光あれ

創世記1章1〜5節
エフェソの信徒への手紙5章6〜20節
2005年1月2日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)神ははじめに、天地を創造された

 災害の多かった2004年が過ぎ去り、新しい年、2005年は始まりました。この年の初め、聖書の一番初め、創世記の最初の力強い御言葉に耳を傾けて一年を歩みだしましょう。
 「初めに、神は天地を創造された」(1節)。聖書は、そのように始まります。短い言葉ですが、この言葉には深い意味が込められています。創世記第1章は、天地創造について非常に秩序的に語っていますが、はじめにそれを要約して語っている序文のような言葉です。そしてそれは天地創造の序文に留まらず、聖書全体の序文とも言える言葉です。すなわち、これから始まる聖書という書物は一体、どういう神について語るのかが示されるのです。神はこの世界、天地ができる前から存在し、その神によって、この世界が創られたのだということが宣言されているのです。
 ただし当たり前のことですけれども、誰もそれを見た人はいません。他の物語はともかく、この天地創造の物語については、絶対に証人はいません。人間がまだ誰もいないのですから。それでは私たちは、この天地創造の物語を一体どのようにして読めばいいのでしょうか。私は両極端の二通りの誤った読み方を退けなければならないと思います。
 ひとつは、「聖書の言葉には誤りがない」ということを科学的な意味においてとらえ、これを世界が「どのようにしてできたか」というあたかも科学の教科書のような読み方をすることです。キリスト教の「超保守的な」信仰をもつ人々は、聖書と言うのは、神様が言ったことを、誰か霊感を受けた人間が、あたかも操り人形のように、そのまますらすらと書いたと信じています(逐語霊感説)。この人たちは、今日でも世界は文字通りの意味において7日間で造られたと信じ(あるいは信じようとし)、ダーウィンの進化論を躍起になって否定します。ダーウィンの進化論が正しいかどうかは別として、少なくとも、聖書というのは、それに代わるような、あるいは競合するような科学の書物のように読もうとするのは、どう考えても無理がありますし、そうする必要もありません。そういう読み方をする人は、そうしないと聖書の権威が失われるように思えて、一生懸命聖書の権威を守ろうとします。それを否定されると、自分の信仰の土台ががらがらと崩れ落ちてしまうと思われるのでしょう。ですからそのように考えることは、一見信仰的に見えて、かえって不信仰に基づいているのではないかと思うのです。
 聖書というのは、いくら科学と矛盾するように見える言葉で書かれていても、それが神の言葉であるというのはゆるぎません。「聖書は神の言葉である」というのは、もっともっとダイナミックで、同時に柔軟な事柄であります。
 もう一つの誤った読み方は、それと全く逆に、これを単なる古代人の神話と片付けてしまう読み方であります。なぜこういう物語が生まれてきたのかとか、そこに含まれている意味を分析する。それはそれで重要なプロセスですが、そこに深い神の啓示を読み取ろうとしない。今日私に向かって語りかける言葉として読むことができないし、読もうとしない。これもまた別の意味で、不信仰な誤った読み方であると思います。
 聖書は、昔の人が神様の啓示を受けて信仰をもって書き記したものです。その意味で聖書は人間の言葉です(文化や言語に制約されています)。しかしその啓示と信仰によって記された昔の言葉が、今、神が私(私たち)に向かって語られた言葉として響いてくるのです。今も生きて働いている神様は、この人間の言葉という器、道具を用いて、今日の私たちに生きて語りかけてくると信じること。それが「聖書は神の言葉である」と信じるということではないでしょうか。

(2)光の創造

 聖書によれば、神がこの天地を創造されるにあたって、最初に創造されたものは「光」でありました。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分けられた」(3節)。神が最初に創造されたものは光であったということ。このことには深い意味があると思います。
 この光というのは、どうも太陽や月のことではないようです。太陽や月のことは、14節から19節までのところ、第4日目に造られることになっていますので、この第一日目に創造された光というのは、そういう物理的なことではなく、何かもっと根源的なことを指し示しているように思います。神様がこの世界を始められるに当って、最も大切なもの、世界を導くものとして、光を創造されたのです。ですから、これは私たちのこの世界、創られた世界の本質のようなものと言ってもいいのではないでしょうか。それが光なのです。
 そして光を創造された後、それを見て「良し」とされました。これは、後で述べますが、創世記第1章を貫くひとつのスタイルです。
 その先を読んでみますと、「神は光と闇を分け」とあります。おもしろいことに、神は闇を創造されたとも、それを見て「良し」とされたとも書いてありません。光が造られたことによって、光と闇が鮮やかに区別されるようになった、ということでしょうか。
 神が闇を造ったのでないとすれば、一体誰が闇を造ったのか。光を造った神がいるのであれば、闇を造った神もいるのではないか。昔からそういう議論はありました。光と闇を対立させる二元論です。聖書の中でもヨハネによる福音書などは、そういう二元論(グノーシス)の影響を強く受けていますが、聖書の場合にはどんなにその影響を受けていても、光と闇は決して対等ではありません。いつも光が優位に立っている。
 「闇」ということで、わたしたちはサタンの支配、悪霊の支配を考えることができるでしょう。それは決してあなどることはできません。いつも私たちはその力に脅かされています。私たち人間の力よりもはるかに強い力をもっています。しかしその闇も光の前ではくすんでしまう。陰のようなもの、光がない時には、自分が支配者のようにふるまっているけれども、光が登場すれば、退場せざるをえない。それが「闇」の本質です。
 私たちの世界には確かに「闇」が存在します。それは神が創造されたものではありません。しかし神は闇をも支配しておられる。「闇」という言葉で象徴されるもの、悪、災い、病気、死、そういう力が私たちを覆っています。しかし光はそれよりも優位に立っている、と聖書は告げるのです。光、それがこの世界の本質であり、そこに神様の大きな意志が働いているのです。

