人の考えを超えるもの

〜ヨハネ福音書講解説教(45)〜
イザヤ書49章1〜6節
ヨハネ福音書11章45〜57節
2004年12月5日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)命をねらわれるイエス

 アドベント第二主日を迎え、講壇のキャンドルにも二つ火が灯りました。今日は、ヨハネ福音書の第11章の最後の部分を読んでいただきました。クリスマスとは、一見何の関係もないように見えるテキストであります。この第11章は、ラザロの復活物語を記していますが、今日の箇所は、その反響、あるいは残響とでも言える部分であります。イエス・キリストがラザロを復活させられたことに対して、反応が真っ二つに分かれています。それを賞賛する人々と、それでイエス・キリストを敵視する人々。しかしその両方とも、イエス・キリストの思いを理解しているとは言えません。
 ヨハネ福音書は、イエス・キリストがそのはざまで殺されていく物語を、これから後半部分で語っていくことになります。この箇所はその始まりを告げているといえるでしょう。53節にこういう言葉があります。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。クリスマスというよりは、イエス・キリストの苦難と死を覚える受難節に読むべきテキストであるかも知れません。死の影が忍び寄ってきています。しかし、私たちはクリスマスの出来事の中で、すでにイエス・キリストは殺されかけていたということを忘れてはならないでありましょう。
 あの日、幼子イエスを殺そうと企んだのは、当時の王ヘロデでありました。「ユダヤ人の王として生まれたというイエスという男の子が自分の地位を脅かしかねない」と、思ったからです。小さいうちに始末しておこう、そうすれば自分の地位は安泰だと考えたのです。それは、2歳以下の男の子を皆殺しにするという強引なやり方でした。「疑わしきは罰せず」ではなく、「疑わしきは皆殺しにせよ」です。「多めに殺しておけば確実だ」ということでしょう。
 さて、かつて幼子イエスを殺そうとしたのは、ヘロデ王でありましたが、今日の箇所でイエスを殺そうと企んだ「彼ら」とは、誰であったのでしょうか。祭司長たちとファリサイ派の人々、つまり当時の宗教上の最高責任者であります。しかも彼らのうち、何人かの人間、ものごとをよくわかっていない人たちが、イエスを殺そうと企んだのではありません。彼らは最高決議機関である「最高法院」を召集し、そこでイエス・キリストを殺すことを決定したのです。それほど大変な騒ぎになったのでした。

(2)時の人イエス

 今日のテキストは、このように始まります。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(45節)。マリアのところへ来ていたユダヤ人とは、弔問客でしょう。特に政治的な思惑も何もない普通の人々です。彼らは、主イエスがラザロを復活させられたのを見て、単純にイエス・キリストを信じました。素直な反応です。そしてそのニュースは民間人ルートでどんどん広まって行ったことと思われます。あっという間に時の人になりました。
 今日の箇所の終わりの方に、過越祭が近づき、そのために各地から大勢の人々がエルサレムへやってきたことが記されています。彼らは口々にイエス・キリストのうわさをしていました。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか」(56節)。みんな一生懸命、その姿を探し求めました。まさにアイドルです。今で言えば、「冬のソナタ」のヨン様あたりでしょうか。いやもっと近いのは、ウクライナの野党大統領候補であるユシチェンコ元首相あたりかも知れません。(与党大統領候補ヤヌコビッチ側に不正があったとして、首都キエフの街頭に、人が押し寄せました。)人が押し寄せて、みんなが興奮している。暴動になりかねない雰囲気です。この人にこそ、自分たちの将来を委ねたいと考えている。ところがその姿が見えない。一体どこへ行ってしまったのだろうか。
 もちろん彼らがどのレベルでイエス・キリストを信じたのかは大いに疑問があります。誤解しているところがある。自分たちの夢をかなえてくれるスーパーヒーローのような存在です。「この人こそ、自分たちを苦しい目にあわせている憎きローマの支配を打ち破ってくれるかも知れない」。しかし後にそのような意味でのメシア、救い主ではないことがわかってきますと、この一般民衆自体が、イエス・キリストを逆恨みいたしまして、「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。もちろんこの時はまだそこまで行っておりません。だからこそ、祭司長たちやファリサイ派の人々という宗教的指導者はあせったのです。

(3)政治的結託

 マルタ、マリアたちと共にいたユダヤ人たちの中の誰かが、イエス・キリストがラザロを復活させたことを宗教的指導者たちに告げに行きました。そして先ほど申し上げましたように最高法院が召集されるのです。緊急会議です。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(47〜48節)。
 彼らは何とか秩序を保ちたいのです。実は、最高法院の中には微妙な政治的対立がありました。最高法院の議長を務めていたのは、世襲の大祭司、サドカイ派と呼ばれた人々です。彼らはあまり宗教的ではありません。復活も否定する世俗的な人々です(マタイ22:23参照)。そしてローマの支配をバックに自分たちも安全でいられた。彼らはいわば貴族階級です。
 最高法院のもう一つの派閥は、ファリサイ派でした。彼らは、サドカイ派の人々と対照的に、非常に宗教的な人々です。律法も厳格に守っていました。彼らは、貴族ではなく、平民知識階級であったということです。彼らはイエス・キリストの安息日律法違反を指摘しました。しかし形式的に厳格すぎて、反対に神様の御心がわからなくなってしまったと言えるかも知れません。
 このサドカイ派とファリサイ派が最高法院を二分していたようです。ところがこの時は、イエス・キリストという共通の敵を前にして、利害が一致したのです。サドカイ派(祭司長たち)は何とかクーデターを起こさせたくない。ローマを怒らせたくないのです。一方、ファリサイ派の人々は、イエス・キリストが神を冒涜していると言って非難した。本当は自分たちが冒涜(侮辱)されたということががまんならなかったのでしょう。そこで与野党が結託したという感じです。

