主のよき力に守られて

エレミヤ書31章15〜17節
マタイによる福音書2章13〜23節
2004年12月26日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)ヘロデの幼児虐殺事件

 今日は、「ヘロデの幼児虐殺事件」と呼ばれる箇所を読んでいただきました。クリスマス物語の中では、あまり選ばれることのない箇所であるかも知れません。2000年前の最初のクリスマスも、決して平和なクリスマスではなかったことを思います。この直前部分には、有名な物語が記されています。それは東の国の占星術の学者たち(博士たち)が黄金、乳香、没薬の贈り物をもって、生まれたばかりの救い主キリストを礼拝しにやってきたという美しい物語です。
 彼らは救い主の生まれた場所を探し当てる前に、エルサレムへ立ち寄り、ヘロデ王を訪ねました。彼らはこう尋ねたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。ところが、それを聞いたヘロデは、「もしかすると自分の地位がおびやかされるのではないか」と不安になり、一計を案じるのです。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(同2:8)。もちろんそれは、嘘です。彼らから、その赤ちゃんの居場所を聞き出し、暗殺しようと企んだわけです。
 しかし彼らは、その救い主を見つけて、礼拝した後で、夢で神からのお告げを聞きました。「ヘロデのところへ帰るな」(同2:13)。彼らは別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきました。そのことを知ったヘロデは激怒いたします。そして、「2歳以下の男の赤ちゃんを一人残らず殺せ、皆殺しにせよ」という命令をくだすのです。

(2)嘆きの声がこだまする

 クリスマスの喜びの歌声が、自分の子供を殺された母親の泣き叫びでかき消されるようです。マタイはこのように記しております。

「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういない』」(マタイ2:17〜18)。

 この言葉には少し説明が必要かも知れません。ラマというのは、ベツレヘム、あるいはその近くにあった古代の町であります。ラケルの墓はそこにありました。更にさかのぼって言えば、ラケルとは、創世記に出てくる女性、イスラエルの族長であったヤコブの妻であった人です。ちなみにラケルの夫ヤコブは、アブラハムの孫、イサクの息子です。ヤコブというのは、否定的な意味合いをもつ名前でありましたが、神の人と格闘して、イスラエルという祝福された名前をもらうのです。イスラエルとは、「神は支配し給う」という意味であります。ラケルはその「イスラエル」という名前の男の妻でありますから、いわば、イスラエル民族の母のような意味合いをもっているのでしょう。そのラケルが泣いている。墓の中から泣いている。子どもが取られたから。ここに記されているとおり、この言葉はエレミヤ書からの引用です。エレミヤがずっと昔に語った言葉をマタイが用いたのでした。エレミヤ書31章15節に、こう記されています。

「主はこう言われる。
ラマで声が聞こえる。 
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む。
息子はもういないのだから」。

 このところには、イスラエルの民のもう一つの悲しい歴史が重ねられております。それはバビロン捕囚という出来事でありました。イスラエル王国はダビデ王、ソロモン王の時代には栄華を極めるのですが、その後どんどん落ちぶれていき、更に国は北と南の二つに分裂いたしました。エレミヤの時代にはすでに北王国イスラエルは滅び、南王国ユダもバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。これが、紀元前6世紀に起こった、バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。このラマはバビロンに連れて行かれた時の通過点であったと言われています。その連れて行かれる人を見て、ラケルが墓の中から泣いている。慰めて欲しくない。子供はもう帰らないのだから。ということなのです。
 マタイはこれを、ヘロデ王の幼児虐殺事件と重ね合わせました。あのエレミヤの預言の言葉が、今ここに実現している。ラケルの泣き声が時代を超えて、こだましているのです。バビロン捕囚の時代の母親の嘆きと、クリスマスの時のヘロデ王に殺された母親の泣き叫ぶ声がこだましている。
 私は、このラケルの泣き声は、イスラエル、パレスチナ地域において、今日までもこだましているのではないかと思うのです。新聞やテレビのニュースに、イスラエル軍がパレスチナを攻撃し、そこを必死で逃げ回っているパレスチナの子供たちの姿、また死んだ子供のために泣き叫んでいる人の姿が出てきます。
 その泣き声はあのラマ、イスラエル、パレスチナを超えたところでも、こだましています。イラクの地でその泣き声はこだまいたしました。私たちは、そこで子どもをアメリカの誤爆により、失った母親の泣き声を聞いてまいりました。あのラケルの泣き声が地球全体をおおいつくすようにこだましているのです。
 2000年前にこの泣き声を産み出したものは、ヘロデ王の敵意でありました。それが力をもたない者の上にふりかかってくるのです。力を持つ者、権力をもつ者、武力を持つ者の敵意、それが罪のない人々の死と、その家族の嘆きを産み出すのです。

(3)確かな希望

 しかし、いかがでしょうか。今日のテキストは、そうした暗い出来事の中で、かすかではありますが、確かな希望を告げております。それは、どのようなヘロデ王の敵意も、あるいは彼の暴力も、軍事力も、イエス・キリストを見つけだして、殺すことはできなかったということであります。神が守ろうとされるものは、どんな力も及ばない。不思議な力で守られるのです。それは、彼がこの時死んではならなかったからです。彼が死ぬべき時は、別に定められていました。ですから、神はあらゆる手段を用いてイエス・キリストを守り抜かれました。このことは私たちの希望であります。
 私たちは敵意がぶつかる中で起こる痛ましい現実について、ラケルと共に嘆かなければならないでありましょう。またそのような現実を産み出している敵意というものを、憎まなければならないでありましょう。そうした悲劇が一日も早くなくなるようにと、真剣に祈らなければならないでありましょう。しかしそういう暗い現実の中にあっても、幼子イエスは不思議にも守られ、生き延び、成長していくのです。聖書は、そのことに私たちの目を向けさせようといたします。私たちはそのことを信じるがゆえに、どんな時にも希望をもって、この世の困難な課題に、真剣に、しかし心のゆとりを失わないで、立ち向かう勇気が与えられるのではないでしょうか。
 詩編46編にこういう言葉があります。