(3)神の言葉には力がある

 神様の創造は三つのステップで行われていきました。まず言葉が語られて、そしてその言葉どおりに出来事が起こって、さらにそれを見て、神が「良し」とされるのです。言葉と出来事と確認(祝福)、この三段階です。このところでは、「光あれ」という言葉です。その次にその言葉どおりに出来事が起こる。「こうして光があった」。そして最後に、「神はこれを見て、良しとされた」という確認、祝福があるのです。
 神の言葉は必ず出来事を伴う。出来事を引き起こす。言われたとおりのことが起きる。言葉と行為が一つだ。裏切らない。言葉が空しく、空振りに終わらない。それが聖書の世界です。預言者というのは、神の言葉を預かった人たちでした。預言者はいつも「主は、こう言われる」と言って、預言を伝えました。そしてその言葉どおりの出来事が起こっていったのです。
 天使がマリアに告げました。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」(ルカ1:30〜32)。

 マリアは応えました。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(同38節)。

 そうすると、それが出来事になったのです。
 いつか「言葉のインフレ」という話をしたことがあります。今日の世界は、言葉が氾濫しすぎて、一つ一つの言葉に重みがなくなってしまった。それが、空しく通り過ぎていく。そしてまた言葉が信用されない。言葉の絶対価値が下がってしまう。そういう悪循環を指して、言葉のインフレと呼んだのです。
 聖書はそれに対して、神の言葉はそうではない。私たちを裏切らない。それが出来事を引き起こすということを告げるのです。その神から最初に発せられたのが、「光あれ」という言葉でした。私たちも、年の初めに、世界の本質、歴史の本質である、この「光あれ」という言葉を、しっかりと聞き取りたいと思います。

(4)時間の創造

 「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(4〜5節)。光の創造によって、昼と夜が生じました。このことも深い意味があると思います。それはここから時間が始まったということです。それまでは混沌としていたものが昼と夜というメリハリができることによって、一日一日が数えられるものとして始まった。
 天と地という空間が造られる前に、すでに時間が始まっている。このことは聖書においては、歴史というものが非常に大きな意味をもっているということを、指し示していると思います。天地の造り主なる神は、同時に歴史の主、歴史の導き手でもあります。私たちの歴史には始まりがあって、終わりがあるのです。永遠に時間がぐるぐると回っているわけではありません。神様が意志をもって始められた。それがいつであったのかはわかりません。今日の宇宙観の常識からすれば、それはとてつもない大昔だということになるでしょう。それでもかまわなないのです。「いつ」というのは自然科学がある程度、応えてくれるでしょう。聖書が私たちに告げるのは、それとは別次元のことです。いつであるにしろ、とにかくそれは始まりを持つものであり、それは神の意志によって始められたものであるということです。
 私たちは神の始められた時間の中に生きています。そしてその時間はいつか終わります。ただし、再び闇が世界を覆って終わるのではありません。私たちの歴史は光のうちに完成する。ある人はそのことを「もはや夜にならない日が来る」という言い方をしました。暗闇が完全に消えうせ、光が完全に支配する日が来る。それが聖書の世界です。イエス・キリストもそのことを証するために、この世へ来られました。
 主イエスは、こう言われます。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。私たちのこの世界には、まだ闇が残っています。闇の方が濃いように見えます。しかしイエス・キリストのまわりは光が照っているのです。それは来るべき日の先取りのようです。やがて起こることが、そこでぽつぽつと始まっている。終わりの日、世界全体で起こることが、すでにイエス・キリストのまわりでは実現しているのです。

(5)光の子として歩みなさい

 私たちは光を見る時に(さまざまな光がありますが)、神様の創造の業を思い起こしたいと思います。また神様のご意思を思い起こしたいと思います。私たちの世界に光が存在する。それは神が最初に「光あれ」と言われたからです。そこに神の意志があったからです。そうでなければ光は存在しませんでした。私たちはこの光のもと、神の意志のもとで生きていることを感謝したいと思います。
 暗闇の中を歩んでいるように感じている方もあるかも知れません。真っ暗闇ではなくても、自分の人生、生活には翳りがあると感じておられる方は、少なからずあるのではないしょうか。だんだんこの翳りの方が強くなって、やがて自分の人生を覆い尽くしてしまうのではないかと、不安になります。しかし勇気を出して、前を向いて上を向いて、今年も歩んでいきましょう。光が勝つのです。
 自分の病気や家族の病気に耐え切れない気持ちの方もあるかも知れません。生活が破綻してしまって、どうにもならないと思っておられる方もあるかも知れません。しかし勇気を出しましょう。やがて光が全体を覆い尽くす日が来るのです。

「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(ヨハネ12:46)。

 イエス・キリストの言葉です。力強い約束であると思います。
 今日、読んでいただいたエフェソの信徒への手紙5章で、パウロはこう語っています。「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(エフェソ5:6)。私たちの世界にはむなしい言葉が氾濫しています。出来事を伴わない、使い捨てのような言葉が氾濫している。そしてその言葉の方が私たちを揺さぶるのです。私たちはそれに振り回されるのです。しかし「むなしい言葉に惑わされてはなりません」とパウロは語りつつ、このように勧めます。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(同8節)。さらにこう続けます。「光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです」(同9節)。光の本質は何であるか、光が何を生み出すかを的確に語っている言葉であると思います。後半の16節以下では、こう語ります。

「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5:16〜20)。

 天地を造り、時を作られた神様が、この新しい年も、私たちの人生、私たちの世界を、よい方向へと導いてくださることを信じて、この神をほめたたえつつ歩んでまいりましょう。


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