主を賛美しつつ

イザヤ書63章7〜9節
コロサイの信徒への手紙1章3〜14節
2005年4月10日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)開かれた教会

 この2005年度、私たちは、昨年度、一昨年度と同じ、「開かれた教会」という年間標語を掲げました。3年も連続で「開かれた教会」という標語を掲げたことには、それが教会の基本姿勢としてとても重要なものであり、しかも1年やそこらで、すぐに実現できるものではないという思いがあります。私にとっては、この経堂緑岡教会で4年目ということになりますが、この標語を掲げて皆さんと共に歩み始める幸いを感謝いたします。「開かれた教会」というのは、私自身の宣教姿勢、宣教モットーを示す言葉でもあります。
 教会というのは、一体どういう場所でしょうか。一つは厳しい現代の社会において、心のオアシス、魂のオアシスのようなところでありましょう。私たちは、日々この世の厳しい社会の中で、競争、戦いのようなことを強いられて生きていますが、教会でその重荷を一旦降ろすことが許されています。そこでイエス・キリストの与えてくださる命の水を飲む。イエス・キリストは、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:14)と言われました。新しく御言葉を聞いて慰めと励ましを得るのです。
 教会は、自分を振りかえる場所でもあります。普段はなかなか自分を振りかえる時間もないかも知れません。あわただしく、あっという間に時間が過ぎてしまいます。私たちは誰でも過去を振り返ります。しかしそれは往々にして「あの時こうすればよかった。こうすればよかった」という単なる後悔のようなことが多いのではないでしょうか。一人で考えていても、堂々巡りで、かえって気が滅入ってしまうこともあります。それは過去を振りかえる準備ができていないのです。だから無意識のうちに、あまり悪いことは振り返らないようにしているという方もあるかも知れません。くよくよしていても仕方がない。それで過去を振り返らずに忘れることによって、前向きに生きようとします。しかしそれでは本当は、過去は解決していません。
 教会というところは、自分の過去ときちんと向き合うことができる場所です。そこできちんと1週間を振り返ることができる。イエス・キリストと向き合うことによって、私たちは自分の暗い過去をすべて、イエス様にお委ねすることが許されるのです。そこでこそ過去を過去のものとすることができる。深い意味で、本当に過去を忘れることが許されるのです。パウロはこう言いました。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13〜14)。

 こういう生き方ができることは素晴らしいことではないでしょうか。
 私たちはそのように教会において過去を振り返り、悔い改めながら、魂のオアシスで憩うことが許されています。ただし教会は、そこで重荷を降ろすだけの場所ではありません。このパウロの言葉に示されているように、私たちはそこで励まされて、前に向かって歩み始める活力を得る。そして再びこの世の真っ只中へと出て行くのです。
 そうした生活というのは、現代人にとって、とりわけ忙しい人にとって必要なものでありましょう。忙しくて教会に行く時間もない。もう少し生活にゆとりができたら、教会でも行って自分を静かに振り返ってみたいと考える人は多いようです。それはそれでいいことでありますが、私はむしろ忙しさの真っ只中にある人こそ、教会で活力を得ることは必要であろうと思います。礼拝に出てぱっと帰る。それだけでもいいと思うのです。そのように生活のリズムを作っていただきたいと思っています。
 それは今教会に来ていない人、関心をもっていない人にとっても同じであろうと思います。本人がそのことに気づいていないだけです。ですからそうしたさまざまな悩みを抱え、痛み傷ついている人たちにとっても、教会が敷居の高い場所ではなく、気軽に来やすい場所であるように、「開かれた教会」であることを伝えていきたいと思います。イエス・キリストは言われました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28〜30)。

