平和の君の誕生

詩編85編9〜14節
ルカによる福音書2章8〜20節
2004年12月19日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)"Love&Peace"

 クリスマス、おめでとうございます。経堂緑岡教会では、今年度のクリスマス標語を"Love&Peace"といたしました。「愛と平和」です。クリスマス委員会でよく話し合って、「今年のクリスマスは、"Love&Peace"をテーマにしよう」と決めたものです。この言葉には、クリスマス委員だけではなく、経堂緑岡教会全体の祈りが込められていると思います。
 この1年を振り返ってみる時にも、私たちの世界に「愛と平和」が欠けていたこと、世界全体が「愛と平和」への祈りを熱くしなければならないことを強く思います。2001年にいわゆる9・11の同時多発テロ事件が起きて以来、アフガン戦争、イラク戦争へと、この世界は突き進んでいきました。この2004年は、昨年、一昨年に比べれば、大きな戦闘は少なかったかも知れませんが、イラク情勢は決してよくならず、イラクの人々の生活は平和から程遠いものでありましたし、むしろ問題が長期化することがいよいよはっきりとしてきた年であったように思います。
 今から4年前、2000年のクリスマスに、WCC(世界教会協議会)は、21世紀最初の10年を「暴力克服の10年」とすることを発表しました。しかしながら、皮肉なことに、それ以降の世界は、それ以前、つまり1990年代と比べても、随分平和から後退したように思います。「暴力克服の10年」とは反対の道、つまり問題を「暴力」によって解決しようとする道を歩んできたと言えるのではないでしょうか。問題を「暴力」によって解決しようとするのは、誘惑です。それは解決から遠ざかることであるのに、早道であるかのように見えるのです。もちろん、戦争をしかける国は、それを暴力とは呼びません。武力行使と呼びます。しかしそこで実際に行われていることは、紛れもない暴力なのです。そこでは多くの民間人が死んでいきます。アメリカは、自分たちに敵対する暴力のことをヴァイオレンス(暴力)と呼び、自分たちの行う暴力のことをフォース(武力)と呼んで、あたかもそれが異質のものであるかのように見せかけていますが、私たちはその欺瞞性を見抜き、そうした暴力によっては決して平和は来ないということを知り、訴えなければなりません。

(2)正義と平和の口づけ

 クリスマス委員会から、「"Love&Peace"にふさわしい聖句を選んでください」と言われ、わたしは詩編85編11〜12節を選び、クリスマスのチラシの冒頭に掲げました。今日もこの箇所を朗読していただきました。

「慈しみとまことは出会い、
正義と平和は口づけし、
まことは地から萌えいで、
正義は天から注がれます」

「慈しみとまことが出会う」。「慈しみ」とは「神から注がれる愛」のことです。「まこと」とは「真実」です。この神の愛に応答する人間の「真実」のことだと言ってもよいでしょう。上から来る神様の愛と、下からの人間の真実が出会うのです。
 そしてそこでは「正義」と「平和」が口づけをします。ここでの「正義」とは神が上からもたらされる正義です。「平和」は地上になるものです。上から正義が降りてきて、下から平和が芽生えて、この二つが出会って、キスをするのです。美しいイメージです。さらにこのイメージが広げられます。「まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」。上から来るものと下から来るものが一つに溶け合っている。天からは正義が降り注いでくる。その正義を日の光のように受けて、あるいは雨のように受けて、地面からは、「まこと」という木が芽を出してくる。それが、神が宣言される平和です。何と美しく、何と奥深い言葉でしょうか。これは私の最も好きな聖句の一つです。

(3)平和が来ない状況で

 この詩編がいつどのような状況で書かれたかは、幾つかの説があるようです。85編の最初には、「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕らわれ人を連れ帰ってくださいました。御自分の民の罪を赦し、彼らの咎をすべて覆ってくださいました」とあります。イスラエルの民はバビロニアということに捕らわれたことがありますので、これはそのバビロン捕囚から解放された直後の歌ではないかという説があります。いやそうではなく、これはむしろ大昔エジプトに奴隷になっていたところから、出エジプトの出来事を思い起こしているのだという説もあります。現代に生きる私たちとしては、どちらでもいいように思います。
 主が自分たちを神の民とし、自分たちを解放してくださった。しかしそれにもかかわらず、本当の平和は来ない。この世界は神様の御旨にかなった世界にはなっていない。そういう状況の中で、この詩編が歌われたのです。
5節から8節は、「どうして平和が訪れないのか」と、詩人が切々と神に訴えかけている言葉です。今日、戦渦の只中にある人々からもこのような訴えが聞こえてきそうです。

「わたしたちの救いの神よ
わたしたちのもとにお帰りください。
わたしたちのための苦悩を静めてください。
あなたはとこしえにわたしたちを怒り
その怒りを代々に及ぼされるのですか。
再びわたしたちに命を得させ
あなたの民があなたによって
喜び祝うようにしてくださらないのですか。
主よ、慈しみをわたしたちに示し
わたしたちをお救いください」(5〜8節)。

