走が食べられるというクイズ番組もあります。
 私はそれを見ながら、ちょっと信仰の世界に似ているなと思いました。わかった人には何でもないことなのです。謎が解けた。それはその部屋にいる人にとっては共通認識です。しかしわからない人にはわからない。必ずしも頭がいい人がわかるということでもない。発想の転換のようなことが多いものです。今まで平面でしか見なかったものを、上から見てみると、「ああ何だ。そういうことか」と思う。あるいは反対側から見てみるとわかる。そうすると、誰でもわかることなのです。でもそれができないために、あるいはしようとしないためにもがいている。苦しんでいるのです。一度わかれば、何であんなことがわからなかったのかと思う。信仰の世界も、そういう面があるのではないでしょうか。それまでは、何か抵抗していたのに、それを受け入れると、するするするっといろんな謎が解けるように見えてくるのです。

(5)大声で叫ぶイエス

 しかしそのように信じることができないで、その手前でもがいている者のためにも、イエス・キリストは、何とか信じることができるようにと、大きなことをなしてくださるのです。イエス・キリストは、大声で叫ばれました。「ラザロ、出てきなさい」(43節)。その声が、深く陰府で眠っているラザロに届くように、そしてそこにいたすべての人の心の奥底に届くように、大声で叫ばれました。「ラザロ、出てきなさい。」その声には、心の憤りが込められていました。またマリアに共感する涙が込められていました。私たちが叫びたくなるような、しかし声にならない、そのようなすべての気持ちを代表して、あるいはそれを振り切るようにして、大声で叫ばれた。「ラザロ、出てきなさい。」
ラザロは布にくるまれたまま、出てきます。イエス・キリストは周りの人に命じます。「ほどいてやって、行かせなさい」(44節)。手も足も布でくるまれたラザロが、どうやって出てこられたのかという疑問をもつ人もあるかも知れませんが、そもそも死んだ人が出てきたという驚きに比べれば、そうした疑問は枝葉末節のように思えます。聖書は、ラザロがどのようにして出てきたかは、あまり興味をもっていません。またこの後も、ごく簡単にしか記していません。それまでの長い、長い記述に対しては、物足りない程、あっさりと書いています。私たちは、その後のラザロがどうなったのだろうか、いろいろと想像します。しばらくはぼうっとしていたのだろうか。マルタ、マリアと喜んで抱き合ったのだろうか。主イエスにひれ伏したのだろうか。ところが、そこは私たちの想像に委ねながら、最も大事なことだけを語るのです。

(6)ヨブの苦悩の叫び

 今日は、ヨブ記の17章をあわせて読んでいただきました。ヨブの苦悩を表した、心の叫びのような言葉です。同時に、これはすべての人の心の叫びでもあろうかと思います。人間の限界が示されています。

「息は絶え、人生の日は尽きる。
わたしには墓があるばかり。
人々はなお、わたしを嘲り、
わたしの目は
夜通し彼らの敵意を見ている。」
(ヨブ記17:1〜2)

 ヨブは、まわりの人から嘲られていました。私たちはそうでなかったにしても、死が、死の力が私たちを嘲っています。ヨブは続けます。

「あなた自ら保証人となってください。
ほかの誰がわたしの味方をしてくれるでしょう。」(同3節)

 他のどんな人間も、私の傍らには立ち得ない。神様ご自身が私の保証人になってください。このヨブの祈りは、イエス・キリストによって実現した、と言えるのではないでしょうか。

「どこになお私の希望があるのか。
誰がわたしに希望を見せてくれるのか。
それはことごとく陰府に落ちた。
すべては塵の上に横たわっている。」
(同15〜16節)

 ヨブはそのように叫びました。それは空しく響いているように聞こえます。
「どこになお私の希望があるのか。
誰がわたしに希望を見せてくれるのか。」

しかしこの叫びは空しくは終わらない。イエス・キリストによって受けとめられていると、私は思うのです。

(7)命の主がおられる

 召天者記念の日にあたり、私たちのうちにはさまざまな思いがのぼってくるでありましょう。イエス・キリストと同じように、心に憤りを覚えられる方もあるでしょう。マリアと同じように、涙を流して、それだけで終わっていく思いの方もあると思います。そういったすべての私たちの思いを、イエス・キリストは一身に受けとめ、傍らに立って、私たちの代わりに、あるいは私たちを代表して叫んでくださる。死の力を無にするような大声で叫ばれる。「ラザロ、出てきなさい。」ラザロの復活そのものは、期限付きの復活でありました。彼もやがて数十年後には、もう一度死んでいくことになります。しかしながら、そこに秘められたメッセージ、「肉体の死は、私たちを完全に閉ざすものではない。そこには命の主が立っておられて、私たちを天へと導いてくださる」、この深いメッセージを聞き取りたいと思います。


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