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない。
地は姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、わき返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。」(詩編46:2〜4)

(4)ヨセフの役割

 幼子イエスを守るために、大切な働きをしたのは、マリアの夫ヨセフでありました。彼は夢に現れた天使の言葉に聞き従い、自分の郷里を捨ててエジプトへ落ち延びていきました。実の子ではありません。彼が自分の子ではないこの幼子のために払った犠牲が、一体どれほど大きなものであったかと思います。やがて危険が去った時、彼は再び妻マリアとその子イエスを護衛して、ナザレに戻ってまいります。
 このヨセフという人物は、実は福音書の最初だけに登場する人です。2章の終わりに、無事にマリアと幼子イエスをナザレに戻した後は、もう出てまいりません。そういうところからして、このヨセフは主イエスが成人する前に、世を去ったのであろうと言われています。もしもそうだとするならば、彼の短い生涯は、いわばイエス・キリストの母となったマリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを受けとめ、その命を守るという課題に捧げられたと言うこともできるかも知れません。聖書の中のヨセフは、一言もしゃべっていません。それはマリアと違うところです。彼の姿はただ「信仰の服従」という一語に尽きると思います。美しい姿であると思います。
 私たちにも、この幼子を胸に抱いて進むヨセフのような信仰の服従が求められているのではないでしょうか。もしもそうしようとするならば、ヨセフが背負ったような犠牲を伴ってくることもあるでしょう。イエス・キリストが後に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と、言われたとおりです。しかし私たちは、犠牲を払って主に従っていくときに、それによって逆に、私たち自身が支えられるという経験をするのではないでしょうか。

(5)聖クリストフォロスの伝説

 聖クリストフォロスの伝説をご存じでしょうか。(英語ではクリストファーです。)クリストフォロスは川の渡し守でしたが、たまたま一人の少年を背負って川を渡ることになりました。しかし一歩一歩進むうちに、どういうわけか、少年がずしりずしりと重くなっていくのです。彼は水をかぶりながら、足をふんばって何とか川を渡りきりました。クリストフォロスがふとうしろを振り返ってみると、そこはものすごい急流でありました。その時、彼は悟るのです。もしもあの少年の重みがなければ、自分は完全に流されてしまっていたに違いない。その少年こそキリストであり、その重さは世界の重さであった。そういう伝説であります。クリストフォロスは、「少年を運ばなければ、守らなければ」、と必死の思いでしたが、そこで逆に不思議にも、神の良き力にまもられていたのです。ヨセフもきっと、何度もそのような経験をしたに違いないと思います。

(6)ボンヘッファーの獄中詩

 ディートリヒ・ボンヘッファーは、ナチス政府に屈しない教会の抵抗運動を起こし、最後にはヒトラー暗殺を企てる地下組織に加わったことが発覚して処刑された人ですが、1944年の年の終わりに、獄中で、ひとつの詩を書き残しております。「主のよき力に守られて」という題がつけられております。この詩の中には、いつ死刑に処せられるかわからない不安と主にある平安がないまぜになっております。また彼にはマリアという若い婚約者がいましたが、そのマリアや家族に会いたいという気持ちがひしひしと伝わってまいります。しかしながら、それにもかかわらず、神がここに自分をおかれたという状況を受け入れて、獄中にある仲間や、看守たちと共に新年を迎えていこう、という信仰があります。年の終わりにあたってみなさんにも紹介したいと思います。こういう詩であります。

「主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、
不思議にも守られ、慰められて、
私はここでの日々を君たちと共に生き、
君たちと共に新年を迎えようとしています。

過ぎ去ろうとしている時は、私の心をなおも悩まし、
悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。
ああ主よ、どうかこのおびえおののく魂に、
あなたが備えている救いを与えてください。

あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦渋にあふれる杯を、
なみなみとついで、差し出すなら、
私たちはそれを恐れず、感謝して、
いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受けましょう。

しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、
この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら、
私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。
私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。

あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、
どうか今こそ暖かく、静かに燃やしてください。
そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度結び合わせてください。
あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、
私たちに聞かせてください。
私たちのまわりに広がる、目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、
あなたのすべての子供たちが高らかにうたう讃美の歌声を。

主のよき力に、不思議にも守られて、
私たちは来たるべきものを安らかに待ち受けます。
神は、朝に、夕に、私たちと共にいるでしょう。
そして、私たちが迎える新しい日々にも、神は必ず、私たちと共にいるでしょう」。
                               (村椿嘉信訳)

 ちなみにこの歌にはさまざまなメロディーがつけられ、讃美歌にもなっています。これから歌います『讃美歌21』の469番は、その一つです。ずっしりとした重みのあるメロディーであり、同時に心暖まる希望を感じさせるいい曲であると思います。 
 みなさんの2004年は、いかがであったでありましょうか。さまざまな思いを秘めながら、私たちも主のよき力に守られていることを信じて、新しい年へと進んでいきましょう。


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