 私たちは、これを今日生きた神の言葉として読む時に、この「あなたの民」という言葉を、ユダヤ人のことであるとか、「洗礼を受けたクリスチャン」のことであるとか限定して読むべきではないでしょう。イエス・キリストが、御自分の命をかけて愛してくださった人たち、それはすべての人々のことを指していると思います。私たちは、世界の誰か、たとえその人がイエス・キリストの名前を知らない人々であっても、それはイエス・キリストが愛しておられる人々の嘆きであることを知らなければなりません。

(4)愚かなふるまいに戻らないように

 さてこの詩人は、神に向かってそのような訴えをした後、不思議にも外から声を聞くのです。これは彼自身の声ではありません。神の宣言として、彼はそれを「聞いた」のです。今日はここから後ろを読んでいただきました。

「わたしは神が宣言されるのを聞きます。
主は平和を宣言されます
御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」

 「愚かなふるまいに戻らないように」。これもまた興味深い言葉ではないでしょうか。「主の慈しみに生きる人々が愚かなふるまいに戻らないようにするために、主は御自分の望む平和を宣言される。「愚かなふるまい」とは何でしょうか。それは不信仰から来る態度です。神が平和をもたらされるのを信じることができない。疑いがやってきます。それで絶望に陥ってしまう。それも愚かなふるまいでしょう。自暴自棄になって、自爆テロを起こして、相手に一矢報いてやろう、と思う人があるかも知れません。それも愚かなふるまいでしょう。それと反対に、「敬虔さ」を装っている不信仰もあります。神様が平和をもたらされるのを待っていられない。自分で早めようとする。そしてここで宣言されているのとは違った仕方で、つまり武力でもって、暴力でもって、平和をもたらそうとするのです。これは一見、信仰的に見えるだけにやっかいです。しかし神は、それもまた「愚かなふるまいだ」と言われるのではないでしょうか。

(5)クリスマスとは

 神の宣言される平和は正義と口づけしているのです。私たちは、さまざまな「平和」の概念と、さまざまな「正義」の概念をもっています。しかしそれらはどれも結構あやしいものです。この二つがぴたりと重なり合って、それが口づけしているところにこそ、真の正義と真の平和が存在するのではないでしょうか。
 「正義」をふりかざして戦争しようとするのは、本当の正義ではありません。その「正義」は平和と口づけしていないからです。一見、平和に見える状態であっても、そのもとで誰かが抑圧されているならば、誰かが苦しめられているならば、それは本当の平和とはいえません。その「平和」は、正義と口づけしていないからです。マーティン・ルーサー・キング牧師は、「真の平和とは、単に緊張がないだけではなく、そこに正義が存在することである」と言いました。味わい深い言葉です。
 私は、クリスマスというのは、まさにこの詩編に歌われていることが、イエス・キリストによって、実現した出来事ではなかったかと思います。このお方において、天と地が出会ったのです。このお方において、慈しみとまことは出会ったのです。このお方において、正義と平和は口づけをしたのです。このお方において、まことが地から萌えいで、正義は天から注がれたのです。
 このお方がお生まれになった時、天使たちは歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ」(ルカ2:14)。ここでいう「栄光」とは、今私たちが読んでいる「正義」のことだと読み替えてもいいものでありましょう。神の正義があるところにこそ、神の栄光があるからです。そして「地には平和、御心にかなう人にあれ」と告げられました。このお方の誕生によって天から「正義」が降りそそがれ、地からは「平和」が芽を吹くのです。

(6)平和の君

 この方は、「平和の君」として誕生されました。招詞のイザヤ書9章5節にあったとおりです。「その名は、……平和の君と唱えられる」とあります。
 このお方は力で、武力で、暴力で平和をもたらそうとされたのではありませんでした。このお方は、力の象徴としての宮殿の中ではなくて、無力の象徴である馬小屋の中で、ただ布にくるまって飼い葉桶の中に寝ていただけでした。しかし天使は、その姿の中にこそ、まことの平和の王のしるしがあると、言いました。そういう姿であるにもかかわらず王だと言うのではありません。そういう姿であるからこそ、真の平和をもたらす真の王だと宣言したのです。

(7)キング牧師の言葉、「闇と光」

 最後に、キング牧師の有名な言葉に耳を傾けましょう。
「暴力の究極の弱点は
破壊しようとする当のものを生み出してしまう
悪循環でしかないことだ。

暴力によってウソつきを殺すことはできても
ウソを殺すことはできないし
真実を確立することもできない。

暴力によって憎しみを抱えた者を殺すことはできても
憎しみを殺すことはできない。
反対に、暴力は憎しみを増大させるだけだ。
そして、その連鎖に終わりはない……

暴力を暴力で返すことは、暴力を増殖し
星のない夜の闇をさらに深めてしまう。
闇に闇を追い払うことはできない、
それができるのは光のみ――

憎しみに憎しみを消し去ることはできない。
それができるのは、愛のみ――」
「闇と光」(Only Love and Light can)

"Love&Peace"。「愛と平和」。このことを深く心に留めて、新しい年へと進んでいきましょう。


HOMEへ戻る