聖なる都

イザヤ書65章17〜20節
ヨハネの黙示録21章22節〜22章5節
2005年3月27日 イースター
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)讃美歌「聖なる都」

 イースター、おめでとうございます。今日は、聖歌隊の方々と器楽の方々が、「聖なる都」The Holy Cityという美しい讃美歌を演奏してくださいました。この曲は、フレデリック・エドワード・ウィーザリー(Frederic Edward Weatherly,1848〜1929)の作詞、スティーヴン・アダムス(Stephen Adams,1844〜1913)の作曲で、1892年にイギリスで出版されたものです。
 ウィーザリーという人は有名な作詞家でたくさんの詞を書き残しました。1500以上の曲が出版されているそうです。讃美歌では、この「聖なる都」以外に、「ベツレヘムの星」(The star of Bethlehem)という曲が有名であり、讃美歌以外では、「ダニー・ボーイ」や「ロンドン橋」などもあります。一方、作曲をしたスティーヴン・アダムスは、本名マイケル・メイブリック(Michael Maybrick)と言って、やはり19世紀終わりから20世紀の初めにかけて活躍した作曲家です。ウィーザリートとの共作も多く、「ベツレヘムの星」もこのコンビで作られた曲です。
 最初にこの「聖なる都」の歌詞を日本語で紹介いたしましょう。

昨夜、私は眠っている時、
美しい夢を見た。
私は昔のエルサレムで
神殿の傍らに立っていた。
私は子どもたちの歌声を聞いた。
天から鳴り響く天使の歌声のようであった。

エルサレムよ、エルサレムよ、
門を開いて歌え。
「いと高きところにホサナ
あなたの王にホサナ」

しかしそこで私の夢は変わった。
通りのにぎやかさは消えうせ、
小さな子どもたちの歌うホサナという
喜びの歌声も消えた。
太陽は不思議にも暗くなり、
夜明けは寒く冷たかった。
十字架の影が
寂しい丘にさしたようであった。

エルサレムよ、エルサレムよ
天使たちが歌うのを聞け
「いと高きところにホサナ
あなたの王にホサナ」

そしてまた情景が変わった。
そこに新しい地が現れたのだ。
静かな海の岸辺に
私は聖なる都を見た。

神の光が通りにさし
門は開け放たれた。
入りたい人は誰でも入ることができ、
断られる者はなかった。
夜は月の光も星の光も必要がなく、
昼も太陽の光を必要としない。
それは、もはや過ぎ去ることがない
新しいエルサレムである。

エルサレムよ、エルサレムよ
夜が過ぎ去ったことを歌え
「いと高きところにホサナ
永遠なるものにホサナ」
(日本語訳:松本敏之)

(2)三つの場面

 この歌は三つの場面から成り立っていますが、これは単に一人の人間の夢というのではなく、聖書に基づいています。聖書に約束された幻(ヴィジョン)だと言ってもいいでしょう。
 最初の場面ではエルサレム神殿のまわりで、子ども大人も楽しそうにしています。子どもたちの声は天使の声のようであった、と言います。それは無垢の状態と言えるかもしれません。そこにはある種のシャローム、神の平和が存在していました。エルサレム神殿のまわりには神の国が実現していたとのです。これは一種の回想です。過去を振り返って、「ああ、あの時代はよかった」と言っているのです。
 エルサレム神殿が完成したのは、ダビデの息子、ソロモン王の時代でした。イスラエルの歴史の頂点、クライマックスでした。その後は悲惨な、苦しみの時代が長く続きます。北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北はアッシリアに滅ぼされ、南はバビロニアに滅ぼされ、イスラエルの民はバビロン捕囚となります。
 第二の場面は、その苦しみの現実を歌っています。ウィーザリーは、それをただ単にイスラエルの苦難の歴史として描くだけではなく、そこにイエス・キリストの十字架の影を重ね合わせました。
 イエス・キリストがこの世界に来られた時、そのまわりには神の国が実現していたと言えるでしょう。イエス・キリストは言われました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:22)。
 子どもたちがそのまわりで喜び、踊りました。ガリラヤの人々も喜びに満たされました。エルサレムの人々も歓喜して、ろばの子に乗ってこられたイエス・キリストをダビデ王の再来、「ダビデの子にホサナ」と言って、出迎えたのです。しかしその喜びはそのまま永遠に続いたわけではありませんでした。断絶があるのです。かつてイエス・キリストご自身が言われたとおりです。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る」(マタイ9:15)。暗い影が差しているのです。
 私たちの人生においてもそのように思える時があるのではないでしょうか。「あの頃はよかった。あの頃、私の人生は輝いていた。しかし今は暗い影が差している。苦しみの中を歩んでいる。できることなら、あの頃に戻りたい。」 
 イスラエルの民もそう思ったのでした。「あのダビデ王のような時代、ソロモン王のような時代をもう一度ください。」しかしイスラエルの民に与えられた答えは、彼らの望みどおりのものではなく、彼らが全く予期していなかったものでした。それが、今日、読んでいただいたイザヤ書65章の預言です。

