心と言葉と行いと

〜ヨハネ福音書講解説教(46)〜
ヨブ記19章23〜29節
ヨハネ福音書12章1〜11節
2005年1月23日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)ベタニアにて

 本日、私たちに与えられた12章1節以下には、「ベタニアで香油を注がれる」という標題がつけられています。実は、これととてもよく似た物語は、マタイ福音書にもマルコ福音書にも出てまいります。恐らく同じ話が別の形で伝わったものであると思われますが、マタイやマルコが、それを主イエスがエルサレムへ入られた後の出来事、受難物語の最初の出来事として記しているのに対して、ヨハネでは、エルサレム入場の直前に置かれています。

 「過越祭の6日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」(1〜2節)。

 ベタニアというのはマルタとマリアとラザロの住んでいた町です(11章参照)。マルタはイエス・キリストのために一生懸命給仕をしていました。有名なマルタとマリアの話(ルカ10:38〜42)を彷彿とさせますが、あの時と違ってここでは、マルタは不平を言ってはおりません。恐らく、これが自分なりのイエス様への仕え方だと、すでに納得していたのでしょう。

(2)香油を注ぐマリア

 そこへ妹のマリアがやってきました。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(3節)。美しい情景が目に浮かぶようです。目に浮かぶだけではなく、そのかぐわしい香りが伝わってくるようです。1リトラというのは、聖書巻末の度量衡対照表によれば、326グラムということですから、それほどの量ではありません。しかし、この後のユダの言葉によれば、それは約300デナリオンの価値がありました。当時の一日の労働者の賃金が1デナリオンでありましたので、労働者の約1年分の給料に相当する位の価値があったのでしょう。
 マルタはマルタなりの仕方で、主イエスに仕え、マリアはマリアで、マリアにしかできないことをいたしました。それは、まわりの人の度肝を抜くようなものでした。マリアがどうしてこんなことをしたのかは、よくわかりません。「主イエスに対して、自分は何ができるか。最上の捧げ物をしたい。そして行為をもってそれを表したい。」そういう風に考えているうちに、瞬間的に、直感的に決めたのかも知れません。少なくとも事前にお姉さんのマルタや弟子たちに相談した結果ではなかったでしょう。相談していれば、きっとみんなから反対されていたと思います。一人の女性が、自分でそれだけのことを決心したというのは、大変なことであったと思います。
 もしかすると、彼女はこの香油をラザロの葬りのために用いるつもりであったのかも知れません。彼は死んで四日目に、イエス・キリストによってよみがえらされたので、この香油を使う必要がなくなった。それで感謝のしるしに、ぜひ主イエスのために用いたいと思ったのでしょうか。あくまでひとつの想像であります。
 彼女の行為にはどういう意味があったのでしょうか。油を注ぐという行為は、古代近東では、何らかの特別な役割、あるいは任務への選びを意味していたと言われます。「キリスト」(ヘブライ語でメシア)という言葉は、「油注がれた者」という意味です。ですから、彼女はこの行為によって「この方こそキリストである」と、象徴的に宣言していると見ることができるでしょう。
 もう一つは主イエスが語っておられるとおり、主イエスの葬りためであったということです。先ほどこの香油はラザロのために使うつもりであったかも知れないと申し上げましたが、人が死んだ時に、死体が臭くならないように、香油をかけたそうです。もちろん彼女自身は、この後、主イエスが十字架にかけられて死ぬことになることは知らなかったでしょう。しかし主イエスがそのように「わたしの葬りの日のため」と意味づけられたのです。

(3)もったいないという思い

 さてそれに対して、弟子の一人であるイスカリオテのユダがこう言いました。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5節)。なかなか立派なことを言っております。この言葉そのものは何も間違っていません。問題は、それを言っている人間の心がどこにあるのかと言うことです。ヨハネ福音書は、その後にわざわざ「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(6節)とコメントしています。他の福音書では、「弟子たち」(マタイ26:8)、「そこにいた何人かの人々」(マルコ14:4)が、そのように言ったということです。私も恐らくその場にいた多くの人が同じように考えたのではないかと思います。イスカリオテのユダがそれを口にしたのだとしても、みんなの代表のようにして言ったのではないでしょうか。彼女のしたことを見て、「ああもったいない」と思った。しかしイエス様の前では、そう言えませんから、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言ったのでしょう。

(4)貧しい人のコメント

 私は、ブラジルでしばらく働いておりました。その2回目の任地、アルト・ダ・ボンダーデ・メソジスト教会は、ブラジル北東部のとても貧しい地域の教会でした。私はスエリーという人の家の家庭集会で、この話を(別の福音書ですが)読んだことがありました。スエリーは日雇いで女中をしながら、4人の子どもを女手一つで育てていました。総選挙を控えて、街中が選挙運動でにぎやかな時でした。その日の聖研で、スエリーがぽつりとこう言ったのです。「この(ユダの)言葉は、今の州議員候補とまるでおんなじだ。いつも『貧しい人のために何々をする』と言いながら、してくれたためしがない。」彼女は、このユダの言葉の中に、そうした政治家の公約と同じ何かしらを感じ取ったのです。「いつも貧しい人を引き合いに出して、かっこいいことを言いながら、結局、心の中では自分のことを考えているんじゃないか。」それは、貧しい人の生の声でした。私はスエリーの直感はなかなか鋭いと思いました。
 この女性とユダがもし議論をしていたら、恐らくユダの方が勝ったであろうと思います。ところが、このユダの言葉に比べて、マリアの行為には愛情があって、心がこもっていました。イエス様は、こう言いました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(7〜8節)。
 イエス様は、ユダの言葉を否定されたわけではありませんでした。「それは確かにそうだ」と言いながら、そこに彼の心が宿っていないということを見抜いておられた。イエス様の応答もすごいと思います。