(4)スケープゴート

 そうした中、カイアファが興味深い言葉を語るのです。これは典型的な政治家の言葉です。「あなたがたは何もわかっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が好都合だとは考えないのか」(49〜50節)。別にイエス・キリストがよいか悪いかなんていうことはどうでもいいのです。関係がない。彼が死ぬことによって、暴動が起きず、みんなが助かるならば、それでよいではないかということです。スケープゴート(犠牲)です。もっともスケープゴートという言葉自身が、「逃れのためのやぎ」という聖書に由来する言葉ですから、不思議というか皮肉な感じもいたします。
 これは今日でもよくあることでしょう。組織を守るために、誰かを犠牲にする。国を守るため、会社を守るためにです。会社が不祥事を起こしますと、本当は会社ぐるみの構造的問題であるのに、誰か特定の人間が勝手にやったことにしてしまう。会社全体が倒れないためにです。ある政治団体が1億円の献金を受け取る。本当は一番上のボスが承知しているはずなのに、彼がこけると、その政治団体全体が、あるいは政党全体が倒れかねないので、秘書の責任にしてしまう。イラクのアグレイブ刑務所で捕虜虐待事件が起きる。本当の責任者を追及し始めると、どこまで行くか分からない。米軍全体の責任、国防長官の責任まで問われかねないので、現場の責任者をスケープゴートにし、その人を裁いて終わりにするのです。
 この時のターゲットはもちろんイエス・キリストです。そのカイアファの意見にみんなが納得するのです。本来対立しているはずの両陣営がこの件では一致をしました。そしてイエス・キリストを殺すということを、最高法院で決めたのです。イエス・キリストは誰か、ある人に憎まれて、暗殺されたのではないのです。堂々とまず最高法院で死刑が決定されて、殺されたのだということを忘れてはならないでしょう。
 祭司長たちとファリサイ派の人々は、「イエスの居どころが分かれば届け出よ」と、命令を出しました。「イエスを逮捕するためである」とあります(57節)。イエス・キリストは指名手配を受けたのです。

(5)不思議なコメント

 ここで行われていることは、どろどろとした人間的なことです。何が起こっているかよくわかる。なぜそうなったのかもよくわかる。今日でも同じようなことが起きています。イエス・キリストは、そのような人間的思惑、政治的駆け引きの中で殺されていったのだということを、この物語はリアルに私たちに告げています。ところがヨハネ福音書記者は、ここに奇妙なコメントをつけているのです。先ほどのカイアファの言葉の直後です。

「これはカイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりではなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」(51〜52節)。

 これは不思議な言葉です。すべてが人間の思惑の中で進行し、それですべて説明がつく。それにもかかわらず、その背後には神の見えざるシナリオがあったということです。それはこの言葉を語ったカイアファ自身も気づいていなかったことでしょう。カイアファは「しめしめ、うまく行った。みんな自分の思い通りになった」と思っていたかも知れません。しかしその背後には神がおられたのです。もちろんそれでカイアファの責任が逃れられるわけではありません。神は人間のそうした悪い思いをも用いて御自分の計画を進められるのです。
 これは非常に不思議なことです。私たちは歴史というものを複眼的な視野で見る必要があることを教えられます。すべてが人間的な思いで進行している中に、実は神様の計画が秘められている。そして気がついてみると、その神様の歴史になっていた。聖書を読んでおりますと、そういうことが度々出てきます。そのところで、人間の責任が逃れられるわけではないのだけれども、不思議に神様がそれを取り込んでいくようにして、御自分の計画を成就されるのです。

(6)散らされている神の子のため

 「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」(51節)。「国民のために死ぬ」というのはイスラエルの民を視野に入れたことでしょう。彼らを救うために、イエス・キリストは来られた。イエス誕生の時に、マリアの夫ヨセフのところに、天使が現れて言いました。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)。イエスとは、「神は救い」という意味でありました。しかしそのようにして、イスラエルの民の願いをかなえながら、イエス・キリストは「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも」死なれました。そのようにして、私たちにも救いが及んだのです。

(7)第二のしもべの歌

 イザヤ書49章の言葉を読んでいただきました。第二イザヤには、しもべの歌と呼ばれるものが四つありますが、これは、その中の第二の「しもべの歌」です。最後の歌は、イエス・キリストの受難を指し示す「苦難のしもべ」の歌として有名ですが(53章)、この第二の歌もイエス・キリストを指し示している言葉として読むことができるのではないでしょうか。

「ヤコブを御もとに立ち帰らせ、
イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを
御自分の僕として形づくられた主は
こう言われる。
『わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族として立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして
わたしはあなたを国々の光とし、
わたしの救いを地の果てまで、
もたらす者とする。』」
(イザヤ書49:5〜6)

 先ほどの51節のヨハネ福音書記者のコメントは、このイザヤ書の言葉をほうふつとさせるものです。そしてこれはクリスマスを指し示す言葉でもあります。
 このイエス・キリストを主とあがめることができる私たちはいかに幸いなことであろうかと思います。ここ、日本の地に生きる私たちのところまで、イエス・キリストは救い主として来てくださった。
 これから聖餐式が行われますが、この聖餐を通して、散らされているところから一つに集められ、そして御心を行う者になるように召されていることを思います。イエス様がそのためにそれを本当に意味あるものにするために、何をなしてくださったかということを、改めて覚え、十字架が見える中でクリスマスをお祝いいたしましょう。


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