(2)ホームページとミニコンサート

 教会がホームページを開設して今年の7月で2年になろうとしていますが、このホームページというのは、「開かれた教会」にふさわしい宣教の業であると思っています。私たちの教会のホームページでは、礼拝の説教を文字にして、それを掲載しています。それを案外多くの人が見ておられるのです。来たくても教会の礼拝に来ることができない海外の教会員、ザルツブルクの田中通恵姉や、ロンドンの柳さんご一家、それから米国ウィンチェスターのウィーバー恵子さんからも、応答のメールをいただきます。また教会員だけではなく、国内外のさまざまなところで、全く見ず知らずの方々が、これを読んでくださっていることに驚かされるのです。
 3月にも、名古屋のカトリック信者の方から、「偶然、貴HPを拝見しました。『これまでの説教』コーナーがとてもよかったです。先生の優しいお人柄があらわれているようで、それをとおして語られるみことばは、心にしみわたるようです」というメールをいただきました。また別のカトリックの神学者(阿部仲麻呂神父)が、ホームページ上の説教をある雑誌(『福音と宣教』)に引用して紹介してくださるということもありました。
 インターネットで、通いやすい教会を検索して、この教会を訪ねたという人もだんだんと増えてきています。それは若い方だけではなく、息子や孫がこの教会を見つけてくれたというケースもありますので、うれしいことであると思います。イースターに初めて来られたある方は、「いつもホームページで説教を読んでいるので、初めて来たという気がしません」と言っておられました。
 ホームページの他に、「開かれた教会」という標語にふさわしいものとして、昨年、一昨年と、新しい試みとして音楽礼拝とミニコンサートを行いました。通常の伝道礼拝よりも、こちらの音楽礼拝の方が大勢の新来者が来られます。音楽の力は偉大なり、と感じます。また聖歌隊がクリスマス礼拝と、イースター礼拝においてすばらしい賛美を聞かせてくださいましたが、この練習に加わるために、毎週主日礼拝に出るようになった若い方々もあります。

(3)歌いつつ歩まん

 今年度はそうしたことを心に留めながら、「開かれた教会」という標語のもとに、「主を賛美しつつ」という副題を掲げて歩むことにしました。「主を賛美する」ことは心が躍ることです。プロテスタント教会の礼拝というのは、どうしても説教中心になりがちですが、礼拝とは説教だけではありません。礼拝の中の重要な要素に、賛美があります。心から賛美すること、それが礼拝の最も基本的な姿勢です。賛美によってここに集ったことを感謝し、御言葉をいただいて、再びその喜びを体中で表現するのです。先ほど歌いました讃美歌第二編194番にはこういう言葉がありました。

「ほめよ、ほめよ、神の愛を
うたえ、うたえ、主のみわざを
そのみわざにあらわれし
父なる神の恵みを」

 歌を歌うということは、私たちが生きる中で、非常に大事な意味をもっていると思います。それによって、心だけではなく、体の健康も保たれるのではないでしょうか。私が通った小学校の音楽室には「心に太陽を、唇に歌を」という言葉が掲げられていましたが、大人になるとなかなか歌を歌う機会がありません。特に私の世代のような者にとっては、「歌を歌うなんていうのはカラオケ位かな」と聞きます。その点で、教会では毎週、心から賛美する機会が与えられているというのはすばらしいことであると思います。
 私の好きな讃美歌の一つに『聖歌』の中の「歌いつつ歩まん」という曲があります。今日は余程これを選ぼうかと思いましたが、讃美歌練習をする時間がありませんでしたので、やめました。こういう歌詞です。

「歌いつつ歩まん」(新聖歌325、聖歌498)
「主にすがるわれに 悩みはなし
十字架のみもとに 荷をおろせば
歌いつつ歩まん
ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん この世の旅路を

恐れは変わりて 祈りとなり
嘆きは変わりて 歌となりぬ
歌いつつ歩まん
ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん この世の旅路を」