(5)ヨブの友人たち

 今日は、ヨハネ福音書に合わせて、ヨブ記19章の言葉を読んでいただきました。ヨブ記の大半はヨブと3人の友人たちの議論です。ヨブの友人たちは、ヨブに向かってある意味で正しいことを語るのです。「神様は正しい、公正なお方だ。よい人間にはよい報いを、悪い人間には悪い報いを与えられる」ということです。そこに立って「ヨブには悪い報いが与えられたから、悪いことをしたに違いない」と言って、ヨブの間違いを正そうとし、ヨブを裁こうとするのです。そこには彼らの心はこもっていませんでした。それに対して、ヨブの方の言葉は揺れています。ジレンマの中にある。「神様は確かに正しいお方だ。神様は生きておられる。しかしそれならば、自分は何でこのような仕打ちを受けなければならないのか。私は何も悪いことをしていない。」
 ヨブ記を読みながら、私は、友人たちの言葉は何と軽く、ヨブの言葉は何と重いことかと思います。ヨブの言葉には、ヨブの心がこもっており、命がかかっています。ヨブは、この19章の終わりでこう言いました。

「この有様の根源がわたし自身にあると
あなたたちは言う。
あなたたちこそ、剣を危惧せよ。
剣による罰は厳しい。
裁きのあることを知るがよい」
(ヨブ19:28〜29)

 ここで友人たちは、実際に剣を持っているわけではありません。むしろ言葉が剣だということを暗示しているのではないでしょうか。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)というイエス様の言葉がありますが、それは言葉という剣においても同じことが言えるのだと思います。

(6)「正しい」言葉に潜む偽善

 主イエスは、ユダの優等生的な言葉を聞きながら、それを否定しないで、そのユダの言葉の上に、マリアの愛情深い、真実な心を置かれたのです。私たちは正しい言葉を聞く時に、やはりそれはそれとして、きちんと受けとめなければならないと思います。そしてそれと同時に、その背後にはどういう心があるのか。その背後にあるのは、偽善ではないか。自己正当化ではないか。ということを見抜く訓練もしなくてはならないと思うのです。教会の中においてもそういうことが起きる。いや教会の中で、そうしたことが起きる時に、他の世界よりも、もっとやっかいです。神様を持ち出してくるからです。正しい言葉を語りながら、時に意識的に、時に無意識のうちに、いかに人を裁いていることが多いかと思います。聖書の言葉でさえも、神様の御心と反対の方向のことを、正当化するために使われることがあるのです。私たちは、「正しい」言葉を聞く時にもそれを聞きながら、慎重に、その心はどこにあるかということを見抜かなければなりません。
 南米を中心に、第三世界から始まった「解放の神学」にはいろんな意味がありますが、その一つの大事なことは、これまで教会が語ってきた「正しい」言葉の陰に潜む偽善というものを明らかにすることにあったと、私は思っております。

(7)ラザロの証

 さて、この箇所にはマルタとマリアの他に、復活させられたラザロが登場しています。マルタとマリアに比べると、ラザロは、特に何もしていません。ただここにいただけです。しかし、ラザロはラザロで、彼にしかできない大きな奉仕、大きな働きをしました。彼の場合、そこにいるだけで大きな意味がありました。彼の存在そのものが大きな証であったのです。ラザロの存在は、イエス・キリストの力を証するものでした。だからこそ、ユダヤ人たちは、イエス・キリストだけではなく、ラザロをも殺そうと謀ったのです(10節)。
 私たちは、教会の中で一体何ができるだろうかと、よく考えます。そして教会でも、自分にできることをしましょうと呼びかけます。マルタのように給仕ができる人もいるでしょうし、マリアのように大胆なことができる人もあるかも知れません。ただし、もしかすると自分には何にもできないと思われる方もあるかも知れません。しかし私は、皆さんがこの礼拝の中におられるということ、その中にすでに大きな意味があるということを覚えていただきたいと思います。特に年輩の方々の存在は、それだけで証になる。まわりの人を励ます力のあるものだと思います。

(8)バッハのカンタータ、第147番

 今日の説教題を、「心と言葉と行いと」としました。私はこの題をつけながら、バッハの「心と口と行いと生活をもって」というカンタータ第147番を思い起こしていました。このカンタータは、終曲が「主よ、人の望みの喜びよ」という題で有名になっているものです。こういう歌詞です。

「心と口と行いと生活が
キリストについての証を
恐れも偽善もなしにしなくてはならない。
キリストこそ神であり救い主であると。」

 これは、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9〜10)という有名な聖句に基づいた言葉です。ただおもしろいのは、心で信じ、口で告白するだけではなく、「行いと生活」をもってキリストについての証をしなければならないというのです。また信仰だけではなく、行いも伴わなければならない、という言い方がしばしばなされますが、ここではそれに更に「生活」(Leben)という言葉が加わっています。新しいCDでは、これを「生きざま」と訳していました。行いだけでは偽善になる可能性もあるでしょう。だから私たちの生活そのもの、生きざまそのもので、キリストを証するのです。また行いと言っても、自分にはもう何もできないと思う方もあるかも知れません。しかし生きざまそのもので証をすることができるのではないでしょうか。言葉だけでも偽善になる可能性があります。そこに私たちの心があるかどうかということが問われます。もちろん言葉が大切であることは言うまでもありません。心と口と行いと生活、つまり私たちの全存在をもって、キリストを証し、キリストをほめたたえるものでありたいと思います。


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