「見よ、わたしは新しい天と
新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない」
(イザヤ65:17)。

 彼らは失われたものの回復を望んでいたのに、神様が与えると約束されたものは新しい創造でありました。再創造(リクリエーション)と言ってもいいかも知れません。彼らは過去をいつもふりかえり、それをよりどころにして生きていたのに、もうそうする必要がない。過去を忘れることができるというのです。それほど大いなることが起こるということです。

 「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
わたしは創造する。
見よ、わたしはエルサレムを
喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして創造する。
わたしはエルサレムを喜びとし、
わたしの民を楽しみとする。
泣く声、叫ぶ声は、
再びその中に響くことがない」
(イザヤ65:18〜19)。

(3)小羊が都の明かり

 イザヤが語ったこの預言は、ヨハネの黙示録の中に形を変えて、よりはっきりとしたヴィジョンとして再び現れます。それは、今日の歌にも歌われた「聖なる都」エルサレムです。ヨハネはこう語ります。
 「わたしは、都の中に神殿を見なかった」(黙示録21:22)。神殿とは神様が住まわれるところです。聖なる都に神様が住まわれる神殿がないというのは、矛盾ではないでしょうか。そうではありません。「全能者である神、主と小羊が都の神殿だからである」(同22節)。
 なぜ神殿がないのか。それは父なる神様とイエス・キリストご自身が、神殿として、神様の住まいを超えた住まいとして、おられるからです。そしてその都には、「それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(同23節)。小羊とは、イエス・キリストです。イエス・キリストが光として、明かりとして住んでおられる。美しい言葉です。
 私たちのこの世界にもイエス・キリストが隠れた形で住んでおられて、イエス・キリストのまわりは、神の国が実現していたと言いました。しかし来るべき、その聖なる都においては、そういう隠れた形、分かる人にだけ分かるという形ではなくて、すべての人に明らかなように、イエス・キリストのまわりはさんさんと輝いている。それが聖なる都のイメージであります。
 私たちは、この永遠の聖なる都をあこがれて思いつつ、それぞれ自分の時を歩むことを、今許されているのです。皆さんの中には、この第二の場面にありましたように、苦しみ、悲しみ、嘆き、そうした暗い影の中を歩んでいるように思っておられる方もあるでしょう。しかし、それは永遠に続くのではありません。やがて終わりが来る。そしてもっと素晴らしい世界が、私たちの前に立ち現れるというのです。

(4)新しく生まれ変る

 イースターはイエス・キリストが復活し、死の世界を打ち破られたことを記念する日であります。そしてそのイエス・キリストの復活に続いて、私たち一人一人も復活すると、預言されております(Tコリント15:12〜20)。その体が一体どんなものであるかはわかりません。パウロは、そういうことを詮索する人がいるけれども、愚かなことだと言っております(Tコリント15:35〜36)。肉の体が滅んで、霊の体として復活する。それは私たちの想像、すべての概念を超えたものであるから、私たちにはどんなものかわからないはずではないかと言うのです(Tコリント15:42〜43)。
 終わりの日に実現する聖なる都。そのところで、私たちも、新しい体になって迎え入れられるということを、心に留めたいと思います。私たち自身が新しくされて、新しいところに向かって歩み行く勇気を与えられる言葉ではないでしょうか。
 今日は、3人の姉妹が洗礼を受け、一人の若い兄弟が信仰告白をして、新しく出発いたします。パウロは、洗礼というのは、古き自分に死に、新しい人間に生まれ変ることだと言いました(ローマ6:1〜11参照)。この喜びの日、終わりの日を見上げる日に、そうした新生が与えられることを、共にお祝いいたしましょう。


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