 この歌の通りに、この年度を歌いつつ歩んで行きたいと願っているのです。

(4)詩編、賛歌、霊的な歌

 今年度は、この「主を賛美しつつ」という標語を念頭において、コロサイの信徒への手紙3章16節を年間聖句として、掲げました。新しい週報の第一面に印刷されていますので、それをご覧くださるといいでしょう。例年、旧約聖書と新約聖書の両方から選んでいますが、これは1節で比較的長い聖句でもありますので、今年は例外的にこれだけにいたしました。
 この中に「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」とあります。「詩編と賛歌と霊的な歌」この三つを分けて書いてある。おもしろい表現だと思いました。
(a)詩編
 詩編を歌う。ユダヤ教の伝統においても、あるいはキリスト教会においても、昔から詩編にあるメロディーをつけて歌うという習慣があったようです。宗教改革者カルヴァンも、これを大事にいたしました。カルヴァンという人は、礼拝の中でいろんな賛美歌、特に情熱的な歌を歌うことを好みませんでしたが、詩編に素朴なメロディーをつけて歌うことは推奨しました。ですからカルヴァンの改革派の教会においては、例えハインリヒ・シュッツといった作曲家がたくさんのすばらしい詩編歌を書き残しました。
 詩編を歌うということは、今日でもドイツの教会やブラジルの教会ではよくあることです。日本でもカトリック教会では詩編にメロディーをつけて歌うということは以前からあったようです。私たちにはあまりそういう伝統がなかったのですが、『讃美歌21』が編纂された時に、詩編を歌うことを積極的に礼拝で取り入れようということで、この『讃美歌21』には詩編に基づいた歌がたくさん収めらました。113番から172番まで、実に60曲もの「詩編と頌歌」があります。そのすぐ後の173番から183番までの11曲も頌歌と名づけられていて、これも詩編に準ずるものであり、聖書の言葉をそのまま歌う歌です。さらにその後、184番から201番は「聖書の歌」と題されていて、聖書の物語をそのまま音楽にしたものです。これらは84曲にわたって、「聖書を歌う」ということを取り入れているわけです。このことは、『讃美歌21』が(個人の愛唱歌集であるよりも)礼拝のための讃美歌集であるという編集方針を色濃く表しているものであると思います。
(b)賛歌
 詩編の次に「賛歌」とあります。これは、今日の私たちの讃美歌に近いものとお考えくださるとよいのではないでしょうか。聖書の言葉に基づいてはいるけれども、聖書そのものではない。きちんとした作詞者がいる。(前述のものは、聖書そのものが作詞者です)。私たちは、こうした歌を昔から歌ってきているのです。
 音楽、歌と言うのは、礼拝共同体の最初の時代からありました。楽譜がなかっただけです。それを耳で聞いて、それを口伝えで伝承されてきましたので、それがどんなメロディーでどういう風に歌われていたのか、わからないわけですが、礼拝共同体は最初から歌と共にあり、歌と共に成長してきたということを強く思うのです。
 私はご承知のようにブラジルに長くいました。ブラジルでは解放の神学というひとつの運動が20世紀後半の大きな流れでありましたが、この解放の神学は、日本では理論というか、神学としてだけ伝わってくることが多いのですが、この解放の神学も机上の神学ではなく、礼拝共同体の中から歌と共に歩んできて、民衆を巻き込んでいったのだということを、私は現場で実感しました。
(c)霊的な歌
 さらにコロサイの信徒への手紙は、「霊的な歌」という風に言っています。「霊的な歌」とは一体なんでしょうか。私は、今日のゴスペルやスピリチュアルというのは、この「霊的な歌」の系譜に属するのではないかと思います。賛歌は、聖書そのものを歌うことよりも歌詞など自由ですが、この「霊的な歌」は、もう一つ私たちの方に引き寄せたような感じです。もっと自由に、魂を注ぎだすような主観的な信仰の歌です。信仰の応答のような歌です。もちろんそれは今日のゴスペルやスピリチュアルと全く違ったものであったでしょうが、教会は最初の時代から「霊的な歌」を歌っていたのです。私はそのことを、何気ない一言から興味深く思うのです。
 そのようにして「詩編」「賛歌」「霊的な歌」という三種類の讃美歌が歌われてきたのです。もちろんこの三つには線が引けるわけではありません。その中間のようなものもあります。そのように私たちは、いろんな形の賛美歌をもって神様を賛美することが許されているのは、幸いなことであると思います。

(5)キリストの言葉を蓄える

 さてこの聖句には、前半があります。「キリストの言葉があなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい。」創立75周年の記念礼拝の記念品として、今革製のしおりを準備していますが、そのしおりには、この言葉をプリントしました。キリストの言葉を内に蓄えていく。その時はその意味がわからないかも知れないけれども、それがどんどん、どんどん蓄積されていく。何か困難に直面した時、その蓄えたキリストの言葉が私たちのうちで信仰の栄養となって、私たちを生かしてくれるようになるのです。

(6)愛こそがきずな

 「知恵を尽くして互いに教え、諭し合いなさい」。教会が開かれた教会であるということは、外に向かって開かれた教会であると同時に、いやそれ以前に、教会員同士がお互いに開かれたものでなければならないであろうと思います。そのためには、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合う」ことが必要です。時に議論をぶつけ合うこともあるでしょう。しかしながら神様の導きとお互いの信頼がある時にはじめて、一つになって、共同体が生かされていくのだと思います。
 今日、読みました聖書の中にこういう言葉がありました。

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3章13〜14節)。

 ただ単に教え、諭し合うだけではない。忍び合い、赦し合って生きる。そうしたことが私たちの共同体を本当に生かしていくのだと思います。そしてこう続けます。「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(14節)。新年度を歩み始めるに当り、それぞれに思うところがあるでしょう。教会をどのように形成していくか、あるいは自分の生活をどのように整えていくか。その最も基本的なところで、私たちは、このみ言葉を携え、「主を賛美しつつ」歩んでいきましょう。


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